密事
「おはようございます。早起きなのね」
ベッドの脇で小野木が動く物音に美代子は目を覚ました。時計は七時を少し回っていた。
「あ、起こしちゃったか? ごめん、おはよう。農家の朝は早いんだよ。犬や鶏の世話もしなきゃいけねえしな。俺はもう犬達と一緒に走ってきたぞ。朝飯ももうすぐ出来る。食ってくだろ? パンとコーヒーでいいかな」
「ありがとう、でも私コーヒーは飲めないの」
「じゃあ、ローズヒップティーがある。風呂も沸いてるし、ええと……」
言い難いことを口にしようとしているのか、小野木はしきりと頭を掻き毟る。
「よもや着替えなんか持ってきてねえよな、そこの籠に安物だけど下着とスエットを入れておいた。洋服は下にあるクローゼットの中のを着てくれていい。多分、サイズも合うと思う」
いかにも手回しが良過ぎる。この男はこんな風に何度も女性を連れ込んでいるのか。苦々しい顔になった美代子に、小野木が苦笑しながら弁明する。
「変な気を回すなよ。全部、死んだ婚約者のだ。捨てらんなくってな」
言葉にしなかったとはいえ、誤った非難をしたことを美代子は少し後悔した。
「洋服まで、お借り出来ないわ」
昨日、一日着て汗をかいたブラウスに袖を通すのは憂鬱だったが、亡くなった婚約者の洋服までをも借りるのは気が引けた。
「そろそろガキどもが来る。昨日のままの服じゃあ、お泊りがバレるぞ。俺は構わないけど担任としてはまずいだろう」
そうだった……起きぬけで回らない頭と、気怠さの残る体が、本来の思考にベールをかけている。それを差し引いても小野木の指摘したことには気づくべき、自分は教育者なのだから。美代子は自戒する。
「それじゃあ、遠慮なくお借りします」
それにしても小野木の配慮には驚く。乱暴の物言いとガサツな振舞いに覆い隠された繊細さは、第一印象との大きな落差を美代子に感じさせた。
繊細 ――自分自身が思い浮かべた言葉に昨夜の密事がフラッシュバックされる。武骨な外見からは想像もつかないような繊細さで美代子に触れ、何度もヒゲが痛くないかと訊ねられた。そして指先で、掌で、唇で、丁寧に愛撫された。壊れものを扱うかのようなそれに、美代子は我を忘れて嬌声を上げ続け、誘われるまま何度も昇りつめてしまった。とろけてしまう、そんな感覚に支配され、いつ眠りにおちたのかすら覚えていなかった。ベッドの脇に立って見おろす小野木の視線に、回想を気づかれたような気がして慌てて目を逸らした。
「米を炊くのだけは、何年経っても上手くならねえんだよ。だから、どうしても食いたい時はパックのご飯をコンビニで買ってくる。その代わりベーコンにはうるさいぞ。カリッカリになんねえと気が済まないんだ。クッキングシートに乗っけて、脂を落としながらじんわりと焼くんだ。焼き上がるまで俺は筋トレをしてくる。ここんとこ、サボり気味だったからな」
気づかないふりをしてくれたのか、本当に気づいてなかったのかはわからないが、小野木はさっさと階下へ下りると天井から吊り下げられた鉄棒に飛びついて懸垂を始めた。短い呼吸音と鉄棒を吊ったチェーンの軋み音が聞こえてくる。覗き見ようと体を起こした美代子は自分が全裸だったことに気づき、慌ててシーツをたくし上げた。そしていくら体を乗り出しても見えない小野木からこちらも見えないはずだと判断して着替えの用意された籠に手を伸ばした。
スエット姿で階段を下りる美代子の目に、曲げ伸ばしする腕に合わせて隆起する小野木の筋肉が映る。数年前に恋人と観に行ったアイ・アム・レジェンドという映画の主人公が重なった。
シャワーを済ませると、クローゼットにあったオフホワイトのワンピースを選んで身に着け、コーヒーの香りが漂う食卓に着いた。小野木が眩しそうな眼を向けて言う。
「紗江子は貧乳だったから心配したけど、ちょうどよさそうだな。よく似合ってる」
「ありがとう」
私も胸には自信ないわ。でも、昨夜の小野木はきれいだと何度も褒めてくれた。思い出してまた頬が熱くなる。
「強いのね」
照れ隠しに口を開く。訪れる毎いつも薪割りをしていた小野木が、さきほど目にしたようなトレーニングを日課にしていることを知り、体の強さを讃えたつもりだった。
「あ、ごめん。女性と愛し合うのは二年ぶりだったんだ。もう少し控え目にすべきだったな」
誤解して恐縮する小野木をおかしく思い笑みがこぼれそうになるが、愛し合うという言葉に感情が立ち止まり、彼を見つめる。ヒゲに覆われていない部分が照れ笑いを表していた。
奔放とまでは言わないが、それなりに男性経験のある美代子だった。しかし、四十二歳の小野木に完全に翻弄されてしまった昨夜に、かつての恋人達との行為が如何に淡白なものであったのかを思い知らされる。
「でも、私達、ニ度しか逢ってないのよ」
しかし、容易く愛を口にすることには抵抗があった。
「恋愛にセックスは必ずしも必要じゃないかも知れないけど、愛情を伴わないセックスは相手に失礼だろう。俺の思い上がりかも知れないけど、身を委ねてもらう信頼には全身全霊をもって応えるべきだ。心配すんなって、美代ちゃんにそれを強要してる訳じゃない。俺がそう思ってるってだけだ」
生理だからとセックスを断った恋人に、欲求の処理をせがまれたことがあった。小野木とは根本的にセックスに対しての解釈が違うのであろう。魂が揺さぶられたような気がした。少年達が来なければもう一度その腕の中に倒れ込みたい、そんな衝動に駆られてしまう美代子だった。
「しかし、俺は驚いたぞ」
「何が?」
うっとりしたまま訊き返す。今度はどんな素敵な言葉を聞かせてくれるのだろう。
「美代ちゃんは声がでかい。気づかなかったか? あの声に反応して外でジェリーが吠えまくってたのを」
そう言ってにやにや笑う小野木に、美代子は手に持ったクロワッサンを投げつけた。デリカシーの欠片もない男だ。愛してなんかやるものか。
「いてっ、なにしやがるっ。なんて行儀の悪い女だ」
「うるさいっ!」
「あれ? 美代ちゃんの車じゃん。また来てるのか? 尚人んとこへ行くって言ってなかったっけ?」
農園に着いた誠が自転車のスタンドを立てながら正に言った。
「お泊りだったりしてな」
正が、意味ありげに笑う。
「でも、あの二人まだニ回顔を合わせただけだろ。いくらなんでもそんなことはないと思うな」
男女交際はデートに始まり、次は手をつないで……そんな恋愛の手順を信じて疑わない誠の主張は彼にとって至極正当なものだった。
「じゃあ、尚人んちに行く前に、ジュンさにまた相談に来たのかもな」
少しだけ大人の正は「誠は幼すぎるよ、男と女ってのはなあ……色々あるんだ」と、恋愛のレクチャーをしてやろうと思ったが、夏の太陽が登った朝に、それを口にするのが不謹慎なように思われ、適当な言葉で誤魔化す。なにより正自身、わからないことが多すぎる話題でもあった。