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その後ろを、メ㐅メが慌てて追う。
「どうしたんだい⁉ 待ってよ、ねえ!」
メ㐅メが制止するのも聞かず、少女はそのまま一息に洞窟の出口まで走った。
そしてそこを出たところで、がくりと膝をついた。
「ちょっと、いきなりどうしたのよ! 大丈夫⁉」
「ご、ごめ……ちょっと……」
荒い息で何度も胸を上下させながら、少女はしばらく四つん這いのまま動かなかった。
そこへやっと追いついたメ㐅メが、心配そうに顔を覗き込む。
「顔が真っ青だ。なにか見たのかい? なにもいなかったような気がするけど……」
「いや、いたっていうか、聴こえたっていうか……ごめん、自分でもよくわからない。でもすごく怖くて、なにかが、なにかを……思い出させるような気がして……」
「様子を見るに、あまりいい思い出ではなかったようだね。大丈夫、ゆっくり息をして」
メ㐅メの優しい声に沿って、少女は荒れた呼吸をゆっくり整える。
やがて落ち着いた少女は、徐ろに立ち上がった。
「もう大丈夫。ありがとう、ごめんね」
「びっくりしたじゃないの、まったく。そんなに怖かったんなら、こんなところ入らなきゃよかったのに。ほんと、臆病者は世話が焼けるわね」
「ロロ口、心配なら心配って素直に言ったほうがいいよ。それじゃ伝わりにくい」
「だっ、誰がこんな臆病者、心配なんてするもんですか! 慌てた拍子に、可憐なあたしを落っことさないか気になっただけよ! ふんっ!」
赤い花弁を怒ったようにひらひらさせながら、ロロ口はぷいっと横を向いた。
それに少女はくすくすと笑って、花びらの外側をそっと撫でた。
「驚かせてごめんね。安心して、あなたのことは絶対に落とさないよ」
「当たり前よ! それにしても、洞窟の中にはなにもなかったわね。あの奥のことは気になるけど、臆病者が行けないっていうなら仕方ないわ。こうなったら森を虱潰しに歩き回るしかないわね」
「それなら段々陽も落ちてきたし、森を抜ける方向を探してみようか。もし見つからなかったら、そのまま森を抜けたほうがいい。夜の森は怖いからね」
少女は二人の提案に頷いて、再び歩き出した。
少しずつ落ちていく陽に幾ばくか焦りを覚えつつ、一行は右目を探しながら進む。
木の根、草むら、小枝。それらを掻き分け踏みしめ進んていくと、やがて小川が見えてきた。
「綺麗な川! 水が澄んでる!」
「あら、ちょうどよかった。水が欲しかったのよ。臆病者、あたしに水を汲みなさい」
後ろ足で立ったメ㐅メが鼻を天へ向けて、くんくんと動かす。それから小さく頷いた。
「近くに獣はいないね。それじゃ、ここでちょっと休憩にしようか」
メ㐅メの太鼓判を受けて、少女は小川の側にそっと屈んだ。そして左手で流れる水を掬おうとした時、ぶぅーんと低い羽音が聴こえた。
次いで、刺々しい怒声が浴びせられた。
「こら! その花はオレが先に見つけたんだぞ! 奪うってんなら、正々堂々勝負しろ!」
「えっ、えっ⁉」
驚いた少女が慌てて立ち上がると、顔の周りを一匹の蜂が忙しなく飛び回った。
虹色の羽を顫動させて、ぶんぶんと威嚇するように羽音を鳴らす。
「あのっ、花ってなんのこと⁉ そんなの、奪うつもりないよ!」
「てめえの足元にあるやつだよ! なんだ、違うのか?」
足元を見ると、確かに黄色い小さな花が一輪あった。
少女は左手を一生懸命に振って、否定する。
「違う違う! わたしはただ、水を飲もうとしただけで……」
少女が狼狽えながら言い訳しかけたところで、ロロ口が割って入った。
「ふんっ、ムム⼛! 虫のくせに何様なの⁉ 頭が高いわよ!」
「その高飛車な声、ロロ口か⁉ ……あぁ? てめえ、なんでそんなところにいやがる?」
「この臆病者にあたしが格別の配慮をして、捜し物を手伝ってやってるの。邪魔しないで!」
「なんだぁ、てめえ……花風情が偉そうにしやがって! てめえの蜜から食ってもいいんだぜ!」
ロロ口の高慢な物言いに怒ったムム⼛が、ぶぶぶと羽を鳴らしながらゆっくり近づく。
刺すか刺されるか、そんな一触即発の空気を見かねたメ㐅メが、厳しい声で仲裁に入った。
「二人ともよさないか! ムム⼛、君に誤解を与えたことは謝る。許してほしい。ロロ口、誰彼構わず食って掛かるのはやめろ! それが誇り高い君のする態度なのか⁉」
「ふん、そうね。高貴なあたしがこんな虫一匹にいちいち係うのは、バカバカしいわね」
「そりゃこっちの台詞だっつうんだ、高慢花め」
メ㐅メが取り成したことで少し怒りを収めた二人は、剣呑な空気を引っ込めた。それにほっと胸を撫で下ろした少女は、努めて丁寧にムム⼛へ頭を下げた。
「ごめんね、ムム⼛さん。たぶん、これからご飯ってところだったんだよね。邪魔しちゃった?」
「ああ、ハラが減ったからな。なんだ、こいつはそこのクソ花と違って、物分かりがいいじゃねえか。ま、お互いに行き違いがあっただけだ。気にすんなよ」
「ありがと。ところでわたしは右目を探してるんだけど、どこかで見かけなかった?」
「右目だぁ? そんなもん、興味ねえから知らねえな。つうかお前、あれだな、よくよく見りゃ、あちこち失くしてんじゃねえか。ほーん、それで捜し物っつうことか。苦労してんだなぁ。メ㐅メはともかく、そのクソ花なんか連れてたって、ちっとも見つかりゃしねえだろ」
「どうかしら? あんたみたいなクソ虫と一緒にいるよりは、ずっといいと思うけど」
「てめえ、マジでぶっ刺されてえのか? 穴だらけにしてやろうか? あぁ?」
「はいはい、そこまで。ともかく、そういうわけで僕たちはあちこち探し回ってて、疲れたからここで少し休憩しようとしてたってわけ。でもぼちぼち陽が落ちるから、もう森を出ないと。みんな、出発できそうかい?」
メ㐅メがそわそわと耳を動かしながらそう言ったので、少女は水を一口飲み、ロロ口に適当に水を浴びせて、さっと立ち上がった。
「もう森を出ないと危ないんだもんね。ちょっと急ごうか」
「よし、それじゃ出発しよう」
「ちょい待ち」
一行が歩き出そうとするのを止め、ムム⼛は黄色い花の蜜をちゅっちゅっと吸った。
そして少女の顔の高さまで飛んで、空中でくるりと一回転した。
「面白そうだから、オレもついてってやる。お前、見るからに弱そうだしな。飽きるまでは一緒にいてやるよ。ありがたく思いな」
「ほんと⁉ よかったぁ。蛇とか蛙とかが飛び出してくるたび、すごく怖かったんだ。ムム⼛さんが守ってくれるなら安心だね!」
「そんなもん、全員一刺しだ! どーんと大船に乗ったつもりで、オレについてきな!」
「ふん、大船にしちゃ随分小さな帆船だこと。その小さな虹羽はどのくらいの風に耐えられるの?」
「うるせえな、クソ花。針の嵐を降り注がせて、ひっくり返してやろうか?」
「二人ともそのくらいに。君たちの丁々発止に付き合ってたら、本当に日が暮れるよ。急ごう」
メ㐅メが促すのに従って、一行は小川を後にした。
先頭には張り切るムム⼛、真ん中に注意深いメ㐅メ、そして最後尾におっかなびっくり続く少女とロロ口という形で、道なき森をずんずん進んでいった。
そうして空が黄昏色に染まる頃、一行は森を抜けて平原に続く道に出た。
「この先に塒にするのにちょうどいいところがあるよ。今日はそこで終わりにしよう」
「うん……」
メ㐅メの言葉に生返事を返しながら、少女は空を仰ぎ見る。
深い橙色と淡い橙色、青紫色、桃色がコントラストを描き、その色を映した紅霞がたなびいて、今日が終わることを告げている。
渡ってくる風にも夕焼けの匂いが混ざっていて、どこか切なくて。
足元に落ちる影がどんどん伸びて、忍び寄る夜の帳に解けるように薄暈けていく。
夕凪。影。残響する感覚。足を踏み外しそうになる、この感覚は――。
「あ――」
少女はふらつき、膝から崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえた。
しかし頭の中心部でじんじんとひりつく熱っぽい感触は、意識を遠いところへ連れて行こうとする。
なにも――なにか――なにも――。
「ちょっと、しっかりしなさいよ!」
ロロ口の声にはっとなって、少女は意識を引き戻された。
額に僅かに浮いた汗を左手の甲で拭って、ふうと息を吐く。
「大丈夫かい? もう少しなんだけど、まだ歩けるかい?」
見上げるメ㐅メの心配そうな声音に、少女は無理やり笑って応える。
「疲れちゃったのかも。でも大丈夫だよ! 少し深呼吸したら、きっと歩けるから……」
嘘だった。すう、すうと何度か深く息を吸っても、躰の中心線が震えるような奇妙な感覚はちっとも収まらなかった。
先を行っていたムム⼛がぶうんと戻ってきて、顔の周りをちょこまか飛ぶ。
「早くしねえと夜になっちまうぜ。頑張れよ、お前!」
「うん、そうだよね、頑張らなきゃ……」
そう言いつつ、少女は後ろを振り返る。
入った時は神秘的でありながら暖かな雰囲気を感じた森は、陽が落ちかけたいま、木々の間に底知れぬ闇を孕んで静まり返っていて、魔界のようだった。
少女はその向こう――今朝目覚めた丘の風景を思い浮かべた。
「いまからこの森を抜けて……あの丘まで戻ることはできないかな?」
その突飛な思いつきに、三人はお互いに顔を見合わせる。
口火を切ったのはロロ口だった。
「あんた、バカなの? いまから森に入るですって? あたしはあそこの住人だから構わないけど、あんたは違うでしょ。夜目も効かない臆病者のくせに、夜の森を歩けると思ってるの?」
「クソ花の言う通りだぜ。怖じけるあまり、気でも違っちまったのか?」
「どうして急にそんなことを言うんだい? わけを聞かせてよ」
「あ、あはは……やっぱバカだよね。ただ、その、ちょっと怖くて……少しでも覚えのある場所のほうが、安心できるかなって思っちゃっただけ。ごめん、忘れて」
少女が素直な心情を吐露するのを聞いて、三人は苦笑する。
そして、口々に少女を励ました。
「まさにバカの考え休むに似たり、ね。この気高いあたしを胸に飾ってまだ勇気が足りない臆病は、まああんたなら仕方ないわね。それは許してあげるから、とにかくあたしたちを信じなさいよ」
「〝バカの考え〟じゃなくて〝下手の考え〟だろ、バーカ。とはいえ、バカ花の言うことは間違っちゃいねえ。このオレが守ってやってんだぜ? だから安心しろよ!」
「いまの君は一人じゃない、僕たちがいる。せっかくここまで進んできたのに、この旅路をゼロに巻き戻すなんてもったいないよ。もう少しだけ頑張って、今日はもう眠ろう。明日になれば、一時の迷いなんて笑い話になるからさ」
三者三様の励ましに心を解された少女は、目尻に涙が浮かびそうになるのを我慢しながら、強く頷いた。
「みんな、ありがと。そうだよね、ここまで来て戻るなんてバカだよね。よーっし、あとちょっと! じゃあ今日のお宿まで、競争しよー! よーい、どん!」
少女はそう言って、勢いよく駆け出した。
後ろの方でメ㐅メやムム⼛、胸元でロロ口がわーわー言うのを聞きながら、振り返りたくなる不安をかなぐるように、夕凪が吹く道を走っていった。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。