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夕凪残響の茜色の遠く世界の空の君の影【立ち読み版】  作者: 夜夜メイ
1. ブルーフィールドより歩みて
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 草と土が匂う、ゆるい風。暖かな太陽の温度。

 ゆっくりと目を開ける。


 青、青、青。


 はじめは眩しくて、すぐに瞼を窄めてしまった。

 そのうち明るさに慣れて、また徐々に見開いていく。


 青、青、青。


 その青の手前、眼球の表面辺りの距離に、白く小さな粒子がぴょこぴょこと漂っていた。

 視線で追っても、粒子状のそれはひょいひょいと視界の中を逃げ回って、一向に捉えられない。


 ふわふわ。ふわふわ。


 見えているのに、眼前にあるのかすらわからない。


 ふわふわ。ふわふわ。


 青の中で飛び回る白色のようにふわついていた意識が、段々と固まっていく。


 爪先、足、脚、腰。

 腹、手首、肘、腕、肩。

 首、舌、鼻、目、脳みそ。


 ――わたし。


「……んあ」


 目覚める。少女は目を擦りながら、瞼を完全に開いた。


 なるほど、寝っ転がっていたのか。だから空を見上げていた。あの青は、空だ。


 上体を起こして視線を下ろすと、遥か遠くまで穏やかな野原が続いていた。時々花も咲いている。どうやらここは小高い丘になっているようだ。


 どうしてこんなところで寝ていたのだろう? 思考は霞がかっていて、はっきりしたことがなにも思い出せない。名前も、この場所も、どうやってここへ来たのかも、なにもわからない。


 不安になってきょろきょろしていると、すぐそばに学生鞄があった。


「わたしの……かな。どうだろう……」


 鞄が自分のものかどうか定かではなかったが、さりとて他に手がかりもない。

 そう思って右腕を伸ばした時、その先が――右手がないことに気がついた。


「ありゃ……。わたしの腕って、こんなふうだっけ?」


 そんなことを考えながら、右手がないことに気づく自分、それが失われているのを不自然に思う程度の常識があるのに気づく。見知らぬ鞄を〝学生鞄〟と認識することもできている。このことから、抜け落ちた記憶は〝自分に関すること〟だということに思い至った。


 幸い、右腕に痛みはない。元々なかったかのように、すっぱりとなくなっているからだろうか。


「ま、いいか」


 少女は一旦右手のことは脇に置いて左手で鞄を取り、中身を探ってみた。ほとんど空だったが、一つだけ指先に触れるものがあった。取り出してみると、学生証だった。


 学生証には顔写真があったが、学校名も、学年や出席番号も、なにより肝心要の名前も空欄になっていた。

 その顔写真を見ても、自分のものなのかどうか自信がない。


「これ……わたし? うー、どうなのかな。これじゃなんもわかんないし、思い出せないよ……。でもまぁ、ここにあったんだから、わたしのもの……だよね? そういうことでいいよね?」


 問いかけは青空に融けて、消えていった。少女は誰も答えてくれない疑問を抱えつつ、学生証を鞄に戻す。


 そして、徐ろに立ち上がった。


 野原は陽光と風を受けて、きらきら輝いている。どこへ向かうべきか、目的地などなかったが、とりあえず風の吹くまま気の向くまま、歩いてみることにした。


 一歩ごとにさくさくと靴の裏に伝わる草の感触が、心地よい。そうして丘を降りると、綺麗な池があった。清浄な湿っぽい匂いを感じると、喉が乾いていることに気づいた。


「ちょうどいいや。顔とか洗いたいし」


 寝覚めに洗顔と、一杯の水。記憶がなくとも(からだ)に染み付いたルーティンに従って、池の畔に膝をつく。そうして湖面を覗き込むと、水鏡に映った自分は学生証と同じ顔、同じ学生服姿だった。


 ――いや、正確には、まったく同一とは言えなかった。


「うそ……」


 水鏡に映った顔には、右目がなかった。さらには胸にもぽっかりと穴が開いていた。痛みも感覚もないせいでそんな重要なことに気づいていなかった自分に驚き、しばし言葉を失う。

 あまりにも自然に右目・右手・胸が失われた、不自然な状態。手と目はともかく、胸――心臓がないのは一大事である。どうしてこんな状態で生きていられるのだろうか?


「案外、なくても生きていける感じ? や、そんなわけないと思うけど……」


 この異常事態を平然と受け入れている自分がいる。

 というより、これが元々の自分だったような気すらしてくる。


 なにせ、これを〝異常〟と断じる根拠は、単に常識からの乖離を感じているからというだけのことであって、比較するべき本来の自分についてはなにもわからないのだ。


 ひとまず左手で不器用に顔を洗い、水を掬って飲む。片手だからうまくできず、胸元がびしょびしょになってしまった。もし右手があったならきっと、こんなふうにはならなかった。


「やりにくいって感じる。ってことは、やっぱり右手はあったんじゃないの? だって普通に顔を洗うとしたら……こうでしょ。ほら、変だ。両手で水を掬う感覚はわかるもん。朝、起きるでしょ。顔を洗うでしょ。それで歯を磨いて、水を飲んで、あとは……あとは?」


 (からだ)が覚えている一連の動作。きっと毎朝繰り返し、いちいち着目する必要のなかった当たり前の作業。それを頼りに記憶を手繰り寄せようとしても、その糸の先はやはり途切れてしまっている。


「ダメだ、わかんない。あーもー、なんかめんどくなってきた!」


 少女は鞄を放りだし、どすんと座り込んで空を仰いだ。ゆっくりと流れてゆく雲を眺めていると、なにもかもがどうでもよくなってくる。


 このまま記憶が戻らないとして――そういう人生に思いを馳せてみる。


 右手・右目・胸が欠けても、生きている。水は飲めた――胸の穴から溢れるようなことはなかった――が、お腹は空くのだろうか。もしお腹が空くのなら、(からだ)が栄養を欲するということ――生きているということ。


 物を食べ、水を飲み、雲を眺めるだけの人生。

 それは、生きていると言える?


「それはちょっと、なんとなく……やだな」


 我思う、ゆえに我あり。そんなことを言った哲学者は、アリストテレス? それともデカルトか、マルクス、ニーチェ? 誰が言ったか忘れたが、実際素晴らしい言葉だ。


 自分が自分を思う時こそ、そこに自分がいる。逆説的には、思い浮かべる自分を知らなければ、自分はここにいないも同然。


 つまり、いまの自分は――ここに〝いる〟とは言えない。

 そんな状態を、少なくとも嫌だと感じることはできるけれど、それを自我と呼ぶにはあまりにも頼りない。


「名も知らぬ我。我とはなんぞや? 我とは我を考える我、ゆえに我あり……って、それじゃただの無限ループじゃん。ばっかみたい」


 哲学者ぶって考え込むふりをしてみても、なにもわかるはずもなくて。


 記憶を取り戻すなら、やはり探しに行かなければならないだろう。しかし、どこへ? どうやって? ここに〝ある〟自分と、ここに〝いない〟自分。そんな二律背反に不安はあるが、美しい風景や暖かな光に身を寄せていると、それもこの野原のように無限に拡がって薄まっていく気がする。


「探しに行くか、ここで暮らすか、ねぇ……。そんなことを決められるほど、わたしはわたしのことがわからないよ……」

「なら、とりあえず進んでみたら?」

「おうあ⁉」


 背後から突然声がして、少女は飛び上がった。振り返ると、そこには青いうさぎがいた。


「もしかして、いま喋ったのって……」

「僕だよ。そんなに驚かせちゃった?」

「そりゃ驚くよ! うさぎが喋ってる!」

「喋るうさぎがいちゃダメ? 困ってるようだから、声を掛けてあげたんだけど」

「うーん、ダメかって聞かれると、ダメじゃないけど……。っていうか、進んでみたらって?」

「なんか探してるんでしょ? だからそう言ったんだよ」

「ひえー、ナチュラル。あのねぇ、わたしの捜し物、なんだかわかる? 記憶だよ、記憶。そんなの、どこにあると思う? 行き先だってわからないのに」

「でもさ、ここで座り込んでたってなにも解決しないでしょ? ならとりあえず、知ったかぶって進んでみれば?」

「知ったかぶる? なにを?」

「君だよ。だって記憶も、行く宛もないんでしょ」

「わたしがわたしを〝知ったかぶる〟の? それってなんか、変な感じだね」

「君が君を知らないんだから、仕方ないじゃん」

「そりゃまあ、確かに……。でも……」


 うさぎの語る言葉は小川のせせらぎのように滔々としていて、朝露のようにじんわりと少女の心に染み込んだ。ここで枯木のようにじっとしているより、ずっと建設的な考えだ。


 しかし、それに是非をつける自我が――自分が足りない。

 自分の考えを〝自分らしい〟と定義づけるだけの自分が、全然足りない。


「あなたの言うことはわかるけど……自信がないよ。記憶を探すことが正しいかどうかすら、わからないんだもん……」

「だから知ったかぶればって言ってるんだよ。重要なのは、いまの君がどう感じるかじゃない? 君はどうしたいの?」

「それは……」


 空を見上げて、もう一度考える。


 なにもかもが欠けた自分。なにもわからない自分。それを嫌だと思う自分。いまにも崩れそうな、危うい積み木の城。

 それを暫定の自分として――知ったかぶって――前に進む。


「いいのかな、そんな選び方で……」

「いいも悪いも、やってみなきゃわからないよ。もし悪かったら、その時に考え直したら?」

「そっか……そうだね。うん、その通り! よーっし、わたしは記憶を……欠けたところを探す! 知ったかぶって、ね!」


 決意を固めて、勢いよく立ち上がる。

 その時、野原の向こうから強い風が吹き渡ってきた。


 まるで旅立ちを祝福しているかのように感じた少女は、その緑の空気をいっぱいに吸い込む。


「あ、でも……どっちへ行ったらいいんだろ? あなた、この辺に詳しい?」

「道案内が必要かい? それなら、付き合ってあげるよ」

「ほんと⁉ ありがと、助かる! えーっと……」

「僕はメ㐅メ(めごめ)。それじゃ、早速出発しようか」

「うんっ!」


 メ㐅メはぴょいっと軽やかに少女の前へ躍り出て、先導するように飛び跳ねていった。

 それを追いかけて、少女は広い野原を歩き始めた。

本作は24/12/01開催の『文学フリマ東京39』で頒布される作品の立ち読み版です。

改行位置やルビなどをなろうユーザー向けに改変しておりますので、本編とは若干仕様が異なります。(内容に変更はございません)

予めご了承くださいませ。

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