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本章で登場するキャラクター名『ヴェリタス』の漢字表記に使用する文字がなろうの仕様では表示できないため、※で代用しております。
正確な表記は書籍版 / 電子書籍版にてお楽しみください。
※の追跡を振り切って一昼夜。
空を飛び続ける気球は、まだ雲霞の上を進んでいた。
風の音以外にはなにも聞こえず、茫漠と拡がる蒼穹に一点の染みのように漂う気球で身を寄せ合っていると、このまま空の蒼に吸い込まれてしまうのではないかという恐怖が幽かにあった。
夜になると、空は凍えるほど寒かった。
少女が歯をがちがち鳴らしながら震えていると、泥人形はバスケットからランプを取り出し、灯りを点けた。
そしてティーセットを並べて、温かい紅茶を淹れてくれた。
「こんなものしか、ないけど」
「わあ、ありがとう。いただきます」
カップに口をつけ、こくりと飲み込む。
茶葉の香りと温かさが、じんわりと躰に染み込む。
「そういえば、まだあなたの名前聞いてなかったね。なんていうの?」
少女がそう聞くと、泥人形はぴたりと固まった。
考え込む素振りをして、しばらく黙り込む。
ややあって、泥人形はぼそりと答えた。
「わからなかった。だから、地底で、いい」
「え、どういうこと? 本当は地底さんって名前じゃないってこと?」
「そう。わからないから、いま、適当に、考えた」
「あはは、おもしろい。そっか、わからないんだ。ってことは、あなたも記憶がないの?」
「たぶん、そんな、感じ」
「ふーん。なら、わたしとお揃いだね。わたしも、そうだから」
「お揃い……。お揃い、嬉しい。どうしてか、わからないけど、嬉しい」
「変なの。でも、そうだね。わたしも嬉しいよ」
こくり、こくり、紅茶を飲みながら、少女は笑った。
恐ろしいものの追ってくる恐怖が、束の間癒やされる。
少女はカップで指先を温めながら、しみじみと言う。
「わたしたち、どうしてなにも覚えてないんだろうね。なんで失くしちゃったんだろ。※さんは、いまのわたしには必要ないって言ってたけど、どういう意味なのかな……」
「不安、なの?」
「うん……。だって取り戻したいとは思うけど、それが正しいかどうかは、取り戻すまでわからないんだもん。もし正しくなかったら、どうしようって」
カップを置き、膝を抱えて俯く。
※の言葉がぐるぐると頭を巡る。
よくよく考えてみると、恐ろしい半面、どこか必死になっていたようにも思える。
あれの言動が正しいかどうか、いまの自分の言動が正しいかどうか、その間を埋める根拠が、理念が、記憶が――ない。
その不安がこうしてじっとしていると、空の冷たさよりもしんしんと躰を震わせて、紅茶で温まったはずの熱が消えていってしまうようだった。
すると地底が、少女の手に優しく触れた。
「大丈夫、僕も、わからないの、お揃い。なにが、正しいかなんて、わからない。でも君の、力に、なる。これから、どんなことが起こっても、そのたびにきっと、君の近くに、現れる。約束、する」
「地底さん……。えへへ、ありがと。そうだよね、地底さんだってわたしとお揃いだもんね。弱音ばっかり吐いてちゃ、いけないよね」
「震えてる。寒いなら、紅茶、飲んで。おかわり、あるよ」
「うん!」
地底に元気づけられた少女はおかわりの紅茶も飲み干しながら、しばし空の旅を楽しんだ。
やがて気球はゆるゆると高度を下げ始め、雲霞を割ってどこかへ着陸しようとしていた。
雲間から見えてくる景色に、少女は籠から身を乗り出すようにして感嘆の声をあげた。
「でっかい……。あれ、なんだろう? 建物のような、塔のような……」
少女の問いかけに、地底は首を捻る。どうやらわからないらしい。
段々と近づいてくる大きなものの輪郭は、高いもの、低いものとある。
高いものは壁や塔のよう。低いものはうぞうぞと模様を描いていて、地上絵や迷路のように見える。
それらはすべて――本棚だった。
着陸した気球から降りた少女は、見上げるほど高い本棚、そしてそこにぎっしり詰まった本の数に、思わず溜息を漏らした。
「こんなにいっぱい……。一生かかっても読みきれないかも……」
いったい何千冊、何万冊あるだろうか。
空から見た景色のすべてが本棚だとするなら、それ以上かもしれない。
少女が圧倒されていると、地底が急に上を見上げてぽつりと言った。
「僕、そろそろ、帰らなきゃ、いけないみたい」
「えっ、帰……る? 帰り道がわかるの?」
少女の問いかけに、地底はこくりと頷く。
「そ、っか。うん、帰り道がわかるなら、そうだよね。ありがとう、ここまで連れてきてくれて」
なるべく笑顔を心がけながら、明るく言う。
それでも、湧き上がった心細さは誤魔化しようがなかった。
内心のどこかで、ずっとついてきてくれることを期待していたのだ。
それを見透かしたのか、地底は優しく少女の頭を撫でた。
「大丈夫。君が困ったら、必ず来る。約束、したから」
「地底さん……。うん、ありがとう。じゃあ、また会えるって、思っておくね?」
「そういう、約束。だから、会える。それじゃあ、またね」
少女からゆっくりと離れた地底は気球に乗って、空の向こうへ行ってしまった。
少女はそれに一通り手を振ったあと、本棚で作られた通路に向き直った。
「さて、っと……」
少女は歩きながら、ぐるりと取り囲む本棚を見渡す。
棚に並べられた蔵書は、綺麗に整頓されていた。
背の高いもの、低いものは揃えられてぴったり水平に。
背幅が薄かったり、厚かったりするものも、だいたい同じ幅のものが並べられている。
同じデザイン、似た色調の本がずらっと並んでいるのは、おそらく続き物が収まっているのだろう。
少女は手近なところにある棚から一冊取り出し、開いてみた。
文字が連なっている。それはわかったが、読めなかった。
「うひー、さっぱり、ぱりぱり……。記憶がないから、字がわからないのかな」
その本を戻して、別のものを取って開く。
今度は絵も描いてあった。しかしその絵がなにを表しているのか、やはりわからなかった。
少女は少し気落ちしながらまた本を戻し、考え込む。
「絵も、字も、理解できないんだ、わたし。ってことは、情報を読み取る能力がないってこと? やばいじゃん……。捜し物するのに、めっちゃ困りそうじゃん……」
もしなんらかの手がかりを見つけたとして、それが文章や絵によるものだったら、理解できない。
※と遭遇した時のように、明らかに〝そのもの〟を見つけなければならないのだとしたら、元々困難な捜し物がより一層難しくなる。
記憶が失われているのがその原因ならば、次に見つけなければならないのは――少女の視線は、自然と胸の穴に吸い込まれた。
「右手よりこっちだよね。ここを取り戻して、一緒に記憶も蘇るなら、って話だけど……」
雲を掴むような話。継ぎ接ぎだらけの憶測。
それでも優先順位をつけなければ、なにをどう目指していいかもわからない。
仮初でも目標がなければ行動できない。それも自分で立てる必要がある。
なぜなら自分の代わりに目標を立て、先導してくれる誰かは、もういないのだから。
「メ㐅メさん、ロロ口さん、ムム⼛さん、地底さん。誰かがいてくれるって、それだけで心強いものだったんだなぁ……」
一人きりの旅路。独り言に答える者のない孤独が苛む。
周りの巨きな本棚が迫ってくるような錯覚がして、どうかすると挫けそうにもなる。
みんなの言葉を思い出す。
自分を信じて行けと、道標は宿っているはずだと、言っていた。
少女は左手でぱしっと頬をはたき、鞄を抱え直した。
「行かなきゃ。一人でも……行かなきゃ」
棚を離れ、また通路を歩き出す。
延々と続く本棚の列は、そこに収まった本が読めないものだとわかると、なぜだか病院の廊下を連想させた。
真っ白の壁。真っ白の扉。直線的に区切られたそれらの無機質な繰り返し。
ちりちりと得も言われぬ不安を呼び起こされて、不意に走り出したくなる、あの雰囲気。
早足になり、駆け足になり、いつしか少女は走っていた。
走れど走れど、同じ光景が続く。そういえば空から見た時、本棚は複雑な迷路を作っていた。
俯瞰していた時は感じなかったが、いざ降り立ってみるとあまりに広大だった。
直線の果ては霞んで見えないほどに遠い。
色とりどりの背表紙だけが周りの変化を告げていて、それすらなかったら気が狂ってしまいそうなほど同じ光景が連続している。
まさか距離感が狂う仕掛けでも施されているのか。
あるいはあの畝った道のように自分を惑わせようと、本棚が無限に伸びていっているのか。
どちらも否定できない。どこまで、走れば――。
その時、曲がり角が見えた。それだけの変化が、涙が出るほど嬉しかった。
永遠に迷う場所なのだとしても、なにも変えられないままで発狂するより、なにかを変えて痛い目に遭うほうがよほどまし――そんな思いで勢いよくその角を曲がると、そこには見上げるほど大きな白色の象がいた。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。