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本章で登場する舞台『としょかん』及びキャラクター名『ヴェリタス』の漢字表記に使用する文字がなろうの仕様では表示できないため、※で代用しております。
正確な表記は書籍版 / 電子書籍版にてお楽しみください。
「おぁひゃあっ⁉」
変化のない世界に突然現れた激的な変化に、少女は派手にすっ転んだ。
それに気づいた巨象が、小さな目をしばたかせながらゆっくりと振り返った。
「おや、こんなところにお客人とは珍しい。大丈夫ですか?」
巨象がのっしのっしと近づいてくる。
その一歩ごとに身体が縮んでいって、みるみるうちに少女とほとんど同じ大きさになった。
そして丁寧に長い鼻を伸ばし、優しい声で言った。
「お嬢さん、お怪我は?」
少女はその鼻を取って立ち上がり、腰を擦りながらぺこりと頭を下げた。
「だ、だいじょぶ……。ありがとう、象さん。ちょっとびっくりしちゃって」
「それはわたくしもです。※では、滅多にお客人とは会いませんから」
「※? そっか、それでこんなにたくさんの本があるんだ。ああ、でもよかった、誰かに会えて! 延々とおんなじ景色で、誰もいなくて、すごく不安で……」
誰かに会えた喜びで、不穏な妄想が遠のいていく。
安堵する少女に、象はにっこりと微笑んだ。
「ははは、ここは広いですからね」
象は姿勢を正し、恭しくお辞儀をした。
「わたくし、ここの司書を務めております、ホホ朩と申します。あなたは?」
「えっと、その……わからなくて。見ての通り、胸と右手を失くしちゃってて、記憶もないんです。それを探してて、迷ったっていうか……」
「なるほど。それはお困りでしょうね」
「それでいまはとりあえず、胸を探してるんです。ホホ朩さん、なにか知りませんか?」
「うーん、存じ上げませんね。本の整理のため、函架の間は常に歩き回っておりますが、それらしいものは見ておりませんよ」
「そう、ですか……」
少女は嘆息し、肩を竦めた。
ここを司っているというホホ朩が見ていないということは、捜索の手間が省けた一方、この本棚の迷宮では見つからない可能性が高いということ。
明らかに落胆する様子を見たホホ朩が、気遣うように言う。
「そうは言っても、端々まで探し歩いた、というわけでもございません。もしかすると、わたくしが見落としたのやも。どうか、そう気を落としなされませぬよう」
「ありがとうございます。ところで、変なことを訊くんですけど……ここの本棚って、もしかして伸びたり縮んだりしますか?」
「そういうこともございます。新しい本は常に来ますので、それを収めるために古い本を処分することもございますが、処分すべき本がない時は棚を伸ばします。また本はぴったりと収まっていなければなりませんので、隙間がある時は縮めますよ」
「わーお、そうすると、ここはまるで迷路みたいに……」
「そうですね。通路は一定の形をしているとは限りませんから、お客人なら迷いやすいでしょう」
どうやらここへ来る途中に抱いた感覚は、錯覚ではなかったらしい。
こんなに巨大な本棚が伸び縮みして勝手に道順が変わるなら、水先案内なしに歩き回るなんて不可能だ。
「あの、もしよかったら、案内とかお願いできると助かるんですけど……」
少女がおずおずと言うと、ホホ朩は慇懃に頭を下げながら申し訳無さそうに言った。
「お手伝いして差し上げたい気持ちは山々なのですが、生憎わたくしは手が離せませんので……。しかしこの※を彷徨いながらお捜し物をなさるのは、困難でしょう。ですから、わたくしの代わりについて行ける者を呼んで差し上げます。これ、ヒヒ匕!」
ホホ朩が本棚の向こうに大声で呼びかけると、気怠げな返事をしながらぽーんと一本のカッターナイフが棚を飛び越えてきた。
ヒヒ匕とは、このカッターナイフのことらしい。
「なんだよ、偉そうに呼びつけて。おいらはホホ朩の小間使いじゃないぞ!」
「ヒヒ匕、こちらのお客人が困ってみえる。どうやら捜し物をしているそうです。お手伝いして差し上げなさい」
「はぁ~? なーんでおいらがそんなことしなきゃいけねーんだ。おいらだって忙しいのに!」
「あなたが棚の向こうでサボっていること、気づいていないとでも思っていましたか? わたくしには丸見えでしたよ。踏み潰されたくなかったら、言うことを聞きなさい」
「うっ……。わ、わーったよ。手伝やぁいいんだろ、手伝や! ちぇっ、そんじゃ行くぞ! あー、あんた、名前は?」
「ごめんなさい、わかんなくて……」
「なんだよ、不便な奴。んじゃあ、名無し! 行くぞ!」
ヒヒ匕は刺々しい態度のまま、ずんずん先へ進んでいってしまった。
少女は苦笑しながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「どうやら、結構マイペースな人みたい……」
「失礼な態度、申し訳ございません。口は悪いですが、道案内くらいならできますから。どうか、お客人のお捜し物が見つかりますように」
ホホ朩がそう言って恭しくお辞儀するのにつられて少女も深々と礼を返してから、ぱたぱたと走って先に行ったヒヒ匕を追いかけていった。
ヒヒ匕は始終ぷりぷりしながら、かつーん、かつーんと通路を跳ねていく。
「あーあー、めんどくせえー。おい名無し、あんたはなにを探してんだって?」
傍若無人に振る舞うヒヒ匕に少し気後れしながら、少女はここに来た理由、失っているもの、そしていまは胸を探していることを伝えた。
しかしヒヒ匕はまるで興味がないらしく、つっけんどんに言った。
「そーんなどこにあるかわかんねーようなもん、探し回ったって仕方なくね? つうか、そもそも※にあるのかよ?」
「いや、それは、わからないけど……」
「バッカみてー! なんもわかんなくて、どーやって探すんだよ。ちぇっ、ホホ朩も面倒なことを言うよな。なんでこんな奴を手伝わなきゃいけねーんだ。あいつのお人好しぶりも困ったもんだ」
「う、うう、ごめんなさい……」
横柄な態度に少女は閉口しつつも、とりあえず謝った。
本当はちょっと言い返したい気持ちもあったが、なにせ相手はカッターナイフ。
怒らせて切りつけられたら、たまったものではない。
ここまでに出会った人々が、※を除いてたまたま〝いい人〟たちだったのだ。
普通ならこういう態度にもなるということをいまさらに思い知った少女は、メ㐅メたちやホホ朩の優しさを反芻しながらとぼとぼ歩く。
そうして闇雲に函架の間を見回ったり、歩き回ったりしたが、果たして収穫はなかった。
なんら進展しない捜索に飽きたらしいヒヒ匕は、ついに棚へ寝そべってしまった。
「疲れた! きゅーけーしようぜ、きゅーけー」
「うん、そうだね……」
手持ち無沙汰になった少女は、また本を取ってぱらぱらと捲ってみた。やはりわからない。
溜息を吐きながら棚に戻すと、ヒヒ匕はやけにはしゃいだ声で言った。
「なぁ、おもしれーだろ? ここの本。どれを読んだって、ぴっちりきっちり内容が纏まってる。そりゃどうしてかっつーとよ、おいらの仕事のおかげだ! おいらがスパッと話を切って……」
「あ、いや、その……読めないんだ、わたし。たぶん記憶がないから、文字も、絵も、意味が理解できなくて……」
「ぷぷっ、まじかよ! なーんだ、じゃーいまのは読んだふりか? 記憶がどうこうっつーより、あんたの頭が悪いだけじゃねーの?」
ヒヒ匕はその身より、言葉のほうがよっぽど鋭い。
それにざっくりと傷つけられた少女は、ついにぼろぼろと泣き出した。
「ひどい……。ヒヒ匕さんにはわからないんだろうけど、わたし、すごく不安なんだよ。もし捜し物が見つからなかったら、どうしようって。絵も文字も読めないから、手がかりを見つけたって理解できないかもしれないって、すごく、不安なのに……」
堰き止めていた不安が、次々に零れ落ちる。
ひっくひっくと頭を揺らしながら泣きじゃくる少女の痛ましい表情を見て、さすがに焦ったらしいヒヒ匕が慌てて起き上がった。
「な、なんだよ、なにも泣くこたーねーだろ! 冗談じゃんか、冗談!」
「だって、だってぇ……」
一度堤を切った感情は、洪水のように止まらない。
狼狽えたヒヒ匕はどうにかそれを宥めようと必死になったが、全然泣き止まない。
そのうち痺れを切らしたヒヒ匕は、大声で言った。
「わーかったわーかった、おいらが悪かったって! そんならいいこと教えてやるから! ほら、どれでもいいから、テキトーに本を取れ!」
「う、うう……?」
少女は鼻をすんすんと鳴らしながら、言われた通り本を手に取った。
するとヒヒ匕はカチカチと音を立てながら、ゆっくりと刃を伸ばした。
「人生のコツってやつだ。いいか、わからねーって状態は、問題がデカすぎる時に起こるんだよ。だからわからねーことは、わかるようになるまで細かくすりゃーいい。こういうふうにな!」
宙に躍り出たヒヒ匕は少女の持つ本へ目掛けて、縦一文字に刃を振り下ろした。
本はバターでも切るかのようにスパッと真っ二つになって、たちまち二冊の薄い本になった。
その不思議な光景に、少女は涙を引っ込めて驚きの声を上げた。
「すごい、一冊が二冊になっちゃった! これ、どうなってるの?」
「さっき言ったろ。おいらの仕事は、本の内容をスパッと纏めることだ。んで、ホホ朩はおいらが切った本を分類して、棚に収めるのが仕事だ。そうやって※の本を整理するのがおいらたちの仕事っつーわけだ。どうだ? 半分なら、読めるんじゃねーか?」
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。