14
次の週の日曜日。
凪は電車を乗り継いで、母に内緒のまま、脱獄するように遠い街の出版社を訪れた。
「ほんとに来ちゃった。どうしよ……」
立派なビルの前に立った凪は、震える手で何度もDMを読み返す。
肩にかかったバッグにぱんぱんに詰まった原稿の重みがどんどん増していくのは、遠い道程の旅疲れが原因ではないだろう。
DMに書かれた内容を鵜呑みにして、ここまで来てしまった自分が不安になる。
狐に化かされたような気持ちが全然拭えない。
それに負けそうになるたび、芽来の言葉を思い出して踏み留まる。
「うん、大丈夫、大丈夫なはず……。よしっ!」
凪は意を決して、エントランスに入った。
そして受付で名前を言うと、すんなり案内された。
編集部に通されるまで半信半疑だった凪の現状をきちんと現実にしてくれたのは、とんでもなく普通のおじさんだった。
「へぇ、君が凪くん? いや失敬、水瀬先生だね。DMで聞いてたけど、やっぱり若いね。なのにすごい漫画を描くね。あ、僕が担当の雲日向です。どうぞよろしく」
こういう職業の人は雲の上の存在と言うか、みんな個性的でひと目で他者との存在感がはっきり分かたれているような人とばかり考えていたが、雲日向は満員電車に乗ったら誰とも区別がつかなさそうな、そのへんに山ほどいるサラリーマンと変わらない没個性的な人だった。
そんな人がにへらっと笑って、たらんと手を差し出してくる。それがあまりに自然で、凪は思わず握手に応じてしまった。
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
挨拶もそこそこに会議室へ通された凪は、雲日向と向かい合ってソファに座った。
コーヒーを淹れて戻ってきた雲日向は、凪がドキドキしながら抱え込んでいるバッグを指して笑った。
「随分たくさん描いたみたいだね。じゃあ早速、原稿を見せてもらおうかな」
そう言われて、凪はわたわたとバッグから原稿を取り出した。
二〇〇ページにも及ぶ大作『或る孤島の夜に咲く連歌帖』は、明治末期の絶海の孤島を舞台に、資産家の令嬢が財産を巡る争いに巻き込まれていく事件を描いたミステリー漫画である。
「おっ、お願いします……」
「はい、見させていただきます」
分厚い紙束を受け取った雲日向は、本当に読んでいるのか怪しく思えるほどのスピートでそれを読み始めた。
それを待つ間、凪は気が気でなかった。
出されたコーヒーにも一応口をつけてみたが、味なんて全然わからなかった。
紙が擦れる音だけが響く、静かな会議室。
十五分そこそこで二〇〇ページを読み切った雲日向が、トントンと原稿を揃えながら唸った。
「いや、本当にすごいね。これ、初めて描いたの?」
「い、いえっ、家には、もっといっぱい……。ああでも、だいたい失敗作でっ、SNSに上げてたやつって言って……仰っていたので、とりあえず、これを……」
「はぁ~、なるほどねえ。それも全部、手描きで? ペンタブとか、持ってないの?」
「はい、手描きです。すみません、ペンタブは持ってないです……。ごめんなさい……」
「いやいや! 全然、謝るようなことじゃないよ。むしろびっくりしすぎちゃって、僕もなんと言えばいいかわからなくてさ。でもまあ、先に気になるところから言っとこうか」
雲日向は言葉を切り、咳払いをする。
そして丁寧な手つきで原稿を返しながら言った。
「これ、ぶっちゃけ『シャロのり』意識してる?」
「う……! それは、その、はい……」
「だよねえ。題材、ストーリーライン、キャラ作りにだいぶ影響を受けてるもんね」
やはりプロの目は誤魔化せない。凪はもう逃げ出したい気持ちだった。
『シャロのり』――正式には『シャーロットの理論』というタイトルのその漫画は、発行部数は八百万を超え、アニメ化も舞台化もしている超人気作品だ。
産業革命前後のイギリスを舞台としたクラシックミステリーで、男女問わず人気がある。
凪にとってもバイブルと言って差し支えない愛読書で、実際多大なる影響を受けている。
ゆえにSNS上のコメントにおいても、ちょくちょくパクリだと指摘されることがある。
そこを突かれたら、反論のしようがない。
「ごめんなさい、パクリですよね。自分ではそんなつもり、ないんですけど……」
もごもごと謝罪する凪に雲日向は朗らかに笑って、もちろんだと頷いた。
「このレベルのものがパクリなんて言ったら、世の中にオリジナルのものなんてなくなっちゃうよ。そこは気にしなくていい。とは言えジャンルも被ってるし、題材も似通ってる。だから、そう捉える人がいても傷つかないようにね、って言いたかっただけだよ」
「え……? そうなんですか?」
「そうさ。それより僕が言いたいのは、線の上手さやパースの取り方だよ。これソフトの補正とかCG素材とか全然使ってなくて、全部手で描いてるんだろ? いやー、とんでもない技術だよ! 今日びこんな描き方ができる人、プロでも少ないんじゃないかなぁ。それに話の運び方もいいね。明治末期の令嬢なんて渋いキャラクター、どうやって考えたの? この純子って子のキャラがさ、うまーく話を運ぶんだよほんと。連歌帖を謎のキーにしてるから、お嬢様っていう設定が……」
それから雲日向は凪の漫画について、べらべらと喋りまくった。
聞いているほうが恥ずかしくなるほどのべた褒めだったが、単にヨイショをして持ち上げているのではなく、一ページごとの絵やコマ割り、台詞、ストーリーの進め方など、事細かく批評をつけた。
こんなに細かい点に着目した感想を言われた経験はなかったため、途中から凪は催眠術にでもかかったかのように雲日向の言葉に魅了されていった。
それと同時に、自分の漫画には自分が思う以上の魅力があることにも気づかされた。
それらを一通り語ったあと、雲日向は首を傾げて言った。
「実に惜しいのが、あの上げ方だよ。まあいまどきあんなふうにやってる人がいないから、むしろ目立ってバズった側面もないとは言わないけど、もったいないね。なんでデジタルでやらないの?」
「それは……機械が苦手っていうのもありますけど、実は母に反対されてて、だから機材とか買えなくて……」
「えっ? 漫画を描くことを? そりゃー厳しい親御さんだねえ……」
「いえ、正確には漫画家になることが、なんですけど……。でも多分、漫画を描くこともそんなに……いい顔はしないかもって感じで……」
「ふーん、なかなか苦労してるんだねえ」
雲日向は腕を組んで考え込み、少ししてからぽんと膝を打った。
「君自身は、どうなの? 漫画家になる気はある?」
「えっ? そ、それは……」
ずばり、核心の質問。それは自分の人生における核心だった。
なりたいか、と問われれば、答えは最初から決まっている。
しかし、なるか、と問われると、少し意味合いが変わってくる。
なるか、ならないか。
それは願望ではなく、状態。
状況を変化させれば到れる、一つの状態。
漫画家に、なる。
なりたいではなく、なる。
こんな言葉遊びはネットやSNSで散々目にしてきていて、いまさら噛みしめるようなものではないと思っていたが、事ここに至ってはこれこそが核心を突く、なによりの言葉だった。
「……なります。なりたいです。わたしは漫画家に、なりたい。お母さんには反対されてますけど、なってしまえば認めざるを得ないですよね。だったら、なればいい。漫画家になればいい!」
凪は強い声で、そう言い切った。
雲日向は、納得したように何度も頷いた。
「それが聞きたかった。僕がどんなに背中を押したって、親御さんの反対に従っちゃうつもりならどうしようもないからね。わかった。それならその原稿を、少し預かってもいいかい? 編集会議に出して、君のプロデビューを検討させてみるよ」
「ほっ、本当ですか⁉」
「実力的には申し分ないんだ。立場上、絶対とは言えないけど、まあほぼほぼ、と思ってくれていいよ。そうしたら正式に君の創作活動をサポートできる。ペンタブやパソコンくらいこっちで用意するからさ、これからはデジタルの練習をしてくれよ。と言っても、君の場合は単に操作に慣れろってくらいの意味合いだけどね。今日はこんなとこかな。遠いところまで来てくれて、ありがとね」
「はいっ、はいっ! ありがとうございました!」
原稿を再び手渡した凪はにこやかに手を振る雲日向へ何度も頭を下げながら、会議室を出た。
家路に就く電車の中で、芽来に結果報告のメッセージを送った。芽来はこの前以上の喜びようで、帰ったら必ず通話しようと送り返してきた。
夕日が車窓を流れていく。通り過ぎる川面に反射して、きらきらと輝く。
夢は、夢ではなくなった。それを叶える力が自分にはもうあったのだ。
今日まで重ねてきた努力は、裏切らなかった。
それが嬉しくて、凪はそわそわと落ち着かない気持ちで、家の最寄り駅に電車が着くのを、踵を弾ませながら待った。
いまは漫画が描きたい。芽来と話がしたい。
その時の凪の頭には、その二つのことしかなかった。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。




