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本章で登場するキャラクター名『ヴェリタス』の漢字表記に使用する文字がなろうの仕様では表示できないため、※で代用しております。
正確な表記は書籍版 / 電子書籍版にてお楽しみください。
「愚かなことを! しかし正しき視座を得たなら、吾の言葉の意味もわかっただろう! 目を捨て、丘へ戻れ!」
※はメ㐅メやムム⼛を振り払いながら、厳しい口調で命令する。
ここにいてはいけない。あの丘に戻るなんて、断じてありえない。直感がそう告げていた。
けれど、どうすれば――。
「行って!」
メ㐅メが鋭く叫んだ。
「行くんだ! 行くべき道が〝視えた〟んだろう⁉ だったら迷うな! 自分を信じて、走れ!」
「で、でも、あなたたちは……⁉」
「僕たちのことなら構わない! 君の目指すべき道の果てに、僕たちもきっといるから!」
メ㐅メの言葉は抽象的だった。ここでの別離がどこでまた繋がるのか、それはわからなかった。
ただ、それが単なる一時凌ぎの誤魔化しや強がりではないことだけは、わかった。
ムム⼛も何度撥ね退けられても果敢に立ち向い、針を振るいながら言う。
「そうだ、行けよ、弱虫! 寝っ転がるだけがてめえの人生か⁉ 行きてえところがあるんだろ! だったら行け! 真っ直ぐに目指せ!」
行け、走れと口々に言う二人。
その言葉は震えていた少女の心を突き動かし、勇気を宿らせた。
行かなければならない。あの丘とは反対の方向へ。
偽りから離れる道を――走らなければ。
「――ありがとう、メ㐅メさん、ムム⼛さん。わたし、行くよ。またいつか、どこかで!」
少女は戦い続ける二人にそれだけ言い置いて、力強く走り出した。
月明かりだけが頼りの草原の道。
懸命に走る最中、固めたはずの勇気が綻び、罅割れたバケツに溜まった水のように隙間から漏れ出そうとする。
それを抑えつけながら、とにかく走る。
そうして走るうち、奇妙な違和感を覚えた。
まっすぐ走っているつもりなのに、やけに遠回りをしているような。
はたと周りを見ると、道が蛇のようにぐねぐねと動いて形を変えていた。
「うそ、なにこれ……⁉」
道が絡まる。交差する。後戻りする。
まるで先へ進ませまいとする意思があるかのようだ。
少女が躊躇って足を止めると、胸元から凛とした声が言った。
「なに立ち止まってるのよ。こんなの、ただの惑わしじゃないの」
「わっ⁉ ろ、ロロ口さん⁉」
「ふん、ちょっと静かにしてたもんだから、あたしのこと忘れてたでしょ。さっきの変な仮面と戦ってる時、味方をしなかったのは悪かったわね。ただあたしはあの二人みたいに短絡的じゃないから、あんたの幸せとやらを嘯くあいつの真意を図っていたのよ。でもあんたは、自分で道を選ぶことを決めた。だからここからはあたしがちょっとだけ、力を貸してあげる。さあ、迷ってる暇なんかないわよ。きっとすぐにあいつが追ってくる。道に惑わされず、まっすぐ走りなさい!」
ロロ口の導きに勇気を固め直された少女はしっかりと頷いて、再び走り始めた。
畝る道を踏みしめ、踏み越え、踏み潰して、どんどん進む。
上天の月が巡り、叢雲が遮って、闇が闇を呑むような深い冥さの中を、構わず進む。
疲れて、足がもつれて、少し歩いて、息を整えて、また走った。
走って、走って、ひた走った。
そうして空の向こうが少し白み始めた頃、少女は真っ平らな場所に辿り着いた。
空と大地がぴったり半分ずつに見えるほど、平らな野原。
その先にぽつんと佇む、なにかの影が二つ、見えた。
「あれは……?」
それに目を凝らそうと少女が立ち止まりかけた時、ロロ口が叫んだ。
「いけない、あいつが追いついてくるわ! 足を止めないで!」
驚いて振り返ると、遠くに青い光がちかちかと瞬いていた。――※の眼差しだ。
少女は縮み上がりそうな心を抑えつけ、ともかくその影を目指した。
近づくと、段々形が明らかになる。大きな丸い影は、気球だった。
そしてその側に立つ小さな影は――泥でできた人の形をした〝なにか〟だった。
「誰だろう、あれ……。あの人も、あの仮面の人みたいに……」
「わからないわね。でもあの気球に乗って逃げるしか、他に手はないわ。あれはあいつのものなのかもしれないけど、最悪、あいつを押し退けてでも、あんたはあれに乗るのよ!」
「わ、わかった!」
いざとなれば戦う覚悟を決めて、少女は泥人形の前に立った。
近づいてみても、泥人形はなんの反応も示さない。
生きているのか、そもそも生き物かどうかすら、わからなかった。
「あ、あの……」
おずおずと声をかけると、泥人形はぐにゅ、と頭――これが人の形を模しているとすればの話だが――の辺りを動かして、少女を見た。
「君を、待って、いた」
「わたしを? あなた、わたしを知ってるの?」
「わからない。僕は、なにも、知らない。けれど、僕は、そういうもの、だから」
言葉は切れ切れで、要領を得ない。
ロロ口がイライラした口調で言った。
「あんまり頭のいい方じゃなさそうね。頭があればの話だけど。そんなあんたに合わせて、簡単に言うわ。あたしたち、敵に追われてるの。この子をその気球で逃がしたいから、退いてくれる?」
すると泥人形は、ぐにゃぐにゃとかぶりを振って答えた。
「退かない。僕が、送る。これは、僕が、飛ばせる。彼女を、次の、国へ」
「そう、あんたはこれを操縦できるのね? 船頭を任せるにはどうも不安な奴だけど、この際とやかく言ってられないわ。ほらっ、とっとと乗りなさい!」
ロロ口に急き立てられて、少女は気球に乗り込んだ。
いかにも愚鈍そうな泥人形は、存外に手慣れた様子で固定していた縄を解いていく。
そしてふわりと籠が浮くと、泥人形も華麗な身のこなしでさっと乗り込んだ。
しかし風任せの気球の上昇速度は、じれったくなるほど緩やかだった。
そうしているうちに、青い光が――※がどんどん迫ってきていた。
「ううう、もっと早く飛べないかな。来ちゃう、あいつが来ちゃうよ!」
「ごめん、これは、こういうふうにしか、飛べない。風が、吹けば、いいけど……」
少女は無論のこと、泥人形も表情はないが、焦っている様子だ。
それを見かねたロロ口が、ふうと息を吐いた。
「ま、ここまで面倒見れば十分ね。あとは自分たちでなんとかすること。いいわね? あいつは、あたしがなんとかしてあげる。臆病者、あたしを放り投げなさい」
「ろ、ロロ口さん? なにを……」
「旅立ちには、餞と追い風が必要だわ。それをあたしが授けてあげるって言ってるのよ。ぐずぐずしないで!」
厳しい口調で言われた少女は胸ポケットからロロ口を抜き取って、空中に向かって投げた。
ロロ口は風に煽られ、くるくる廻って落ちていく。
「臆病で勇敢なあんたに、最高の旅立ちを。迷わず行きなさい。道標はあんたにきっと宿ってる」
少女と泥人形は身を乗り出し、落ちていくロロ口を見つめる。
※がすぐそばまで迫っていた。地を蹴り、宙を飛んで、恐ろしい勢いで追ってくる。
「行くな! 行ってはいけない! 君はここにいるべきだ! 行動を糺さねば、君は――」
「はんっ、鬱陶しい! そんなことは、本人が決めることだわ! 〝花に嵐〟という言葉を知っているかしら? あの子たちを止めたければ、このあたしを超えてみせることね! 友人たちよ! 風よ、花よ! 春の嵐のごとく吹き荒び、旅人を、かの者を――尽く彩りなさい!」
ロロ口の高らかな言葉とともに、暴風が吹いた。
どこからともなく現れた赤、白、黄、色とりどりの花が乱舞し、※を吹き飛ばして、同時に気球を強烈な上昇気流に乗せて突き上げた。
巨人の手でぐんっと引っ張られるかのような勢いで、気球が空を駆け上がっていく。
少女は唸る風の音に負けないように、大声で叫んだ。
「助けてくれて、ありがとう! わたし、行くよ! あなたのこと、みんなこと――忘れない!」
赤い花弁が、手を振っているかのように揺れている。
それも舞い散る花弁の渦に掻き消えて、すぐに見えなくなった。
白んでいた空の向こうから、光が差した。
黎明に照らされた大地は、異様な光景だった。
眠っていた丘。そこから目指した森。抜けた先の草原。そして飛び立った野原。
この世界は、本当にそれっきりの――なにもないところだった。
美しく、虚しく、嘘くさく、それでいてここに留まっていたくなるような、不可思議な感覚。
夜の群青が朝焼けに染まっていく。
空が花々に彩られ、切なくなるほど喉元を締め付ける。
少女は空いた胸の穴の前でぎゅっと左手の拳を握りながら、力強く言った。
「わたしには失くしちゃったものが、たくさんある。だからいまは見えているものも、感じていることも、それが正しいって言い切れない。目を取り戻した時、そう気づいたんだ。※って人が言ってたことも、もしかすると他のものを取り戻した時、正しいって思うのかもしれない。それでも、わたしは……取り戻したい。間違ってるかもしれないけど、全部わかってから、きちんと考えたい」
渦巻く風が冷たくなっていく。雲に霞んで、大地が見えなくなっていく。
少女の言葉に、泥人形は黙ったまま深く頷いた。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
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