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老齢の医師が己の禿頭を掻きながら、夕刻の病院の廊下を歩いている。
手元のタブレットに表示されたカルテには、先週運び込まれた少女の情報が記載されていた。
遠世界凪、十六歳。自室で首を吊り、意識不明の状態で発見された。
早い段階で通報・搬送されたおかげで辛うじて一命は取り留めたが、一週間経過したいまも昏睡し続けている。
十六歳。人生に絶望するには、早すぎる年齢だ。
斯様に生命を粗末にする若者を見ると、溜息しか出ない。
「なァんで最近の若者ってェのは、こう思い込みが激しいンだかねェ……」
老い先短い自分と違って、この少女にはいくらでも選択肢が、未来がある。
たとえいま一時、八方塞がりのように感ぜられても、それは井の中の蛙というもの。
流れる時間が、変容する環境が、選ぶ場所がいくらでもなんとかしてくれる。そんな慰めも、昏睡状態の彼女には届かないのだが。
医師は少女の病室のドアを開け、部屋に入った。
静かな黄昏の光に満ちた病室。
そこで目に飛び込んだ人物を見て、また小さく溜息を吐いた。
凪を発見し、ともに病院へ来た少女。もう一人の、思い込みの激しい若者。
陽光芽来――凪の級友であり、惨状を見て通報した第一発見者だ。
「まだいたのかィ。まぁったく、病院はホテルじゃないンだよ。面会時間を守りなさいってのに」
医師は声に多分の嫌気を含ませながら言ったが、凪のベッドへ突っ伏す少女――芽来に反応はない。どうやら深く眠っているようだ。
医師は仕方なく、やや強めに芽来の肩を揺すった。
「ほれっ、芽来君。一週間も飲まず食わずで、アンタが病気になるよ。起きなよ、ほれっ」
ようやく医師の声に反応した少女が、顔を上げる。
そして虚ろな表情で、ゆっくりと振り返った。
「あ……海原先生」
「あ、じゃないよ。そろそろ帰るか、少なくとも飯を食いなさいよ。身体壊すよ、ほんと」
「結構です。凪だってなにも食べてないのに、僕だけ食べるなんてできません」
「なら、点滴を打ってやろうかィ? 栄養たっぷりの。そンなら、凪君とお揃いだろィ」
「いえ……いいです」
処置なし。そう判断した海原医師はやれやれと首を振りながら、凪の状態を診断していく。
その手を動かしながら、芽来へ問いかける。
「ご苦労さまなこった。即身仏じゃァあるまいに、そんな生活がよく一週間も続くよ。母親だって三日もすりゃァ引き上げたってのにねェ」
「あの、凪は……凪は、目覚めないんでしょうか?」
「なんとも言えないが、厳しいね。呼吸が止まるってのは、人間にとっちゃ半分死んだようなもんなンさ。一度脳にダメージが入ると、自分の意志じゃァどうにもこうにもならない」
海原医師の淡々とした言葉に、芽来は俯く。その落ち込みようを見て、海原医師は嘆息した。
凪の呼吸が止まっていた時間は、警察の現場検証の結果から推察するにそう長い時間ではなく、せいぜい数分程度だ。
だがその僅かな時間で、人は死に至るかどうかの瀬戸際に立たされる。
芽来が早期に彼女を発見し、縄から解いたおかげで死なずに済んだのは、僥倖としか言いようがない。
それでもその数分、呼吸が止まっていた事実はこうして一週間以上、眠り続けている病状として残ってしまっている。
これを不幸中の幸いと見るか、手遅れと見るか――海原医師は医者としての立場と人としての心情を秤にかけながら、芽来を慰める言葉を探るように言う。
「なァ、なんでそんなに自分を責めてンだィ。確かに自殺しかけたってェのは悲しいことだが、別にアンタのせいじゃないだろィ?」
「それは……そうですが。……いえ、そうとも言い切れない」
「はァ? どうしてだィ」
「凪が自分を殺めるまで苦しんでいたのを、その事情を、僕は知っていた。なのに何もしなかった。なんの助けにもならなかったんです。だから……」
「そんなモンさァ、思い込みだよ。芽来君は神様でもなんでもないだろィ。凪君がどんな行動を、どう決断するかなんて、わかるわきゃないじゃないの」
「それはつまり、僕なんかいたっていなくたって、救いようがなかったってことですか」
「まァ、冷たいようだが、そうだ。もし凪君が吊ろうとした瞬間、アンタがその真横にいたンなら別だよ。物理的に、腕力によって阻止しうる。だがね、凪君が選んだのは自殺だ。自殺ってなァね、この世で最も寂しく、孤独な死に方なンさ。そんなモン、神様以外の誰にだって防ぎようがない。縄がすっぽ抜ける、千切れる、吊った根本が壊れる。そういう奇跡が起きなけりゃ、首吊りなんてまず助からない。そういう観点で言やァ凪君は運が良かったし、アンタは十分救ったと思うがねィ」
「……慰めなら結構です。結局、目覚めてない。全然……救えてない」
「いやいや、第一発見者。通報したのはアンタじゃないか。それがもうチョイとでも遅けりゃ、確実に死んでたよ。こんな状態だが、まだ死んだわけじゃない。その違いは大きいと思わないかィ?」
「思いません。……思えません」
芽来は膝の上で爪が白っぽくなるまで拳を握り込み、ぎゅっと口を引き結んでいる。
自分の言葉は柳を揺らす風のように彼女を通り抜けて、なんの慰めももたらさなかったらしい。
海原医師は、つくづく芽来という少女の破滅的とも言える心情を推察する。
過剰な憐憫と自己批判、あるいは依存。ただのクラスメイトというには強すぎる思い入れだ。
なにがその根源になっているのか、門外漢の自分にはわからない。
しかしその感情の所以がなんであれ、一週間も寝食を遠ざけ、健気に寄り添い続ける精神力は大したものだ。
――この強い精神力を持つ彼女ならばあるいは、あの方法を試せるかもしれない。
そう考えた海原医師は値踏みするような目を、芽来に向けた。
「もし、凪君を救いうる方法があるとすれば、芽来君――君は、命を張る覚悟はあるか?」
その静かな問いかけに、芽来はがばっと顔を上げる。
「あるんですか? そんな方法が!」
「非常に危険な治療法だ。これには他者の協力が必要不可欠である。まさに君のような、強靭な精神力を持ち、患者を……凪君の安否を、心から想うことのできる人間の協力がね」
海原医師は探るような目つきで芽来の真意を問う。すると芽来は椅子を蹴り倒して立ち上がり、すぐさま首肯した。
「やります、やらせてください! 凪が目覚める可能性が1%でもあるなら、なんでもやります!」
「なんでも、ねェ。芽来君、言い出しっぺの私が言っちゃァ世話ないがねィ、これから先の人生、こんな怪しげな提案にそう軽々と乗るのはオススメしないよ。ま、今回は助かるがねェ」
海原医師はくつくつと笑いながら、ポケットから携帯電話を取り出して指示を出した。
「七〇三号室の患者さんのとこにね、アレ一式持ってきて。うん、〈プロバブラ〉はこっちにもうあるから、〈インテルナ〉のほう。はいはい、よろしくー、はいー」
手短に電話を切った海原医師は凪のベッド脇に積まれた機器類に近寄り、パチパチとスイッチ類を操作していく。その手を動かしながら、芽来にニヤリと笑いかけた。
「こんなこともあろうかと準備しといて正解だったね。私も心のどっかで期待してたのかもねェ。アンタみたいなヒーローのご到着をさァ」
「ヒーロー……? あの先生、なにしてるんですか?」
「もちろん、悲劇のヒロインを救う用意だィ。直に舞台は整う。そしたら全部説明するから、チョイと待ってなィ」
そう言われれば待つほかなく、芽来は喜々として機械を操作する海原医師をぼんやりと眺める。
するとそれらの機械類が現代的なものでなく、いやにレトロな風体であることに気づいた。
一週間も病室に詰めていて気づいていなかった事実に思い当たり、芽来はようやく自分がかなりの視野狭窄に陥っていたのを自覚した。
それにしても妙な機械だ。
半世紀以上前のコンピュータのような本体に、古臭いブラウン管と真っ黄色に変色した分厚いキーボードが繋がっており、その周りには放置された廃屋に這い回る蔦類のように絡み合った青や赤のコードが、見るのも嫌になるくらい複雑に絡み合っている。
医療機器かどうか以前に、病院に置くものとしての衛生状態は保たれているのだろうか――そんな疑問を思い浮かべるうちに、病室の扉が開けられた。
ガラガラと台車に載せて運ばれてきた機械は、部屋に置かれたそれに比べれば随分とシンプルかつ現代的な形だった。
真っ白でのっぺりとした箱に繋がれた、二つのヘッドギアのようなもの。
医療知識が皆無な芽来から見ると、それらのセットは年代の異なるゲーム機を並べて展示しているようにしか見えなかった。
「先生、これは……?」
「チョイ待ち、すぐ終わるから。あー、凪君の〈生存戦略分析〉は? 終わってる? タブレットに? ああ、これね。チョイと待ってくぅださぁいなぁ~……っと」
海原医師は忙しなくタブレットや機械類を淀みない手つきで操作していく。
その横では機械を運んできた看護師が凪の脈拍やら体温やらを測定していく。
芽来は逸る気持ちを抑えつけるように前髪を弄りながら、とにかく準備が終わるのをじっと待った。
「おまたせ、芽来君。そンじゃァ一から説明しようかねィ」
しばらくして手を止めた海原医師が芽来に向き直り、厳かな口調で説明を始めた。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。