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斎藤、来《きた》る

 夏の陽射しが木々の隙間をかいくぐって背中に照りつける。汗だくになって急な階段 ―― 踏み固められた土が雨で流れ落ちない程度に丸太を渡しただけのそれを階段と呼べればの話だか。それを登り切って開かれた山の中腹にたどり着いた時、斎藤博は疲れ切っていた。素肌に張り付いたワイシャツが不快感を助長する。

「おう、来たか。なんだ、車じゃなかったのか?」

 三角屋根をした建物の脇で薪割りをしていた小野木が斎藤に気づいた。温くなったペットボトルのお茶を喉に流し込んでから、斎藤は登って来たところを指差す。

「だってベガ農園入口って、ここしかなかったじゃないすか。下に停めてきましたよ。しかも階段はあんな急だし、俺はもう死ぬかと思ったっす。あれ? この車やバイクはどうやって上げたんすか?」

 ガレージと思しき建物に、エンジンの降ろされた車や分解されたコンバインが、シルバーの燃料タンクに太陽の光を受け燦々と輝くハーレーや赤いオフロードバイクも見られた。

 着古したTシャツにジーンズ姿の小野木が、真っ黒に日焼けした顔で愉快そうに笑った。いや、真っ黒に見えたのは顔を覆うヒゲのせいだったのかも知れない。

「お前も引っかかったか。門扉に騙し絵を描いてあるんだよ。そっちなら車も通れるぞ。寄付とか物売りとかがやってこねえようにしてあるんだ。注意力の乏しい連中がアレにひっかかるんだ」

 小野木が昔交際していた美大生に表現の場を与えたのだった。2メートル×3メートルのアルミ扉に描かれたトリックアートは、注意深く見ないと周囲の山肌と同化してわからない。

「人ばらいのためっすか、ったく、本当に人間嫌いなんだから。だったらどうしてあんなにたくさんの女性と付き合ってきたんすか」

「あんなにって、お前が知ってるのは数人じゃねえか。それに彼女達は人間じゃない、俺にとっては天使なんだ」

「あー、もうなんとでも言ってください。しかし何でまたこんな田舎に引き込んじゃったんすか。社長は戻ってこいっていってたじゃないすか」

「会社の後輩で親の果樹園を継いだのが居たんだよ。言わなかったか?」

「聞いたような記憶はあるっす。それがこの田舎暮らしと何の関係があるんすか?」

 疲労と流れ出る汗が斎藤を仏頂面にさせる。

「親が手を広げ過ぎて面倒見切れないから俺に手伝ってくれって、いってたんだ。後輩に使われるのも癪だから山を一つ買っちまったぜ。おふくろも死んだし娘達もそれぞれ家を出てったしな。ここが俺の第二の人生だ。紗江子の故郷だし俺には肉体労働の方が向いている。なにより、ここは星がよく見える」

「星っすか」

 何を 乙女チックなことをいってるんだ、この熊男め。斎藤はそう思ったが口にはしないでいた。この偏屈な男に頼みごとがあったからだ。

「カジさんまで引っ張りこんじゃったんすよね? 祐さんもぼやいてましたよ、まだ教わりたいことがたくさんあったのにって」

「彼は勝手に来たんだよ。人の粗探しばかりに疲れたから、今度は自然相手の仕事がしたいってさ。しかし俺は助かってる。彼があんなに多芸だとは思わなかった。そこの車も農機もカジさんが頼まれて修理してるんだ。それにあれ」

 小野木が指差す方向に斎藤が顔を向けると、真新しいログハウスが建っているのが見えた。

「あれもカジさんが建てたんだ。勿論、俺も手伝ったけどな」

 自慢げに胸を張る。元々筋肉質だった小野木の胸板は、農作業で一段と厚みを増していた。大山興信所時代のカジの噂は、斎藤の勤める富士ノベルテックでも聞いていたし紗江子の葬儀の場でも紹介されて挨拶を交わしていた。

「田舎暮らしが静かなブームだとかいってるけど、こんなもの採算は合うんすか?」

「採算なんか合う訳ねえさ。でかい台風や冷害で梨が売り物にならない年もあるそうだからな。今んとこ、うちはそんな悲惨な目にはあってないがな。知ってるか? 梨の花の受粉っ、養蜂家を頼んでやるんだぞ。あの時期、そうでもしないと蜂はみんな桜の木に飛んでっちまうそうだ。お陰で俺は散々刺されちまったぜ。それにも金がかかる。まあ食ってくだけで精一杯ってとこだな。ただ、野菜と卵は買わなくっていい。畑も果樹園も手はかかるが楽しいぞ。来年あたりからブドウも育ててみようかと思ってるんだ。ところで頼んだものは持ってきてくれたのか」

 そういって鶏舎と大きなトマトが目につく畑を指差す。斎藤は小野木が蜜蜂に追われて逃げ回る様を想像し、いい気味だ、と腹の中で笑った。

「ハムとベーコンでしょ? ここに」

 ビニール製の袋を差し出す。小野木の顔が輝いた。

「ありがたい、肉だけは作れなくってな。いや、牛や豚を飼おうかって話もカジさんとしたんだけど、食うとなると殺さないといけねえだろ? それが可哀想で諦めたんだ」

 ヒゲもじゃ熊男のクセに家畜が可哀想で殺せないだと? とことん掴みどころのない男だな、と斎藤は呆れる。

 紗江子との死別から二年、四十二歳になった小野木は、彼女の故郷である中ノ原市で農園を営んでいた。ガレージに鶏舎に野菜畑にと多岐に及ぶ景観は純粋な果樹園には見えない。山を開いて住宅でも作ろうというのか、造成中の工事現場みたいなところまである。

 小野木の短く鋭い口笛に、離し飼いにされているらしいニ頭の犬が走り寄ってきて彼の足元に寄りそった。

「でかい犬っすね。噛みつかないっすか」

「おう、ちゃんと訓練してある。そっちの黒いイケメンがジェリーで、チョコレート色の別嬪さんがホリーだ。お前ら斎藤に挨拶しろ」

 小野木の合図でニ頭が、斎藤に飛びついた。うわっ、と叫ぶと斎藤はあっという間に押し倒されていた。

「助けてくださーい、俺は犬が苦手なんすよぉ」

 犬達はじゃれているつもりなのだろうが、喰い殺されそうに感じた斎藤は悲鳴を上げる。

「美味そうだけど、そいつは食い物じゃない。離れろ」

 くっくっと笑いながら小野木がそういうと、ニ頭はさっと斎藤から離れて小野木の傍らへと戻る。

「勘弁してくださいよ、顔中べろべろと舐められちゃったじゃないっすか」

「こいつらなりの歓迎なんだ。おっと立ち話もなんだな、中へ入れよ」

 ようやく母屋らしき建物に案内される。古びてはいるがこちらもログハウスだった。左手奥にあるリビングにすすめられるままに腰を下ろす。メゾネット部分が寝室なのだろうか、斎藤は室内を見回す。真っ黒に塗られた天井からぶらさがった鉄棒と手摺にしては低すぎる位置に打ち付けられたパイプ、部屋の中央には消臭ポッドみたいな物以外何も置かれていない。そんな殺風景さを不審に思ったが、小野木のすることは常識人の自分には理解できない、と疑問を頭の隅に追いやった。

「ビールでいいか? おっと車だったな、じゃあノンアルコールだ。お前、かおるちゃんとはどうなったんだ」

 小野木は冷蔵庫から取り出した缶を放り投げる。斎藤は両手で不細工に受け取った。ハンドメイドらしきテーブルを挟み、同じくハンドメイドらしい硬い椅子に腰をおろした。

「一昨年の夏に結婚しましたよ。ジュンさんにも招待状を出したんすよ。何で来てくれなかったんすか?」

「ああ……その頃だと、おふくろが死んでバタバタしてた時期だな。住所変更もほったらかしにして、こっちに来ちゃってたからな。おめでとう、祝儀は後でやる」

「いいっすよ、そんなもん」

「しかし、お前また太ったんじゃねえのか? そんな体してるから、あの程度の階段で死ぬとか言い出すんだぞ」

「幸せ太りってヤツっすかねえ、それに俺ももう三十っす。あの急斜面はキツイっすよ」

「一つ教えといてやろう。幸せ太りなんてのはな、もがれた果実が傷みゆく様を遠まわしに表現したもんなんだ。本音は妻帯者になったあなたにはもはや男性としての魅力はありません。そう言われてんだよ」

「ジュンさんだって、紗江ちゃんと結婚しようとしてたじゃないっすか」

 斎藤は反論を試みる。

「お前は俺の話を聞いてねえのか? 紗江子は天使だ。天使がもいだ果実が傷むはずねえだろうが」

 こんなデタラメな理屈でも自信満々に語られると納得してしまいそうになる。斎藤は己の価値観まで揺らいでしまいそうな危機感を覚え心の耳を閉ざすことにした。

 紗江子の葬儀で挨拶を交わした小野木の別れた妻も、写真でしか見ていないが元カノの尚子という女性も美しい女性だった。何の哲学も持たず自由気ままに生きるこんな男を、なんであの女性達は愛せたのだろう。不思議で仕方がなかった。あのヒゲから何やら妖しげなフェロモンでも出ているのではないだろうか、半ば真剣に考えてしまう斎藤だった。

「ところで、逢って話すっていってた用件は何なんだ? 犬に舐められに来た訳じゃあるまい」

 あんたがけしかけたんじゃないか。喉まで出かけた言葉をノンアルコールビールで飲み込んでタオルを渡してくる小野木に身を乗り出した。

「そうそう、それなんっすよ、もう大変なんっすから」

 随分前に亡くなった落語家のような口調で斎藤が話し始めた。



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