13
その日の夜、帰宅した凪は刑の執行を待つ罪人のような気持ちで、母を待った。
やがて玄関から「ただいまー」という声が聞こえて、スーツ姿の母がリビングに顔を出した。
「お、おかえり……。珍しいね、週の真ん中に帰って来るなんて……」
「んー、まぁちょっと、凪と話したいことがあったからさ。ご飯、なんにする?」
「あ、えっと、なんでも……」
「そう? じゃあ適当に注文するから、受け取っといて。その間にお風呂入っちゃうわ」
母は家に帰ってもシゴデキ人間。てきぱきと出前を注文してさっとスーツを脱ぎ捨て、風呂場に入っていった。
そんな母と日常会話をするだけで、心臓がばくばくと暴れてしまう。
いつからこんなふうに、母を恐れるようになったのだろう。それはもう、思い出せない。
そのうちインターホンが鳴って、出前が届いた。
その時間を把握していたかのようにピッタリのタイミングで、母が風呂場から出てきた。
テーブルで向かい合った二人は弁当の蓋を開け、黙々と食べる。
母は昔から、食事中にテレビやスマホなどを見ない人だ。
普段はスマホで動画を流し見したり、芽来と喋ったりしながら食べる凪にとって、ひどく息苦しい晩餐となった。
そうしてすっかり食べ終わり、一服したあと、母がいよいよ切り出してきた。
「学校から電話がかかってきたんだけど、進路調査票、まだ提出してないって本当? 凪は将来、どうするつもり?」
「えっと……」
どうする。言ってしまうか。
どうすると問いかけてくれるなら、少なくとも聞く姿勢はあるということ。
期待するだけ虚しいのは重々承知の上、それでも、という仄かな希望が燻る。
――心配そうな顔してる。わたしのこと、きっと本気で想ってくれてる。それなら届く? いまなら、届く?
ごくり、唾を呑み込む。
「……わたし、漫画を描きたいなって」
言った。言ってしまった。
夢のような夢。夢見がちな夢。ふわふわしていて、夢という言葉以外に表現しようのない願望。
そんな覚束ないものでも、自分の未来へ繋いでいく覚悟はあるつもり。
あくまで〝つもり〟だ。強いような弱いような決意。
ただ、生まれてきてから今日この日まで、一度たりとも消えなかった願いだ。
「漫画? つまり、漫画家になりたいってこと? ふーん、そっか、漫画家ねぇ……」
母の顔がみるみるうちに曇りゆく。表情が見えなくなる。
――作画ミスだ。あそこはスミベタを塗るところでも、スクリーントーンを貼るところでもないのに。
やめて、わからなくなる。あの人がなにを考えているのか、わからなくなる。
「でもいまどき漫画なんて、漫画家にならなくても描けるんじゃない? 投稿サイトとかあるし、SNSで上げたりとかさ。普通の仕事しながら少しずつ描いてって、そういうところからデビューする人も最近多いんでしょ? 凪もそうしてみたら、どう?」
――普通の仕事、ってなに? 漫画家は、普通じゃないの?
暗黒の向こう、どんな顔をしてそんなことを言っていたのかわからないけれど。
なんて耳障りも世間体もよく、現実的な意見なのだろう。
大上段に構えられた正論に、夢は真っ二つにされた。
――親ならそう言うよ。当たり前じゃん。だって、実の母親だもの。
お腹を痛めて産んだ我が子の将来が思春期特有の気の迷いでふわふわしてたら、こんなこと言いたくなるに決まってんじゃん。
正面から否定しないのが、現代のトレンド。
それこそ母とて、SNSから自分みたいな子供との付き合い方について、情報を収集しているに違いない。
だからこんなにもバランスの取れたことが言える。
病院食のようなバランスの良さ。
そういう食事のような味気無さ。
「……そうだね。そうしようかな」
砂利みたいな味がする母の愛を噛み締めながら、凪はその時、そう答える他になかった。
ありがたく、尊く、唯一無二で掛け替えのない人が、地球の反対側にいる人と同程度のことしか言わない。
炎上もいいねも怖くて当たり障りのないコメントしかできない、アイコン未設定のアカウントが喋っている感じ。
――顔が見えない。誰か、あの人のアイコン描いて。
スクリーントーンだかベタだか初期設定のアバターだかで区別がつかないあの人の顔、認識できるようにしてよ。
じゃなきゃ、どのくらいの温度感でわたしの将来について語ってるのか、全然わかんないよ。
こんな成り行きになるのも予想の範疇ではあった。
だからこそ、言わなければよかったという後悔が強く自分を責めた。
ポケットに忍ばせたスマホを指先で触れる。
芽来が言っていたように、SNSを――自分の努力の証を見せる勇気は出なかった。
それすら否定されたら、生きていけないような気がしたから。
「じゃあ、調査票書いて寝るね」
凪がテーブルを離れると、その後ろから母がまるで名案かのように言った。
「あっ、そうだ。高校を卒業する前に、お母さんの会社にインターンに来たら? 最近、高校生のインターンってのもあるのよ。先生も凪の進路が決まらないのを心配していらしたから、ちゃんと考えてるってことを伝えるためにさ、どう?」
「ありがと。考えとく」
それだけ言って自室に引っ込み、力なく椅子に座った。
デスクに散らばる画材。広げっぱなしの原稿。投げっぱなしの失敗作。全部、宝物だ。
乱雑なデスクを適当に片し、進路調査票を置く。
ペンを取って名前を書き、第一希望の欄に字を書こうとして――代わりに涙がぱたぱたと落ちた。
この空白を〝漫画家〟で埋めてはいけない理由。書けない理由。それは、なに?
普通の仕事じゃないから? なれるかどうかわからないから? お母さんが反対するから?
――違う。〝書けない〟という事実を動かせないくらい、自分を通す力が弱いから。
部屋を見渡す。夜闇に沈み、涙でぼやける、見飽きた自分の部屋。そのあちこちに努力の塊が散らばっている。
今日までどれだけ描いてきたか。この椅子に座って何時間、何日、何年悩んできたか。
そうして積み上げたものは、それだけでは認めてもらえないような、どうでもいいものなのか。
いや、その価値を肯定できないのは――自分に自信がないからだ。
スマホを取り、SNSのアプリを開く。三万六五一九人のフォロワー。
数値で示された具体的な価値。絶対的な指標。
けれどこんな数字、なんの意味もない。
なぜならちっとも実感がない。自信を与えてくれないのだ。
この数字を真に受けるだけで勇気が生まれるなら、母にもっと強く言えただろう。この夢の根拠を語れただろう。
自分で自分の夢を支えられない弱さ。泣いても泣いても、消えない情けなさ。
そんな感情の鬩ぎ合いに苛まれて泣き続け、疲れて、そのうちデスクに突っ伏して寝てしまった。
どれほどそうして眠っていた頃か。
スマホがピコンとDMが届いたのを告げる音を聞いて、凪は顔を上げた。
「んう……?」
乾いた涙でべとべとになった顔を擦りながら時間を見ると、午前一時を周っていた。
顔でも洗ってくるか、と思いながらDMの送り主を見た凪は、心臓が止まりそうになった。
「こっ、これ……スターハートの公式アカウント⁉ なっ、なんでわたしに……⁉」
浮かせかけた腰を椅子に戻し、焦る指でスマホを操作していく。
なりすましか、いたずらか、詐欺か――そんな疑念が先行したが、調べてみると正真正銘、本物のアカウントだった。
おそるおそるDMを開くと、そこには衝撃的な内容が記されていた。
『はじめまして、水瀬瑠璃先生。スターハート出版編集部の雲日向と申します。最近SNSで話題になっている先生の作品を拝見いたしまして、深く感銘を受けました。ただ先生の作品は直撮りでアップされておりますため、細部の確認ができません。つきましてはご足労をおかけして恐縮ですが、弊社編集部まで原稿をお持ちいただくことはできないでしょうか? プロデビューを視野に入れた検討をぜひさせていただきたく、DMを差し上げた次第です。ご返答のほど……』
「……ご返答のほど、お待ちしております⁉」
いつの間にか声に出して読んでいた自分にも気づかず、椅子から立ち上がった凪は檻の中をうろつく猛獣のようにぐるぐると部屋の中を歩き回った。
「うぅ……うわぁ、うわぁああああ……ちょっと待って、感情が追いつかない……。えっ、えっ、どゆこと⁉ これ、嘘じゃないよね? 本当なんだよね? ちょっと待って、わかんない。えっ、どうしよ。どうしよう⁉」
どん底まで下がった精神は一転、雲の上をぶち抜いて成層圏まで吹っ飛んだ。
その激しすぎる起伏に思考も感情も追いつかず、ひたすらに狼狽える。
それからしばらくして、やっと一つの案を思いついた。
「そっ、そうだ、芽来! こういう時は、芽来に相談しよ!」
午前一時をとっくに周った深夜ということも忘れ、興奮冷めやらぬ指で何度も間違えながら芽来にメッセージを送る。
証拠にスクリーンショットまで添付した。
通話は即座にかかってきた。
「め、芽来ったら、早いね……。こんな時間に喋って、だいじょぶ……?」
『あんたに叩き起こされて、もう外に飛び出してんだっつーの! ってか、これなに⁉ まじヤバいじゃん! ってか、めちゃくちゃすっげーじゃん! おめでとう、凪!』
「いやー、あはは、おめでたいのかな? ちょっとわたしも、脳みそが追いついてなくて……」
『だーかーらー、ずっと言ってたじゃん! 凪はすごいんだって、才能あるんだって! ひゃーっ、それにしてもプロデビューかぁ。まじで先生じゃん。ちょっと、明日サインちょうだい!』
芽来の興奮ぶりは自分以上だった。
それがおかしくて、嬉しくて、涙が出て――凪はやっと、この幸運が自分のものであることを自覚した。
『えっ、なに、泣いてんの? どうしたの、凪⁉』
「あはっ、ごめんごめん! ちょい、嬉し過ぎて。そっかー、そうだねー、わたし、プロデビューするかもなんだね。わー、やば。言葉になんない。なんも出てこないよ」
『かも、じゃないから! もう来てるから! 現実受け止めなよって! あっ、ってか、こんなのが来てるんだから、凪のお母さんも余裕で認めてくれるんじゃない?』
「あー、それはね……やっぱダメだった」
先ほどの顛末を思い出した凪のテンションは、夢見心地から平常のところまで一気に戻った。
芽来にその経緯を話した後、荒ぶりすぎた頭の熱を吐き出すようにほうっと息を吐く。
「そーゆーわけだから、よくよく考えてみたらこんな話、嬉しいけど……断らなきゃダメだよね」
『は? 待って、なんでそうなんの? 凪のお母さんは結局、仕事になるかどうかを心配してんでしょ? プロデビューなら立派な仕事じゃん。職業じゃん。なんも問題ないじゃん!』
「あれ……? そっ、か? そういうもん?」
『いや、どう考えたってそうでしょ! あんた、ショックを受けすぎてテンパってるって。今日はもう寝てさ、明日冷静になってまた考えてみなよ。断るなんて、絶対あり得ないって!』
それから何度も芽来に励まされ、念を押され、たっぷり三十分ほど喋ってから通話を切った。
空気が抜けたような頭はぽけーっとしていて、もうなんの判断もできそうになかった。
なので芽来の助言通り、くたくたになった身体をベッドに横たえて、明日を待つことにした。
――もしかしたら、夢は夢じゃなくなって、本当になっちゃうのかな。
眠りしな、胸を突き上げるような期待が、花火のように弾けた。
本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。
改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)
予めご了承くださいませ。




