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本章で登場する舞台『としょかん』及びキャラクター名『ヴェリタス』『オブスキュラ』の漢字表記に使用する文字がなろうの仕様では表示できないため、※で代用しております。
正確な表記は書籍版 / 電子書籍版にてお楽しみください。
「お待ちなさい」
二人の間に、ホホ朩が割って入った。その後ろからヒヒ匕も刀身を伸ばしつつ立ち塞がる。
「最近、本の入荷がないと思っていましたが、原因はあなたがた〈批評家〉の仕業ですか。彼女を過剰に戒め、幸福を押しつけるのはおよしなさい。それは彼女自身が決めることです。それにこの鎖……わたくしが管理する本たちに、勝手なことをするのは許しません。すぐに解きなさい」
「そーだぜ。ズケズケとおいらたちの※に踏み込んできやがって、えらそーにすんなよ、バーカ!」
「ふん、※の管理人どもですか。お前たちは、ここの管理をしているだけでよいのです。私たちの仕事に口を挟む権利などありません。大人しく仕事に戻りなさい」
「なるほど。では言い直しましょう。司書たるわたくしの許しもなしに、※での勝手な行いは――断じて許さないッ!」
怒りを発したホホ朩の身体が、とてつもない大きさに膨らんでいく。
天を衝くほど高い本棚たちより更に高く、その頭が空の果てに吸い込まれて見えなくなるほど、大きくなっていく。
その巨大な影が落ちて、一帯はにわかに夜になった。
「吐いた唾は呑めねーぞ、いけ好かねえクソ仮面。真っ二つにして、本棚にぶちこんでやる!」
ヒヒ匕の身体から、カチカチと音が鳴る。
それは驟雨のように激しく連なって、そのたびに刃がどんどん伸びていく。
彼方まで続く本棚を丸ごと両断できそうなほどの長さだ。
「踏み殺されたくなかったら、出ていけ余所者! ここはわたくしの領分だ!」
※中にうわんうわんとホホ朩の声が響く。
夜闇を切り裂くように、ヒヒ匕の刃がキラリと光る。
しかし※は怯える素振りすら見せず、ただ呆れたように嘆息するだけだった。
「――邪魔です」
ぱちん、と指を一つ鳴らす。すると床から無数の鎖が伸びて、あっという間に二人を縛り上げた。
そのまま抵抗する間もなく床に縫い付けられ、苦悶の声をあげる。
そんな中、二人が大声で叫んだ。
「行って! あなたは、ここにいてはいけない! 二度とその大切な想いを、失わないで!」
「そうだ、行け! こいつに捕まったら、また忘却に逆戻りだ! 走れ、走れっ!」
※がぐるりとこちらを向く。
赤々と光る眼差しが射竦める。
凪は少し逡巡したが、脱兎のごとく逃げ出した。
去りしな、二人に向かって叫んだ。
「ありがとう、ありがとうっ! わたしの大事なものを、取り戻してくれてっ!」
駆け出した凪は、迷路のような本棚の間をめちゃくちゃに走り回った。
出口なんてわからない。どっちから来たかもわからない。
恐怖と、二度と記憶を失いたくないという気持ちを燃料にして、ぐるぐると経巡りながらひた走った。
しかし――。
「無駄な抵抗です。私からは、逃げられませんよ」
すぐ背後から冷たい声が聞こえた。
心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じて振り返ると、すぐそこに※がいた。
刻みつけるような、規則正しい歩幅。
かつん、かつん、ゆっくり歩いている。
――そんな、わたしは走ってるのに、どうして追いついてるの⁉
上がった息で肺が爆発しそうだった。喉が痛んで堪らなかった。脚がもげてしまいそうだった。
それでも走った。あれに捕まったら、一巻の終わり――。
そう思いながら曲がり角を曲がった瞬間、凪は前から現れた何者かに首を掴まれ、そのまま締め上げられた。
――※だった。
「な、なんで……⁉ 後ろに、いたはずなのにっ……⁉」
恐怖と、苦しさと、痛さが、野太い鎖のように絡みつく。
底の見えない仮面の向こう、※は赤い眼差しを炯々と光らせながら、無機質に言った。
「逃げられないと言ったでしょう。徒競走はおしまいです。さあ、いまこそ、あなたを幸せに……」
片手で凪を締め上げながら、もう片方の手で剣を構える。くるりと閃いた刃がこちらを向く。
もうダメだ。ホホ朩さんもヒヒ匕さんも敵わなかった相手。
わたしには、どうしようも――。
その時、がらがらと荒々しい車輪の回る音、だかっだかっと蹄が打ち付ける音が聞こえた。
訝しんだ※が音のするほうへ振り返ろうとした瞬間、全速力の馬車がその身体を撥ね飛ばした。
戒めから自由になった凪が、床の上に転がる。
「約束、どおり、来た! 大丈夫⁉」
聞き覚えのある声。
御者台にいたのは、地底だった。
「ち、地底さん⁉ どうして、ここが……」
「そんなこと、いい! 早く、乗って!」
撥ね飛ばされた※を見ると、ふらついてはいるが、もう立ち上がっていた。
凪は慌てて荷台に乗り込み、姿勢を低くした。
「乗ったよ、地底さん!」
「わかった!」
まさに阿吽の呼吸というべき淀みのなさで、地底は即座に鞭を入れた。
再び走り出した馬車は、みるみるうちに※から遠ざかり、本棚の通路を抜け――※を脱した。
不安だった凪はしばらく後ろを見ていたが、追ってくる気配はなさそうだった。
ごとんごとんと揺れる荷台の縁に背中を預けて、ようやく安堵の息を漏らす。
「死ぬかと思った……。はー、ほんと、助かった……。地底さん、ないすたいみんっ」
「約束、した。君が困ったら、必ず来る。これからも、そうだ」
「うん、そうだった。でも、本当に来てくれるなんて思わなかったから……ありがとう、地底さん」
「胸の穴、ない。捜し物、見つけたの?」
「あ……うん。そうなんだ。見つけたの。わたしのいちばん大切な……記憶を」
車輪が上下する心地よい揺れを感じながら、しみじみと塞がった胸を見る。
穴が開いていた時はそれが自然だと思っていたが、取り戻してみると目の時と同様、この姿こそが自然なのだと思える。
「そうそう、名前も思い出したんだ。わたし、凪って言うの。遅い自己紹介になっちゃったけど、改めてよろしくね」
「凪。覚えた。君は、凪。うん、よろしく」
「あとは右手と……ペンを探さなきゃ。でも……」
凪はまたちらりと後ろを振り返った。
※に続いて、※の襲撃。
なにかを取り戻そうとするたび、あの恐ろしい白仮面を被った誰かが現れる。
そして、自分のやっていることは間違いだと――取り戻してはいけないと言う。
記憶が戻ったいまだからわかる。――この記憶は、不完全だ。
あの時、光の奔流に耐えきれず、すべては受け止めきれなかった。
※に強制的に遮断されたが、それがなければ光はまだまだ流れてきたように思う。
彼らが言い募る〝過ち〟――それは取り戻しきっていない記憶の中にある気がする。
馬車は坂道に差し掛かった。
長い長い、急な坂。
そこを駆け上っていくうちに濃い霧が出てきて、※は完全に見えなくなった。
凪は少々の不安を覚えつつ、取り戻した胸の前でそっと左手を握りしめた。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。




