回帰
男は、幸せを数えていた。
指し示すものが曖昧であっても、
数えることだけはやめられなかった。
すべては、あの機械が完成してからのことだった。
かつて「幸福」は、目に見えぬ感情にすぎなかった。
だが、ラプラスの悪魔が完成すると、人間の選択も、未来の出来事も、精密な計算で予測可能になった。
政府はこの技術を応用し、人に訪れる幸福の度合いを「幸福指数」として国民に導入した。
数値化された指標をもとに、社会は運営され始めた。
人々は毎朝、端末の画面に目を落とす。
恋愛も、仕事も、余暇も。
すべては数字の上下で判断され、幸福というものは、抽象的な感情から、具体的に保持する「財産」へと変質していった。
⸻
男には恋人も家族もいたが、彼の幸福指数は常に下位に留まっていた。未来に望みを託そうにも、数字は残酷に「幸せの乏しさ」を突きつける。
「チッ……クソッッッ!! また、はずれかよ」
男は宝くじを握りしめ、肩を落とした。
今日も幸せが訪れる兆しはなく、財布にはジュース一本分の小銭しか残っていない。
歩く気力は薄れつつも、男は街をさまよった。
ネオンの光も人々の笑い声も、彼には遠い世界のものにしか思えなかった。
壁にもたれてため息をついた時、ふと視線の先に奇妙な看板が浮かび上がった。
-Casino Felicitas-
古びたネオンが夜風に揺れ、異様な光を放つ。
「……何だ、ここ」
期待と不安がせめぎ合いながら、男は扉へと足を運んだ。
⸻
中は異様な静けさに包まれていた。
ざわめきも歓声もなく、ただ淡い光を放つ通路が続いている。
奥のドアに到達し、ゆっくりと開く。
光に包まれながら目に入ったのは、
壁の額縁に掲げられた注意書きだった。
【ただ、席を移るだけです】
「……ん?」
意味がわからず、読み返そうとしたそのとき——
「いらっしゃいませ」
低い声に振り返ると、黒服のディーラーが静かに立っていた。
瞬間、所持金を思い出した。
「いや、金が……」
男が財布を探りながら言うと、ディーラーは首も振らずに告げた。
「お金は必要ありません。ここでは幸福をコインとして賭けていただきます」
男は息を呑んだ。幸福を……賭ける?
理解は追いつかない。だが、心の奥で確かに何かが揺れ動いた。
「試しに一度、どうですか」
男はしばらく迷った。幸福が減れば、ますます自分は不幸になるかもしれない。それでも、どうせもう残り少ない。ならば――。
「……どうでもいいか」
「やるよ...」
⸻
男はルーレットを選んだ。適当に番号へコインを置く。指先の震えは恐怖か期待か、自分でも分からない。
玉が跳ね、回り、止まる。
「……来い! 来い……!」
赤の、賭けた番号。
男の心臓が大きく跳ねた。
勝った。
偶然か、運命か――。
慌てて端末を取り出すと、幸福指数は確かに増えていた。数字が跳ね上がったのを見て、胸の奥に熱いものが込み上げた。
「……増えてる。ほんとに、増えてるんだ」
自暴自棄だった気持ちが、嘘のように霧散していく。代わりに強烈な高揚感だけが残った。
「本日はお試しです。またのご利用を」
ディーラーの声に押し出されるように、
男はカジノを後にした。
⸻
カジノを出てすぐ、自販機で飲み物を買った。
777……7!
当たった!
「こんなに簡単に当たりを引けるのか!」
昂ぶる感情に呼応するように、街の灯りは以前より鮮やかに見えた。
だが、家にもどり、数日を過ごすと違和感が待っていた。
恋人はどこか不機嫌で、
家族の会話はぎこちなく、
友人からのメッセージも妙に素っ気なかった。
「……なんだよ、みんな」
男は首を傾げながらも、自分に言い聞かせた。
「大丈夫だ。俺が幸運を増やせば、きっと周りにも巡ってくる。そうすりゃ、みんな笑顔に戻るはずだ」
それ以来、男はさらにカジノへ通い詰めた。
勝つたびに数字は増え、その度に幸せは確かに訪れた。
「昇進が決まりました」
「臨時収入が支給されることになりました」
「記念品が当選しました」
――ただ。
友人は距離を置き、恋人は涙を残して去り、家族との会話もいつしか途絶えていった。
立て続けに起こる別れに、男は歯を食いしばった。
「まだだ……もっと増やせば、取り戻せる。
俺が幸せを掴めば、みんなだって……」
男は信じ続けた。
信じなければ、耐えられなかった。
⸻
公園のベンチに腰を下ろし、ふと端末に目をやる。
画面には桁外れの数値が映っていた。
数字は増え続けている。
けれど、胸の奥は何一つ動かない。
ただただ空虚だった。
男は静かに立ち上がり、迷いなくあのカジノへ向かった。
ドアが開くと、光に包まれる。
かつては眩しく思えた光が、今では妙に暗い。
コインの弾む音も、どこか反響しているだけの幻のように思えた。
またしても視界に壁の注意書きが映る。
【ただ、席を移るだけです】
初めて来たときは理解できず首を傾げた言葉。
だが今は...
——ただ席を移るだけ。
——ただ配り直されるだけ。
何かを掴んだと思えば、すぐ手からこぼれ落ちる。
結局、自分はなぜここに来たのか。
なぜ「幸運」を求めてまで座り続けていたのか。
考え込んでいると、不意に背後から声が落ちてきた。
「お客様」
振り向くと、あのディーラーが立っていた。
前に卓で見かけた時と同じ無機質な笑みを浮かべ、けれどどこか親しげな目をしている。
ディーラーは声を潜めるように囁いた。
「...わかりましたか?」
言葉は耳の奥に冷たく染み込んで離れなかった。
何が言いたいんだ、こいつは──
理解できない。
それでも、どうしてこんなにも冷たく、
残酷に響くのか。
主人公は無意識のうちにディーラーの手元へ視線を落とした。
その手首に巻かれた古びた革ベルトの時計。
見覚えがありすぎて、息が止まった。
祖父から譲り受けた、自分の唯一の形見。
針の進み方に癖があり、ガラス面には細かな傷がある。
それが、ディーラーの手首にも確かに存在していた。
男は、震える手を押さえながら、ディーラーの腕時計を見つめ続けた。
それは確かに、自分のものだった。
「……なんで、俺が...」
かろうじて絞り出した声に、ディーラーは微笑む。
その微笑みは他人のものにも、自分自身のものにも見えた。
「ひとつ大事なことを忘れています……
本当の幸せを決めるのは、悪魔でも数字でもありません」
男は虚な目で問いかけた。
「じゃあ、誰が……」
すると、ディーラーは静かにテーブルを指で叩いた。
そのリズムが、主人公の鼓動とぴたりと重なった。
「配り直しているのは、いつも“あなた”自身ですよ」
瞬間、光が遠のいた。
⸻
男は、はっと目を覚ました。
シーツが肌に張り付くほどの汗。
喉が焼けるように乾いている。
見慣れた自室の天井を確認して、ようやく胸をなでおろす。
「……夢、か」
幸福指数だの、ディーラーだの──
あれはすべて脳内の幻だったらしい。
ベッドの傍らには、1冊の文庫本が伏せられていた。
『ラプラスの悪魔と未来予測』
──哲学エッセイ集のようなタイトルだ。
昨夜、眠気混じりに読んでいたのを思い出す。
「こんなものを読んだから、あんな夢見たんだな」
男は苦笑して本を元の位置に戻した。
リビングに移動すると、テーブルの上にスマホが置きっぱなしになっていた。
画面には恋人からのメッセージ。
『来週の土曜、水族館どう? チケット取るね!』
一気に胸の奥が軽くなる。
「そうだ、俺には恋人との予定があるんだ」
男は声に出して安心を確かめるように言った。
冷蔵庫から水を取り出して喉を潤したそのとき、リビングのテレビが自動で点いた。
画面には朝のニュース番組が映っている。
「速報です。本日、政府は“ラプラスの悪魔”と呼ばれる未来予測システムの完成を正式に発表しました──」
グラスの水面が小さく揺れ、淡い光を反射した。
男はその報道に気づくことなく、メッセージの返事を打ち込んでいた。