注釈者アブデルハキームの異説
私がアブデルハキームという名を知ったのは、彼自身の著作によってではなかった。誰かの本の欄外に記された、短い非難の文句によってである。これは、彼という人物にはふさわしい導入だったのかもしれない。というのも、彼は生涯、本文そのものよりも、余白、索引、章題、異名表、略記、参照記号のあいだに棲んでいたように思われるからだ。
最初にその名を見たのは、一二六八年にアブー・ザイド・アル=ファラービーが著した『諸学芸分類序説』の、かなり後代にカイロで校訂された版だった。私の手元にあったその本は、さらにダマスクスの旧写本庫を経た不完全本で、扉は失われ、何葉かは逆に綴じられ、ところどころに別人の細い書き込みが残っていた。私は第四章「註解の階梯」を調べていて、下欄にほとんどつぶやきのような小さな字を見つけた。
アブデルハキームの簡註に従うべからず。彼は書物を読まず、その見出しと所在のみによって書物を論ずる。
その一文の右には、さらに別の手で「比喩ではなく事実」と補われ、その下にはもっと新しい筆跡で「ただし『書々への短い入口』第二巻を見よ」と書かれていた。私はそのときまだ、その追記のほうが本文より危険であることに気づいていなかった。
アブデルハキームの名は、その後も思いがけぬ場所で私の前に現れた。一三四一年ごろにイブン・マスウードが編んだ『注釈家列伝』では、「七十の書に註す。その多くを読まず、しかも後代の者、彼の読まざるところを読む」とある。十四世紀末のものと思われる作者不詳の『夜学徒手控』では、師の書架にある本そのものより、師の作った所在表のほうが役立つとされ、その工夫がアブデルハキームに帰されている。一四〇二年、バスラの法学者サイフ・イブン・ラフマンが著した『誤註論駁』では、彼は「本文の敵」とまで呼ばれていたし、さらに遅い時代のアンダルスの目録書『書記官サアドの目次覚え』には、「彼の本は本ではなく入口である」とだけ記されていた。
しかし、そうした記述をいくら集めても、彼の生涯は少しも定まらなかった。ホラーサーンの出だという説もあれば、ワースィトの人だという説もある。父は写字生、香料商、裁判所書記、あるいは盲人の朗読係であったともいう。晩年に盲いたという話もあれば、若いころから本文より章題ばかりを覚える癖があったともいう。作者不詳の『盲目注釈家列伝断簡』では、彼は「見えぬがゆえに題を信じた」とされるが、同じ断簡の別写本では逆に「題を信じぬがゆえに余白を読み始めた」となっている。私はあるときから、アブデルハキームという名は、ひとりの人物を指すよりも、ある種の読み方そのものを指しているのではないかと考えるようになった。
彼の名で今日まで伝わる書物は、ふつう『七十の書に対する簡註』と総称される。もっとも、その題名自体が一定しない。イスタンブルで筆写された本では『七十二書略註』、フェズに伝わる本では『諸書要覧』、グラナダの断簡には『書々への短い入口』、カイラワーンの補写本では『入口集成』、さらに作者不詳の『書誌係メフディーの覚え書』では単に『扉』とだけ記されていた。収められている本の数もまちまちで、五十八冊しか扱わぬものもあれば、九十二冊、百三冊に及ぶものもある。グラナダ断簡の末尾には「ここで七十に満たぬのは、数の不足ではなく到達の欠如による」とあり、別の手で「あるいは紛失による」と添えられている。
これらの諸本を比較すると、後代の偽作や増補は明らかである。だが、それにもかかわらず共通する癖がある。彼はどの本について語るときも、その内容を要約しようとはせず、その書物がどのような題で呼ばれ、どの索引に入り、どの書の欄外から参照され、どの略記で抜き書きされ、どの誤配によって別の棚へ移されたか、その経路ばかりを執拗に列挙するのである。
たとえば、彼がアリストテレスの『魂について』のアラビア語訳本に付した註では、通常なら論じられてしかるべき感覚や知性の問題は、驚くほどあっさり通り過ぎられる。その代わり彼が熱心に記すのは、九世紀から十世紀ごろにフナイン派が伝えたその訳本のうち、ダマスクス系では第三部が「夢と記憶」と呼ばれ、バスラ系では「内的感覚の補遺」と呼ばれ、アレッポの一断簡では「失われた門」とさえ記されていること、さらに『夢について』と題された別冊摘要が、ときにこの書の一部として綴じ込まれたこと、そしてその誤綴のせいで、ある学派が記憶論を魂論の中心へ押し上げてしまった経緯である。
彼が二世紀のギリシャの医学者ガレノスによる『医学提要』のアラビア語抄訳版に付した註も同様だった。その抄訳版は、カイロの医学校では『医家提要』の名で、アレッポでは『四体液摘要』の名で、さらにマラガの一写本目録では『病名表附説』として登録されていたが、アブデルハキームは治療法そのものより、病名索引の順列、章番号の異同、見出し語の省略法、そして『病名一覧』という作者不詳の小冊子がどの時代から本文に先立って配られるようになったかを、はるかに詳しく論じている。彼はそこで、「医師は病を診る前に病名の列に入る」と書いているが、その一文だけが後代の『医学校諺集』に独立して引用されていた。
十一世紀の歴史家アル=バルアミーによる『諸王朝史』についても、彼の関心は王たちの事績ではなく、巻末系図の配列に向かっている。ある系統では本文中でほとんど顧みられない傍流の王が、索引では王朝の冒頭近くに置かれている。別系統では同じ人物が末尾に追いやられている。アブデルハキームはその差が百年後の歴史叙述をどれほど左右したかを、本文をほとんど引かずに示してみせる。彼は『諸王朝史』の本文よりも、その略系図だけを抜き出した作者不詳の『王家系図略記』や、宮廷書記イブン・サルハの『継承順一覧』、さらには年代不詳の『王名異綴表』のほうを信用しているようにさえ見える。
私は長く、そういう書き方を虚飾だと思っていた。原典をろくに読まず、摘要と目録だけで全体を知った顔をする学者はどの時代にもいる。アブデルハキームもその一人にすぎない、と。だが、グラナダの古い修道院図書室で一夜を過ごしたのち、私はその見方を捨てざるをえなくなった。
その図書室は町外れの回廊の地下にあった。もとは浴場だったらしく、低いアーチが湿った暗がりの中にいくつも並び、そのあいだに後世の棚が無理に押し込まれていた。司書は、私に一本の蝋燭と、羊皮紙に書かれた短い閲覧許可だけを渡し、鉄の鍵を鳴らして去っていった。棚には本よりも箱が多く、箱の中には本よりもカードが多く、カードの束のなかにはさらに紙片が挟まっていた。その紙片の多くは、本文ではなく、ある書物の別名、欠葉の位置、旧配架、異綴り、参照先、抄録での通称、禁書目録上の番号を記したものだった。私はそのとき初めて、図書館が書物の倉庫ではなく、書物へ至る通路の倉庫なのだと感じた。そこでは本は眠っているのではない。入口が眠っているのだ。
私が見つけたのは、アブデルハキームの名で伝わるグラナダ本『書々への短い入口』の末尾に付された奇妙な附録だった。本文索引ではない。本文の中で言及される他書について、その冒頭句、異名、章題、旧所在、抄録中での位置、しばしば誤って結びつけられる別書までを列挙した一覧である。そこには、作者も年代も知れない『鏡について』が、「光学逸話」「証言論附録」「犯罪史第二部」の異名で呼ばれることが記されていた。十二世紀ごろのものらしい『夢の連絡』は、ある系統では『魂について』第三部と混同されるが、別の系統では『記憶小論』の追補に分類されるとあった。作者不詳の『記憶小論』はさらに、偽アリストテレスの書だとする説と、アレクサンドリアの医師団が抜粋したものだとする説が併記されていた。『王家系図略記』については、「本文より索引を重んずべし」とだけあり、その右に別人の手で「本文はすでに索引の従者である」と書き加えられていた。
その一覧をたどっているうち、私は妙な酩酊を覚えた。どの書物も、もはやそれ自体として存在していないように感じられたのである。すべてが別の書物への入口であり、別の書物から差し出された出口だった。私は十一世紀のイブン・アル=ハイサムが著した『視覚の誤りについて』を開き、その欄外から作者不詳の『鏡について』へ送られ、そこから一一八三年にアブドゥルジャッバールが著した『裁判の書』へ導かれ、さらにそこに挟まれた一葉の『証言一覧補遺』から、一三一一年のユースフ・アル=カーティブによる『証言についての覚え書』へ移り、その末尾の索引片に従って『記憶小論』へ入った。そのころには、私が何を調べていたのか思い出せなくなっていた。いや、忘れたのではない。最初の問いそのものが、あとから与えられた見出しにすぎなかったのではないかと思われたのだ。
迷うのは、迷路に入ったからではない。迷路が先に配られていて、そのとおりに歩いていると気づくから、人は眩暈をおぼえるのである。
その夜以来、私は一つの平凡な事実を、以前とは違った重みで考えるようになった。弟子は本文に触れる前に、まず目録を受け取り、章題一覧を与えられ、争点の所在を教えられる。書物というものは、読まれる前からすでに案内されているのだ。アブデルハキームは、このあまりに当然で、ゆえに誰も深刻には考えなかった事実を、他の誰よりも徹底して考えた最初の人だったのかもしれない。
彼は本文を改竄しようとはしなかった。少なくとも、それを主たる方法とはしなかった。彼が手を加えたのは、本文へ至る前庭だった。章題、欄外見出し、冒頭句索引、異名表、引用箇所一覧、通称の対応表、抄録の順列、禁書目録上の番号、旧配架の痕跡、別冊補遺との結びつき。そうしたものは、ふつう補助具と見なされる。しかし読者は、つねにそれらを本文より先に受け取る。ある章が「感覚の第四」と呼ばれるのと「夢の門」と呼ばれるのとでは、そこへ踏み込む歩みが違う。ある書が「王朝史」に分類されるのと「系図資料」に分類されるのとでは、同じ文章も違って読まれる。いったんその読みが講義に採られ、筆写に反映され、抄録に固定され、目録に登録されれば、後代の版は、それをあたかも最初からそうであったものとして印刷するだろう。
私はこの考えを荒唐無稽だと思いながらも、いくつかの写本系統を比べてゆくうちに、退くことができなくなった。アレッポの写本庫に残る二本の『魂について』は、いずれも古いアラビア語訳本だが、本文自体の違いはごくわずかである。ところが、一方の欄外には「夢と記憶」とあり、もう一方には「内的感覚補遺」とある。その後代の注釈を追ってゆくと、前者の系統では夢が魂論の中心へ押し上げられ、後者では単なる補足に退いていた。また、カイロの医学校で用いられた作者不詳の『病名一覧』は、おそらく実務のための小冊子にすぎなかったが、その見出し順が変わった版ののちには、診断書の書き方そのものが変わっていた。ある王朝年代記では、巻末の系図索引で前のほうへ移された傍流の王が、百年後には歴史叙述の中心人物になっていた。さらには、年代不詳の『鏡について』が、ある時代までは光学小論として写されていたのに、後には裁判の証言をめぐる寓話集として読まれ、その結果、後代の『証言についての覚え書』が、その書を本気で先行文献として引用している例さえあった。事実そのものより、事実へ至る入口の並べ替えのほうが、ゆっくりと、しかし確実に知を傾けてゆくのである。
この発見ののち、私はアブデルハキームに、学問上の評価とは別の種類の敬意を抱くようになった。彼は真理を語ったのではない。真理がどのような順路で人に届くのかを語ったのだ。しかもそれは壮大な理論としてではなく、日々の書誌作業として、見出しの書き換えとして、索引語の整理として、異名表の統合として、ひどく地味な仕事のかたちで行われた。彼の異説は、形而上学であると同時に目録編成の技術でもあった。
そのころ私は、ダマスクスの学院で自分の講義録を編んでいた。『記憶と証言のあいだ』と題した、そのさして重要でもない本の巻末索引を整えているとき、私は軽率な実験を思いついた。本文には何も手を触れず、索引語だけを少し変えたのである。「記憶」を「夢」を見よへ送り、「夢」を「証言」を見よへ送り、「証言」を「記憶」を見よへ送った。さらに、補遺の片隅に『記憶小論』と『夢の連絡』の相互参照を加え、講義で一度だけ『証言についての覚え書』を挟んだ。私はそれを、ほとんど冗談のつもりでやった。ところが翌学期、学生たちの論文を読んだ私は、軽い戦慄を覚えた。彼らは私が本文で述べてもいない連関を、ごく自然なものとして論じていたからである。夢と記憶と証言は、いつのまにか一つの回路になっていた。ある学生はそこへ『鏡について』まで接続していた。私はそこで初めて、アブデルハキームが何をしていたのかを経験として理解した。彼は命題を配ったのではない。回路を配ったのだ。
それ以来、私は図書館へ入るたびに、棚の奥行きよりも参照の層の深さを感じるようになった。ある本を探す。索引が別の抄録へ送る。抄録が異名表へ送る。異名表が年代不詳の断簡へ導く。その断簡の欄外には、さらに別の書名がある。別冊補遺があり、禁書目録における旧番号があり、箱の底に前の配架札が残っている。私はしばしば、一頁も本文を読まぬまま半日を過ごした。それでも、その半日のほうが、一冊を通読した日よりもはるかに濃密で、また現実感に満ちていた。本文は一つの声にすぎないが、参照は多数の声が互いに「こちらだ」と囁き合う闇だからである。図書館とは蔵書の迷宮ではない。入口の迷宮なのだ。
その酩酊の果てに、私は自分自身についてさえ、一つの不穏な経験をした。ある晩、古い学籍簿を調べていたときのことである。私の師の名が、二つの綴りで現れた。片方では彼は論理学者として分類され、もう片方では神秘思想家として目録されていた。さらに旧講義一覧ではその二人が別々の時期に同じ部屋を用いていたことになっており、図書貸出簿では、どちらの名義でも同じ一冊の『視覚の誤りについて』が借り出されていた。私は最初、それを単純な誤記と思った。だが若いころのノートを見返してみると、私はその二人の師を、無自覚のうちに一人の人間として記憶していた。論証の厳格さは前者から学び、夢に関する奇妙な関心は後者から受け取ったにもかかわらず、私はその両方を同じ名に帰していたのである。
ここで重要なのは、どちらが本当の師であったかではない。私が師へ至る順路そのものが、すでに二重化していたということだ。私は一人の人物を知っていたつもりで、実際には二つの参照項目を交互にたどっていた。もしそれが他人に対して起こりうるなら、自分自身に対して起こらない理由はない。
私はしばらく眠れなかった。学位記録、旅券、書簡、蔵書票、贈呈本の献辞、貸出簿、講義録の目次、雑誌広告、追悼文の索引を調べた。致命的な矛盾はなかった。むしろ恐ろしいほど整合していた。ただし、その整合は一つではなかった。ある系統では、私は法学部の出身であり、別の系統では哲学講座から移ってきたことになっていた。ある書誌では私の最初の論文は『比喩と証言』であり、別のものでは『注の階梯』が初出になっていた。旧雑誌目録には『夢と供述』という見覚えのない題があり、その横に鉛筆で「のち『記憶と証言のあいだ』に改題か」と書かれていた。どれにも覚えがある。あるいは、どれにも覚えがないのかもしれない。大事なのは、私が私自身へ至るための索引が、すでに複数あったということだった。
そのとき、私はアブデルハキームの晩年についての、あまりに象徴的で、ゆえにいかにも偽作らしい逸話を思い出した。盲いた彼は弟子に本文の朗読を禁じ、その代わり章題と索引だけを読ませたという。弟子が理由を問うと、彼はこう答えたとされる。
本文は遅れて来る。私は先に来るものを聞きたい。
この言葉が本物かどうか、私には分からない。だが、真偽はもはやそれほど重要ではない。それは彼へ至るための、あまりによくできた入口だからだ。仮に偽作であったとしても、その偽作は彼の思想を正確に配布している。
晩年の私は、机上に索引カードを積み重ねる癖を持つようになった。そこには書名、作者、年代が記され、その下に参照先が続く。ある晩、私は戯れに一枚のカードに自分の名を書き、その下にこう記した。
私。
年代未定。作者未詳。
参照、アブデルハキーム。
異名、『比喩と証言』の著者、『注の階梯』の校訂者、あるいは『夢と供述』の失われた筆者。
翌朝それを見返したとき、私は不快というより、むしろ静かな納得を覚えた。私は彼を研究していたのではない。長いあいだ、彼の配った回路の中で思考していたのだ。私は本文を書いているつもりで、じつは入口を整えていただけだったのかもしれない。
この小論を閉じるにあたり、私はアブデルハキームを詐欺師とも、革新的な注釈家とも、異端の形而上学者とも断定しない。彼はおそらく、そのすべてであり、またそのどれでもない。彼が見抜いたのは、書物の秘密というより、認識のひどく平凡な構造である。われわれは事物そのものより先に、事物への到達法を受け取る。人は書物に会う前に書名に会い、人物に会う前に評判に会い、都市に入る前に地図に入る。そこを一行だけずらせば、その後に続く読書、記憶、学説、さらには自己の来歴さえ、静かに別の秩序へ流れ込む。
だから彼の異説は、注釈学の内部にとどまるものではない。それは図書館の深い地下、鍵の錆びた目録室、ほとんど誰も開かない補遺巻、異本の欄外、夜更けの写本机、索引箱の底で擦り切れた旧配架札、そして何より、われわれが何かに到る前に必ず通る暗い前庭すべてに関わっている。
人は書物を読むのではない。
先に配布された、その書物への迷路を読むのである。




