山田信一
黒塗りの高級セダンから、数人の男女が降り立った。迎える農園組には尚人の顔もある。夜っぴてギターを弾いていた彼は、窓から眺めた農園の異変に気づき急いで駆け付けていた。見覚えのある顔は美代子と写真で見知った元市長だけ。他はきっと両親だなと、小野木は推測した。
「こちらの責任者はあなたですか」
五十代半ばの女が身を乗り出して言った。
「誰だ? このおばはんは」
義信の母親にしては、父親らしき男とのバランスが取れないな、と思い小野木が少年達に訊ねる。
「しいっ、教頭だよ。あいつの叔母さんなんだってさ」
尚人が唇に人差し指を当てたが、もう遅い。
「ほう、だから横山が贔屓してたのか」
声を潜めることもなければ微塵の配慮もない。聞えよがしに話す小野木に、教頭は不快感を顕わにした。
「ああ、俺だよ。小野木淳一ってんだ。で、教育者たるあんたは自己紹介もなしかい」
「何で、あなた達はこんな時間に、こんなところに居るんです」
雄一郎達をみとめた教頭が強い口調で叱責を飛ばす。おばはん呼ばわりされた怒りが飛び火したようだ。確かに中学生が出歩くに相応しい時間ではなかった。
「こいつらは、消火活動に賭けつけてくれたんだ。おばは――じゃない、お宅の中学はボランティアの精神も叩きこんでいるようだな。いや感心感心」
相変わらず人を食ったような受け答えの小野木だった。
「私はN西中の教頭を務める山崎文子といいます。山田君はどこに居るんですか」
彼女の常識の範疇において、どう見てもまともな人間に見えない男との会話などに意味などないと考え、来訪の目的を告げた。
「あの穴ん中だ。深いから縄梯子持ってこねえと上げてやれねえぞ。おい、頼む」
「あいさー」
小野木の指示で雄一郎が走り去る。
「一体、ここはどうゆうところなんです? 以前にはうちの横山が酷い目に合わされたと聞いておりますし、こんな時間にうちの生徒が出入りしている。間宮先生の説明だけでは要領を得ません」
小野木は彼等に囲まれて心細げに立っている美代子に目をやった。確か小僧の親父も市の教育家に籍を置いているといったな。そして教頭が叔母で元市長が爺さんとくれば、さぞや肩身の狭い相乗りだったことだろう。
「しかも、山田君が放火ですって? デタラメにも程があります。間宮先生をどう手懐けたのかは知りませんが、私達はそうは行きませんよ」
「デタラメだと? こら、おばはんっ! 誰にもの言ってやがる」
役人を真似、のらりくらりとした対応で教頭をエキサイトさせてやろうとした小野木の目論見を生来の短気が霧散させた。教頭に向かって足を踏み出そうとする小野木を、雄一郎と尚人が慌てて取り押さえた。
「待ちなさい」 教頭の背後から声が上がった。老人が姿を現す。
「山田信一と申します。保護していただいた義信の祖父です、いや、詳しい自己紹介は必要ないかも知れませんな。姪の暴言は私がお詫びします」
「ええ、よく存じ上げておりますとも。さすがに元市長さんともなれば私みたいなスチャラカ市民相手でも礼儀と言葉遣いを心得ておいでだ」
主役のお出ましか、冷静にならねばな。淳一は脈拍の安定に意識を集中させた。
「お父さん、保護だなんて。いつかも網にかけられたり――」「そうです、うちの生徒達をこんな時間に――」
「お前達は黙ってなさい。私は小野木さんと話しているのだ」
口を挟もうとする昭信と教頭を、静かだが有無を言わせない厳格さで山田真一が制した。穴から引き上げられた義信は父親の背後に回ると、身に纏っていた毛布をかなぐり捨てる。
「それで、間宮先生がおっしゃったことは本当なのでしょうか。お宅の納屋に火を点けたのが義信だと聞かされておりますが」
「お疑いですか? こいつも、その小僧――じゃないや、お孫さんがそう言ったのを聞いてるんですがね」
小野木に指差された雄一郎が無言で頷く。
「俺はそんなこと言ってないっ、バイクを見せてもらおうと忍び込んだのは悪いけど、放火なんかするもんかっ」
往生際の悪いガキだな。加勢の到着に勢いを取り戻して叫ぶ少年に、人差し指を数回振って見せると小野木は雄一郎に顎をしゃくってみせる。
「おい」
「うん」穴から拾い上げたペットボトルを雄一郎が差し出す。それを受け取った小野木がキャップを緩めて地面に少しこぼすとシンナー臭が広がった。次に上着のポケットからICレコーダーを取り出して再生ボタンを押した。
――もう少しで母屋にも火を点けてやれるところだったのに――
「こちとら、ミステリーごっこは飽き飽きしてんだよ。そいつの了解なくして録音したものは証拠にならないとか、ペットボトルの指紋がどうとか言い出さないでくれよな」
山田信一を除く全員の視線が義信に集まった。少年は虚ろな目線を足元に落とした。
「文子さん、昭信、義信を連れて先に戻ってなさい。私は少し小野木さんと話がある。よろしいですかな?」
「あなた以外にまともな話が出来る相手も居ないようですしね。承りましょう」
少年の父親は、放火犯として確定してしまった息子を犯行現場から遠ざけたい一心なようだ。振り返ることもなくセダンに乗り込むと、そそくさと車を発進させた。
「お前らも、もう帰れ。明日も学校だろう」
「でも……」
煮え切らない返事の二人を安心させようと、小野木は努めて明るい口調で言った。
「なにも心配するこたあない。火も消えたしな」
それでも動こうとしない二人に、頼む、と美代子に目配せ送った。
「本当に大丈夫なのね」
美代子がすれ違いざまに囁く。
「ああ、任せとけって。おっと、美代ちゃんも置いてかれちゃった訳か、これを使ってくれ」
淳一はRV車のキーをポケットから取り出して美代子に渡した。キーを受け取った美代子はすぐに手を離さず、小野木の手を強く握りしめた。
「中へどうぞ」
招き入れたリビングの中央に座布団を敷き、小野木と山田信一が向き合って座る。
「改めての御挨拶は控えさせていただきましょう。私の身辺調査は行き届いているようですし」
意図を読み取らせない笑顔だった。一度は屈服させた相手だが、仮にも市長まで務めた男だ。知略にも長けていよう、老人だからと侮ってはいけない。小野木は気を引き締めた。
ええ、と短く答え、話の続きを待つ。
「誠にお恥ずかしい次第です。私は息子の育て方も孫のそれも間違ったようです。仕事漬けで家庭を顧みることのなかった報いなのでしょうな。それと先日の件に関する配慮にもお礼を述べたいと思います」
真っ白になった頭髪を後ろに撫でつけた山田信一が両手をついて深々と頭を下げた。七十八歳になるはずの彼だったが、その矍鑠たる立ち振舞いと穏やかで気品のある物腰には、やはり他を圧倒するものがある。気圧されるまい、顔を上げた老人の目を真っ直ぐに見つめて小野木は答えた。
「あれは私の判断ではありません。覚えておいででしょうか加藤高祐さんを。あの人の息子があなたを許したんですよ」
「勿論、覚えておりますとも。忘れることなどできません。若気の至りとは言え、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やんでおります。歳を取って振り返る人生は恥ずかしいことばかりでしてな。先日、私は加藤頼子さんに逢って全てを話しました。許してはいただけませんでしたがね。ご霊前にとお持ちした供え物も突き返されました」
低い声で自嘲気味に笑う老人の告白が意外だった。頬冠りしようと思えば出来るスキャンダルのはずだ。告発の保留を後日ゆすりのネタにでもされると思ったのだろうか。だとすれば不本意な小野木であった。
「あなた方にも多少の誤解――解釈の違いとでも申しますかな、それがあるようです。聞いていただけるのなら全てをお話したいと思います」
「伺います」老人の瞳に並々ならぬ決意を見たように思え、小野木は居住まいを正した。
「私も前身は教育者です。幾度、陳情をすれど一向に改善されない教育環境と市民生活に業を煮やし、地域のため、子供達のためにと政治家を志したのです。しかし飛び込んだ市政の世界は、それは醜い物でした。そんな内情に怒り、理想論を振りかざし、改革を声高に叫びました。しかし議会も地元企業もそっぽを向くのみで、彼等との摩擦や確執は増すばかりでした。予想した以上に酷かった赤字財政のこの市では、彼等の協力なしで道路ひとつ作ることも出来なかったのです」
この老人が、直接紗江子に苦しみを背負わせた訳ではない、だが、過去に話が及べば、どうしても彼女の顔が思い浮かぶ。それがどうした。結局、賄賂に手を染めることになったのだろう。怒りや猜疑心を捨てて話を聞こうとするのだが、どうしても尖った感情が顔を覗かせていた。
「市の半分を山地が占めるこの町の地場産業は農業です。天候や災害に大きく左右される収穫に収入を全面的に依存せねばならない農家が、安定した収益を上げるのは困難です。そして彼等は非常に排他的でした。隣人同士の助け合いや、収入の安定を計るための設備投資など念頭にないような発言を繰り返すばかりでした。そんな彼等を見るにつけ、私は暗澹たる思いとなったものです。国や自治体の補助を当てにするだけの経営者さえ見られました」
小野木は土壌改良を教わりに行った時のことを思い出した。どの農家を訊ねても『経験が物を言う』そんな回答しかもらえなかった。その記憶が山田信一の発言を裏付けていた。
「そこで私は新たな企業の誘致を考えたのです。大規模な工場を必要とする企業を誘致すれば税収も雇用も増える。工事を請け負った建設業者も潤います。問題となったのは工事の入札です。体力のない業者が当座の苦境をしのぐため、とんでもない金額で落札してしまう恐れもあります。結果どうなります? 工期の遅れが誘致に応えてくれた企業に迷惑をかけ、ひいては市民の生活を脅かすことにもなるのです。談合イコール悪いといったイメージが定着していますが、小さな建設業者一社のために市民全体の未来まで道連れにする訳には行かなかったのですよ」
つい先日、少年達に必要悪を認めるなと言った手前、容易に頷く訳に行かない小野木だったが、老人の言葉には認めざるを得ない部分もあった。
「市議程度でもそれぞれに地盤は持っており、応援してくれる建設会社などの企業もあります。意見のとりまとめのためには、緩衝材をばらまく必要があったです。聞こえのいい言葉は止めましょう。その機能を果たしてくれるものは金です。哀しいことに我が国の政治の体質は、こんな小さな議会から国政までもが右にならえで、未だそれ以外の手段を見出すに至っておりません。加藤高祐君には、その役目を担ってもらったのです。彼は、市民のためを思って汚れ役を引き受けてくれたのでしょう。亡くなった永田君は御存じですね。彼の認識がどうであれ、私は加藤君に自殺を示唆した訳ではありません。私が彼に頭を下げてお願いしたのは引責辞任でした。重い決断でしたが、あの時点でスキャンダルが議会全体を巻き込んだものであることが露呈すれば、企業誘致は白紙に戻ってしまいます。彼が全ての罪を彼に引き受けてくれたことで、目的を達成することができたのです」
金の流れや仕組みは掴めても、それに関わった人々の心情までは分かるものではない。山田信一の語る事実が淳一のわだかまりを熔かしてゆく。『人を見ろ』斎藤に、祐二にと口うるさく語った自分自身の言葉を小野木は反芻していた。
「しかし、加藤君も彼なりの理想を抱いて飛び込んだ世界だったはずです。プライドもあったでしょう。彼の細やかな神経が犯罪者扱いに耐えられなかったのかも知れません。あのような最悪の結末を招いてしまいました。私は忸怩たる思いを噛みしめたものです。あなた方の調べがどこまで及んでいるのかは分かりませんが、事件を告発したのは、地盤に建設業者を持たず、言葉は悪いが、所謂おこぼれに預かることのなかった一人の議員です。彼にも恩恵が行き渡っていたなら、あの事件は明るみにでることもなく、辛く哀しい思いをさせることになった人々も、もっと少なくて済んだはずです。実際、この程度の工作は、どこの自治体でも日常的に行われていることです」
その通りなのだろう、利権が権力者の行動原理であることは周知の事実だ。しかしそれを以て私腹を肥やすことに躍起になる人間と、悪事に手を染めねばならない状況に苦しみながらも、市政のために全てを費やす人間とは自ずと品性が異なる。祐二が告発を思い留まってくれて良かった。小野木は彼の成長を再び喜んでいた。
「不遜だと思われようと、私は今でもあれが過ちであるとは思っておりません。水清ければ魚棲まずとも言います。企業であれ、政治の世界であれ組織のトップに立つものには、清濁合わせ呑む度量が必要だったのです。それが理解出来た頃、皮肉なことに理想の灯は遥か彼方に遠のいておりました。強がる訳ではありません。あなた方の送った文書に屈服した訳ではないのです。あの事件では、亡くなった加藤君だけでなく、他にも進んで泥水を呑んでくれた方々が居られます。彼等の払った犠牲を無駄にしないために、私は口を閉ざしたのです。追及が私一人で済むものなら、とうに告白しておりました。ですがようやくそれも終わりました。今や市政は安定しております。孫の愚行が良いきっかけとなりましたよ」
紗江子の、或いは祐二の側からしか事件を見ることのなかった小野木にとって、老人の告白は衝撃的だった。物事には多様な側面がある。視点を変えて眺めてみろ。普段、少年達に口を酸っぱくして言い続けた言葉を自らの胸に小野木は抱いていた。猜疑心もこだわりも消え去っていた。
「私がこんな話をしたのは、孫の告発を猶予してもらおうとしたためではありません。義信の処遇は小野木さんにお任せします。放火犯として罪を償うことは、あれにとってよい経験となることでしょう。そして、義信をそう育てた息子夫婦にも、彼の横暴を見過ごし続けた叔母にもよい教訓となることでしょう」
諦観したような表情で穏やかに語る老人に、小野木は初めて笑顔を向けた。
「お話を窺う以前より、お孫さんの告発は考えておりませんでした。人を憎むことの虚しさは理解してるつもりです。そして今のお話で多くの間違いにも気付かせていただけました。改めてお礼を申し上げます」
手をついて頭を下げる小野木に山田信一は顔を綻ばせた。
「頭を上げて下さい。孫を許されたから言うのではありませんが、あなたはお若いのによく世間を御存じだ。随分苦労されたのでしょうな」
「いいえ、どちらかといえば、その正反対に位置する人間です。己が欲望のままに生き、人を苦しめる事が多かったと思います。罪を償うべき人生を課せられ、それを放り出すことを思い留まらせてくれた人のためにも憎しみは持つまいと誓ったのです。ただ精神的に未成熟の少年達の感情までをも私がねじ曲げる訳にはまいりません。また悪意はなくとも彼等がうっかり口をすべらせるやも知れません。お孫さんには辛い学校生活になるかと思いますが」
「御心配、傷み入ります。義信は転校させようと思います。甥が中高一貫の全寮制の学園を経営しておりましてね、そこへ行かせるつもりです。規律の厳しい所だそうです。自分を見つめ直す良い機会となってくれればと思います。」
そう言うと、山田信一は冷めた茶を飲み干した。
「風変りだが、野に埋もれさせておくには惜しい人だ。ここも私塾にしておくには勿体ない。先ほどの少年達の目を見れば分かります。今からでも教職を志してみようとは思いませんか。及ばずながらこの年寄りが力になれると思いますが」
「買い被らないで下さい。場当たり的発言に終始し、直情径行型の私であると自覚しております。人に物を教えるような人間ではありません。あれは少年達の素養がさせているのです。それに良い教師は姪御さんの学校にも居られます。盗み聞きの悪いクセはあるようですが――」
小野木はふっと笑うと裏口に向けて声を発した。
「出て来いよ、美代ちゃん。居るんだろ」
軋み音と共に木製のドアが開き、罰の悪そうな顔をした美代子が顔を覗かせる。
「すいません、挨拶だけして帰ろうと思ったんですが、つい……」
彼女も生徒達の信頼を得ている一人です。どの生徒にも分け隔てなく愛情を注ごうとする姿勢は私も見習わねばと思っております。大人達の作為や欺瞞、そういったものに子供は敏感ですからね」




