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「まずこっちのレトロチックな機械は〈プロバブラ測定器〉っつって、凪君の〈醒心レベル〉――簡単に言やァ精神の覚醒度を測るための機械さ。覚醒って言っても、単に寝てるか起きてるかって意味じゃなくて、所謂心がきちんとここにあるか、ってことを数値で表現できる画期的な装置なんだィ。健常者は一〇〇、レム睡眠中で五〇前後、ノンレム睡眠中でもまァ普通なら二五から三〇程度はあるんだが……凪君の状態は?」
「醒心レベル、六から八前後です」
「そんなとこだろうねィ。醒心レベルが一〇を下回ってる場合、自力ではまず目覚められない。このレベルをぐっと引き上げて、凪君を目覚めさせようって寸法だィ」
「な、なるほど……? それで、それはどうやって……?」
「凪君の心に干渉し、直接介入することで、覚醒を誘導する。つまり君が凪君の心の中に入って、迷子になっちまった凪君の意識をガイドして、目覚めさせる方向へ導くってことだァね」
「僕が、凪の心に干渉……? う、うーん……?」
矢継ぎ早に超常的とも思える理屈を聞かされて、芽来は目を白黒させる。
他人の心に干渉し、それを誘導する? そんな技術、聞いたことがない。
凪を救う方法があると聞いて踊った心が、不審と混乱でひゅるひゅると勢いを失っていく。
その様子を察知した海原医師は、もう一つの機械の表面をトンと軽く叩いて言った。
「芽来君の疑念はコイツが解決してくれる。これは〈ME―SPインテルナ共振干渉接続器〉っつってねィ、君と凪君の意識を共振させて、接続することができるんだィ。ちなみに〈プロバブラ〉も〈インテルナ〉も、私が手ずから作った自信作でねェ。芽来君はこの話を胡散臭く思ってたり、聞いたことない話だって考えたりしてるだろうがねィ、それも当然。なんせこの理論も機械もまだ学会に発表すらしてない、私のオリジナルの治療法だからねェ」
「ははぁ……」
どこにも未発表の技術・治療法。なるほど、まったく聞き覚えがないはずである。
つまり――なんの実績もない方法を、凪で試そうということだ。
「それは……本当に凪を救えるんですか?」
芽来は訝しみながら海原医師に問う。すると海原医師は無論、と言いながら〈インテルナ〉の画面をこちらへ向けて、さらに説明を続けた。
「細かい説明は省くが、人の心は概ね六相で構成されてる。内側から順に〈自意識の内省〉〈自己内省的思考〉〈内省的思考〉〈熟考〉〈学習反応〉〈本能的反応〉だ。人は思考する時、まず心にその考えを思い浮かべる。正確にゃァこの六相をウロウロしてる時――無意識と意識の間にある時のものはまだ〝思考〟になってないから、思考素という言葉を使うがねェ。とにかく、いくつかの思考素をこの間でウロウロさせて――自分の考えの正しさだったり、願望だったり、未来・危険予測だったり、いろんな要素でこねくり回す、つまり様々な批評を通じたあと、やっと一つの思考になる。ここまではいいかィ」
「は、はい、なんとか」
「しかし、だィ。考えたことが止められず、そのまんま身体が動いちまったら、いろいろ不具合があるだろ? もしちょっと試しに考えてみただけの浅いモンを、いちいち実行しちまう身体だったら、えらく暮らしにくいだろィ? そうならないために、最後の砦〈抑制帯〉ってもんがある。心と身体を切り離して、思考の揺らぎ程度のもんで身体が勝手に動き出さないように抑制する働きを持つ、脳機能の一部だィ。凪君の症状は端的に言やァ、自殺を図るくらい心が粉砕骨折してる状態で呼吸が止まった、つまり脳にダメージが入っちまったモンだから、普通なら認識できないくらい深い無意識の領域に意識が落っこちた上、この〈抑制帯〉が暴走して、心と身体の接続を完全に切っちまったってとこだィ。だから動けない――目覚めないンだィ」
難解な海原医師の説明をすべて理解できたわけではなかった。それでもおぼろげながら、芽来は凪が目覚めない理由と原因を掴んだ。
つまり傷ついた凪は心の最奥――無意識のような場所に落ち込み、そこから抜け出せなくなった。
そして呼吸停止の影響によって脳機能がバグを起こし、自分の力だけでは起きられなくなった。
それを理解した芽来の拳に、再び力がこもる。
もっと早く、凪に寄り添えていたら。もっと早く、凪の苦しみを芯から理解できていれば、こんなことには――。
鬩ぎそうになる心をぐっと押し込み、無言のままごくりと唾を呑み込む。
その様子を見た海原医師もなにも問わず、さらに説明を続ける。
「芽来君、ここを見なィ」
そう言って先ほど向けた画面の光っている部分を、トントンと指した。
「〈プロバブラ〉にゃァ、患者の意識の現在位置を測定する機能もある。〈生存戦略分析〉――平たく言やァその人がどうやって生きてきたかってのを分析して、本来のその人らしさ、心の形を数値に落とし込んだ〈尤度〉を、現在のそれと比較する方法で、相対的な、感覚的な心と身体の距離を示したモンがこの光だ。わかるかィ? よーく見てみな、ほんの少しだが、動いてるだろィ」
そう言われて、芽来はその小さな光にじっと目を凝らす。
確かに光は僅かにだが、ちょこちょこと動いていた。
「ここに光が表示されてるってことこそ、凪君の心がまだ生きてるって証明だィ。第六相の一番奥、そんな難しい場所にいるのは確かだが、消えてない。諦める段階じゃァないってことだィ」
芽来はよろよろと画面に近寄って縋りつき、ぽろぽろと涙を零した。
「凪……。そっか、よかった……。凪はまだ、死んでない。生きてるんだ。助けられるんだ……!」
いまにも消えそうな、小さな光。しかし生きている。
可能性はある。手段もある。ならば、もう迷うことも疑うこともない。
背筋を正した芽来はぐいぐいと涙を拭いて、海原医師に向き直った。
「説明ありがとうございます。大体のことはわかりました。それじゃあ早速、治療を……」
「待ちなィ。まだ君に係るリスクの説明をしてないよ」
「リスク? そんなの、構いません! どんなことがあったって……!」
「芽来君、さっきも言ったろィ? 軽々に判断するなって。話は最後まで聞きなィ」
海原医師が通せんぼをするように手を広げ、ピシャリと言うのを聞いて、芽来は不承不承頷いた。
すると海原医師はこれまでの流暢な口ぶりを急に淀ませて、言いにくそうに口を開いた。
「説明した通り、いまの凪君を目覚めさせるにゃァ、誰かが直接干渉するしかない。〈インテルナ〉にゃァそいつをある程度、安全に行うための安全装置もついてる。しかしねェ……」
「なんですか? もったいぶらずに、早く言ってください!」
「……本来、人の心なんてモンは干渉し合うようなモンじゃァない。そも、本人ですら全部を自覚も理解もできないような、デリケートなモンさ。それに共振、干渉する……これの意味することが、わかるかィ?」
その問いかけに、芽来は首を横に振って応える。
すると海原医師は、非常に重々しい態度でその先を続けた。
「怖いことがあったら、目を瞑る。痛いことがあったら、そこから離れる。嫌なことがあったら、忘れようとする。こういうのを防衛反応って言うがね、そういうゴチャついたノイズがあったら、とても人の心の中なんか入れない。心の動きを、他人の防衛反応が拒絶したり抑圧したりしたら、弱ってるほうの心がぶっ壊れちまう。だから、全部オフにする。つまりだィ、君は凪君の心の中でどんな目に遭おうが、自分を守るためのいかなる手段も取れない。だから凪君が負った深い傷を、君自身も負いかねない。ゆえに極めて悪い条件が揃った場合、君もまた――凪君のようになる恐れが十二分にあるということだィ」
「つまり失敗すれば、僕も……目覚められなくなるかもしれないってことですか?」
芽来の問いに、海原医師はゆっくりと頷いた。
まかり間違えば、凪みたいに――永遠の眠りから覚められなくなる。それはほとんど、死ぬのと同じようなことだ。
芽来は凪のベッドに歩み寄り、青白い頬をそっと撫でた。
夢を語り、不安を語り、それでも目標に向かって懸命に努力して、笑っていた顔。
それが好きになって、その感情がやけっぱちだった人生を丸く照らしてくれた。
生きていく意味を教えてくれた。未来を考えることを疎んでいた自分を、きっぱり変えてくれた。
そんな凪を、救えなかった。そんな自分を許せなかった。
救えないまま、許せないまま、失ったまま――この先を長々と生きて、どうなる?
凪の首元にくっきり刻まれた紫色。鬱血の痕。
こんな痛ましい姿になるのを避けられなかった無力さを、もし拭うことができるのなら。
「……凪を救えなかった。その罪を背負って生きるくらいなら、ここで死んでもいい。僕の安い命で凪が目覚められるなら、迷う余地は一切ありません」
決然とした口調と瞳。それを海原医師に向けて、芽来は断言した。
半分はそんな答えを予想していた海原医師だったが、それでも素直に驚いて目を丸くする。
「ノータイムで即答たァねェ……。まったく、どえらい胆力だよ。アンタ、怖くないのかィ」
「怖いですよ。でも凪がいない人生を送るほうが、もっと怖いですから」
「はァ~……そンだけ言えりゃァ大したモンだ。芽来君の覚悟はよくわかった。そんじゃとっとと始めちまおう。っと、その前に、芽来君。この治療への参加を、未成年の君だけで決めるわけにゃいかんだろィ。親御さんに連絡を……」
「僕に肉親はいません。必要なら、施設の連絡先を教えますが」
「はァ、ん……なるほどねェ」
芽来の答えを聞いて、海原医師は彼女が過剰なほど凪に入れ込む理由をなんとなく理解した。
誰にでも心に定める〝誰か〟が存在するものだが、彼女の場合はそれが凪だったということだ。
客観的に見ればその関係はクラスメイト、友人同士といったところだが、実際は親兄弟、あるいはそれ以上の存在として認識しているのだろう。
思い込みが激しくなるはずだ。
「そンならいいやな。君にゃァ君の決断を自分で決める権利があるんだァね。じゃ、いよいよ取り掛かろうかねィ」
海原医師はそう言って話を打ち切って、芽来にはベッドサイドの椅子に座るように、看護師には様々な機器やケーブルを、凪に取り付けるよう指示を出した。
そうしてあっという間にケーブルまみれになった凪と、不安げな表情で座る芽来に〈インテルナ〉のヘッドセットを被せて、親が子供に言い聞かせるような口調で芽来に言い含める。
「いいかィ、これから先にゃァ驚くことも、苦しいことも、痛いことも当然あるだろうが、起こることはどんなことであれ全部、凪君の心の中の出来事だ。現実じゃァない。だが君はあらゆる自我を封じた状態でそこへ行く。自分が引き裂かれるような苦痛を覚える時もあるだろう。そんな時、頼りになるのは記憶にも経験にも依存しない、純粋無垢な君の意志だけだィ」
海原医師はそこで言葉を切り、僅かに悔しそうな感情を声音に滲ませる。
「……少々矛盾する説明になって申し訳ないが、脳医学者の私にさえ意識だとか心だとかいうモンは複雑怪奇で、理路整然と言い切れんのだィ。それでもきっと君なら――君になら凪君を救いうる。どんなことがあろうが忘れず、ブレず、信じ抜け。君がそうまでして救おうとした気高い決意を、固く固く信じ抜け。そうすれば、君は凪君を導ける」
「わかりました、ありがとうございます。じゃあ――いってきます」
芽来が深く頷くのを認めて、海原医師は看護師に最後の確認を取る。
「君、凪君のバイタルの報告を」
「はい。脈拍七〇、血圧八二から一二〇、体温三六度二分、醒心レベル七。鎮静状態です」
「行けそうだねィ。そんじゃァ芽来君、頼んだよ」
海原医師はそう言って、装置のスイッチを入れた。
その瞬間、芽来の意識は麻酔を打たれたかのようにぼわっと拡がって、すぐに途切れ――極彩色の回廊を辷り落ちていった。
そのうちに自分の形がなくなって、思考が綿雲のように融けて、粘土のように捏ねられて――やがて不定形の〝何か〟になっていった。
泥人形のような身体。目も口も鼻も――自我もなく。
それでもなお、その心の芯の部分に――凪を救う覚悟だけは、変わらず宿っていた。
◇
空から泥人形が落ちてくる。
落下の最中、泥人形は眼下にだだっ広く、寒々しく、なにもない平野が拡がっているのを見た。
落ちてきた勢いは自然と緩まり、存外ふわりとした着地。
立ち上がった泥人形はぐるりと周囲を見渡し、すぐ近くに気球がぽつんとあるのを見つけた。
「僕は――」
意識が混濁する。高熱を出した時のような酩酊感。ぶわり、ぐらり、視界が揺れる。
なにも覚えていない。なにもわからない。
それでも、自分はここでなにをするべきか――それだけは、はっきりとわかっていた。
◇
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。