正の恋
「コクっちまえよ、かおりは井之口市の高校に行くんだろ? 卒業したら逢えなくなっちゃうんだぞ」
「他人事だと思って、簡単にいうなよ。タイミングだってあるし、断られた時の心の準備だって要るじゃんか」
鶏舎の中で交わす正と誠の会話が、薪割りの手を止め咥えたタバコに火を点けた小野木の耳に届く。忍び足で鶏舎に歩み寄ると、ワッと大声を上げる。些か――いや、かなり大人げない。
「正い、お前好きな子が居るのか。誠のいう通りだ、卒業前に告白しちまえ。高校に行ったら携帯も持たせてもらえるってゆってたじゃねえか、上手くゆけば毎日ラブラブメールの交換が出来るぞ」
小野木の声に驚いて、飛び上がった正は鶏舎の天井に頭をしたたかぶつけた。その頭をさすりながら振り向いた顔は盗み聞きされたことに、やや憤慨した様子だ。
「ジュンさまで、そうゆう無責任なことゆうのか。ラブラブメールって言葉も、オヤジっぽいぞ」
「無責任か、確かに告白するのも断られるのも俺じゃあねえからな」
「ほらみろ、こう見えて俺はナイーブなんだよ」
坊主頭に真っ黒に日焼けした顔、一重瞼の瞳を目一杯見開いて正は抗議した。
「ナイーブさじゃあ、俺だって負けねえぞ。まあいい、こんな話しがある。これは俺が紗江子……死んだ婚約者から教わったことだ。心して聞くように」
茶化していた小野木が、厳粛な面持ちとなって語り始めた。
「地球が出来て、約四十六億年、諸説はあるが我々ホモサピエンスの歴史は、ざっと二十万年。そして、日本人の平均寿命が八十年ちょい。そんなもん、地球の歴史から見れば一瞬ですらないと思わねえか?」
「えらく壮大な話だけど、今は正が好きな子に告白するかしないかの話だぜ」「そうだよ」
少年達が口を挟む。
「黙って、聞いてろマルガリータども」
坊主刈りの正と誠を、小野木はこう総称していた。
「で、正が思い悩むのはダメだったらどうしよう、断られたら恥ずかしいとか思ってるからじゃねえのか」
「そりゃあそうだよ、かおりが他の女子に話しちゃうかも知れないじゃないか、俺にコクられたけど断ったって。そうしたら学校に行くのも恥ずかしくなっちゃうじゃん。だから卒業式まで待とうかなって思ってんだよ」
ちっちっち、欧米人を真似、小野木が人差し指を振りながら否定を示す。
「そうなったって、せいぜい数ヵ月じゃねえか。それに、そんなもん学校に居る間だけだろうが。さすがに、ここやお前んちまで押しかけて来て笑う暇人も居ねえんじゃねえのか? も、そんなのが居たら、俺がキッチリと説教をくれてやる。いいか、こう考えてみろ。告白が上手くゆけば天国みたいな日々が待ってんだぞ。断られて元々じゃねえか、そんなんが噂になるのは、お前の寿命よか遥かに短い僅かな期間だけだ。例え一生笑われ続けたとしたって、たかだか八十年だ。地球の歴史から見れば一瞬以下なんだぞ。さて、ここからが肝心だ」
また地球の歴史が出てきたぞ、告白についての話はどこへ行ったんだろう。しかし正を見ると、意外にも小野木の大仰な話に引き込まれているような顔になっている、誠は小野木が催眠術でもかけているのではないかと思った。
「お前が告白しなきゃ、そのかおりちゃんだかが彼女になってくれる可能性はゼロパーセントだ。なんせ、相手にお前の意志が伝わってねえんだからな。もし、あっちもその気だってみろ、こんな悔しいことはねえぞ。うじうじと告白もしねえままに時が過ぎ、いつの日か彼女の気持ちを知ったお前は、あの時、気持を伝えられていたら……来る日も来る日も、そんな後悔をする羽目になるんだ。誰かに指差されて笑われるよかもっと辛いぞ。学校に居る間だけじゃねえんだ、死ぬまでずっと一緒に過ごす自分自身に責められるなんだからな、後悔ってのはそうゆうもんだ」
話の規模がようやく個人レベルに下りて来て、誠も興味を惹かれる。
「紗江子はな、俺に気持を打ち明けようとした時に、そう考えたんだそうだ。ダメって言われて元々じゃないか、後悔するぐらいなら恥をかく方がマシだってな。実際、俺は一度……いやニ度だな、断ってたんだ」
少年達は驚いた顔になる。
「あの写真の人だろ? あんな綺麗な人に付き合ってくれって言われて、ジュンさは断ったのか? 見栄張ってんじゃねえのか」
「バカヤロー、違わい。まあ、色々あったんだ」
中学生の少年達に、当時妻が居たことや別れた恋人が忘れられなかったことまでは、さすがに明かせない。小野木は鼻の横をポリポリと掻いて話を続ける。
「そんでも紗江子は諦めずに、何度も俺に気持を伝えてきてくれた。そんなふうに真摯に寄せられる想いを、誰が笑ったり迷惑に感じたりするもんか。正の気持が真剣だと伝わってなお、お前を笑うようなヤツだったら断られて幸いだと思え。そんな女はロクな死に方をしやしねえ」
見ず知らずの人間の死に方まで決めつける小野木の論理は乱暴で極端ではあったが、それ以外の部分が正の意志を大きく成長させたようだ。
「俺、コクってみようかな」
照れ臭そうに呟く。
「おう、するなら早いことしとけ。誰もが平均寿命まで生きられるってもんじゃないからな。高校が別になるなら尚更だ。毎日、好きな子と顔をあわせられる学校生活は言葉に出来ねえぐらい楽しいぞ。それを数日にするのか、半年にするのかはお前次第だ」
夏の太陽の下で滔々と語る小野木の瞳が光っているのは、汗だけのせいではない。このオヤジは、亡くなった婚約者の話になると、すぐに泣いてしまうことを少年達は知っていた。