世界観の概要と詠星生態部
【アル・レイス】。それがこの世界の名前。
時に誰かが届けたかった言葉、自分にかけるべきであった言葉、そしてそれらの想い。こういったものは必ず届くものでは無い。抑圧したもの、諦めたもの、受け入れたもの、妥協したもの、否定したもの、歪めたもの。いずれにしても、そうした言葉は届けるべき相手に届かない。
それでは届かなくなった言葉はどこに行くのか。そのまま心の内に留まり続けるのか。
否。
すべての言葉は一度、とある世界を経由して誰かに届けられていく。その通過点となる世界がアル・レイス。
そして、誰かに届くはずだった言葉が届かずにいる時、それらはこの世界に墜ちてくる。
そうして本来誰かに届くべきだった言葉は、墜ちた先で【詠星】として自我を持つようになる。
「言ってみれば、君は誰かから誰かに向けられた、しかし届けることができなかった言葉の擬人化ということになる」
「うぁ……情報量が多いなぁ……ボクが、言葉、の擬人化?」
「そうだな。そして、詠星にはこの世界の人間とは異なるいくつかの特徴がある。ひとつは既に体感していると思うが、詠星は誕生時、自身の名前以外の記憶を喪失しているというものだ。しかし、一方でこの世界における一般的な常識と言語、理性を伴って誕生する」
アルクの説明に「ふぅん?」とスゥファリィが疑念の声音を漏らす。
「確かにボクは名前しか思い出せないのにものの名前とか、この世界の言葉は問題なく話せていると思うけど、どうしてそんな風になるんだい?」
「それが、さてな、と言うしかなくてな。今も精力的に研究はされているんだが、明確な理由はでていない。一説では、詠星がこの世界に適応しやすいように世界自体が詠星に何らかの働きをしているのではないか、といったものや、言葉の元となった、誰かに言葉を届けようとした人物、この世界では【想い主】というが、その想い主の理性や知識などがある程度投影されているのではないかとかあるな。ただ、どの説も問題点があったりしてはっきりとは言えない」
これらの説明はすべて、これまでの詠星の発言やかかわりを通してまとめられた結果論となっている。
「次の特徴として、詠星の名前は誰かが届けたかった言葉と同一であるということだ」
「じゃあ、ボクの名前も何かの言葉なのかい?」
「そうなるな」
「ただ」とアルクは続ける。
「現時点ではどのような意味なのかはわからないが」
「あれ、どうして?」
「というのも、この世界の言語ではない可能性があるんだ」
「この世界?」とスゥファリィが反復する。
「そう。先程、あらゆる言葉はこの世界を通過するといったが、何もこの世界の言葉だけが通過するわけではないんだ。あらゆる世界の言葉がこの世界をまずは通過する。どうして通過するのかという根本的な理由は判明していないがな」
「それと、この世界の言葉であっても、純粋に俺が知らないだけの可能性もある」と付け加える。
この世界にも、いくつもの言語が存在するのだ。そのすべての言葉を覚えるのはあまりにきびしい。というかパンクする。
「だから、これについてはあとで該当する世界の言葉があるのか、新しい世界の言語なのか、世界言語部の研究者に確認をとろうと思っている」
「世界、言語、部」
くるくるとスゥファリィの頭が回り始めている。
どうやら情報を入れすぎてしまったらしい。
「まぁ、なんだ。ここはそんなよくわからない世界だと思ってくれていい。それで、そんな君たちが言葉を届けられるように支援するのが俺たち紡ぎ手の仕事と考えてくれ」
「紡ぎ手さん、彼女は、もう……」
スゥファリィの魂が、抜けている。
何も言葉を入れたくないという表れか……まぁ、確かにこんな幼子にこれだけの情報を一気に与えても理解できなくて当然だ。それは紡ぎ手としてのアルクの落ち度だろう。
「と、なると、また時間をみつけて説明する必要がありそうだな。とはいえ、今は、詠星生態部につれていかなくては」
しかし、そこのスゥファリィはまるで微動だにしない。恐らくフリーズした脳が動くまでうご――
「すぅ……すぅ……」
…………。
「頭を使いすぎて、寝たのか……?」
もしかすると、本当に身体は幼子同然のものかもしれない。
「しかし、まいったな。どうやってつれていくか」
「まぁ、紡ぎ手さんがおんぶしてあげればいいんじゃないかい?」
エルメンテはそう言うが、正直そんな姿はあまりみられたくない。
詠星を自分の娘だと錯覚している精神異常者と見られたら、もうアルクは顔を隠さずにこの塔を歩き回ること等できなくなってしまう。
「……トゥルー。お姉さんになるチャンスだぞ」
「にやりなのですよ。トゥルーはこの時を待っていたのです」
退屈そうな表情から一変、手をわきわきとしながらトゥルーがスゥファリィに近づいていく。
「ふふっ、ここから先はお姉さんが責任を持っておぶってあげるのですよ。この、お姉さんがッ!」
トゥルー、そんなにもお姉さんになりたかったのか、と心の中でアルクが呟く。
そっと、まずはスゥファリィを抱きかかえようとしたトゥルー。
しかし。
「んにゃ……」
ふわり、と何か違和感がスゥファリィから放出される。
そして、次の瞬間、ばたりとトゥルーがうつ伏せで倒れた。
ーートゥルーは動かない。
「……トゥルー?」
いや、そんなまさか。
震える手でトゥルーの顔を確認したアルクは――
「いや、寝ている……」
慟哭を叫んだり、衝撃を受けるというわけではなかった。
トゥルーが、寝ている。それはもうすやすやと。隣で一緒にスゥファリィも寝ているため、幼子が寝ている可愛らしいベッドになってしまった。
「これは、もしかするとスゥファリィの顕能か?」
スゥファリィには情報量の多さのために説明できなかったもう一つの詠星の特徴。
この世界は決して人間が自由に魔法を使えるような世界ではない。1回のジャンプで建物の屋上に飛べるほどの脚力もないし、みえない斬撃を飛ばしたりできはしない。この世界の人間は。
ただ、詠星という特別な存在だけは、それができてしまう。
顕能とは詠星のもつ、能力。それは無差別に決まるものではなく、彼ら彼女らに与えられた言葉の意味によって顕現する能力が異なる。
たとえばトゥルーの名前の意味は『正しさ』。あらゆる規範、道徳、信念を評価し、とある基準のもと、正しき行いをすることがトゥルーに与えられた言葉の意味であり、想い主がとある人物にあてた言葉でもあった。その言葉は、この世界においては不正を正す制裁の槍として顕現した。夜勤の哨戒時に見せた光の槍、あれがトゥルーの顕能だ。
逆説的には顕能を把握することによって、詠星の名前の意味を暫定的に推測することも可能なのだ。
この顕能についても、何故異能力としてアル・レイスで顕現するのかについては議論されている最中だ。
「これは、恐らく催眠系の顕能の一種だろうか。いや、このスゥファリィの眠りようだと、睡眠の顕能の方がよいのか?」
催眠といっても、言葉通り眠りを催させるものである。ただ、詠星の性格などは言葉の意味に関連することを考えると、睡眠の顕能と呼んでも差支えないのかもしれない。
「どちらにしろ、どうするんだい? 紡ぎ手さんが運ぶしかなくなってしまったようだけど」
「……エルメンテ。お願いすることはできないか?」
「手伝ってあげたい気持ちもあるけれど、お生憎、寮長はそう簡単に持ち場を離れることができなくてね。なんなら誰か呼んでこようか?」
「ああ、なら……いや」
流石にそこまでしてもらうのも気が引けてしまう。
少なくともエルメンテはおぶればいいのに、という考えであるようだから、もしかするとアルクの考えすぎなのかもしれない。
「やはり、俺が運んでいくよ」
と、アルクはスゥファリィに近づく。
「とはいっても、俺が運ぼうとしても、眠らされるんじゃないか、というのはあるが」
一応エルメンテにはもし自分も眠らされた場合は叩きおこしてほしいと伝えてからスゥファリィを抱きかかえる。
しかし、特に顕能が発現することもなかった。
「ということは、あれはたまたまだったのか」
なんと哀れな少女よ、トゥルー。
幸せそうに寝ているし、お姉さんぶることができなかったのは、まぁ良いと思ってもらおう。
おぶっても落とすのが怖いのでそのままだっこの状態で運ぶことにする。
寮をでて、目指すは1時の塔である【詠星生態部】。
道中一部の紡ぎ手や詠星からは微笑ましい視線であったり、引かれるような視線であったりと針の筵状態でどうにか到着する。
「は、恥ずかしかった……」
が、しかし、下手をすると、送り届ける時もこうしなくてはいけない可能性がある。
是非、起きてほしい。
詠星生態部の建物にはいると、出迎えるのは培養槽やそれに繋がれたパイプ、そして駆動音を響かせるいくつもの機械。ここだけ異世界になったかのような錯覚を覚える。
培養槽の中には不定形に蠢く黒い物体が収まっている。ここは詠星生態部、エントランス兼展示エリア。
白衣を着た何人もの研究者が思い思いに過ごしている。
アルクはその一人、黒い物体が収められている培養槽の前でクリップボード片手に何か書いている眼鏡男に声をかける。
「アレン、仕事か?」
「ん? おお、その声は我が友アルクじゃないか! まぁ、仕事だね。展示品でももしものことはあるから、定期的な確認作業さ。と、それはいいとして、君がここにきたってことはもしかして、どこか怪我でもしたのかい?」
「いや、怪我は幸いになくてね。今日は別件で来させてもらった」
「へぇ、アルクが怪我以外でここにくるのは久しぶりだから驚いたよ。となると、ん? おや、その抱きかかえている女の子は……」
瞬間アレンの瞳孔が開く。
「もしかして、朝方報告のあった詠星だったりするかい!?」
その言葉がいけなかった。
アレンの言葉がエントランス中に響き渡る。
響き渡るとどうなるか? 思い思いにくつろいでいた研究者たちの視線が途端、ぐりんといわんばかりにアルクの背中につきささったではないか。
「詠、星……?」
「新しい、詠星……?」
「今、アレンが言ったよな、ああ、ちゃんときいたぞ……」
「詠星、詠星……!」
まるで幽鬼のようにふらふらと。
研究者達がアルクを取り囲み始める。
そして、その間にもアレンは興奮した面持ちで尋ねてくる。
「ねぇ、アルク、そうなんだよね!? 確か君は昨日夜勤だったと把握しているよ! それも哨戒地域は西の森、A1地区だったよね!? 詠星を保護したという信号もA1地区だったと思うんだけど!」
「え、やだ、なんで俺のシフトを把握しているんだ、あんた……」
あまりに不気味にも程がある。
そして、こんな空気の中で本当は言いたくないのだが。
「……あ、ああ。そうだ。この子が新しい詠星、スゥファリィだ」
途端研究者達の目が一層怪しくなる。
「ああ、やっぱり……!」
「今回はこんなに小さな子なんだ。かわいい~」
「黒のウェーブがかった長髪か。肌もやけに白いな。どこの世界の詠星なのだろうか」
「しかしあどけないな顔立ちよね。そういえば、誰か詠星の身体的特徴と名前の成熟性の関連について、研究している人いなかった? これ、すごく良いサンプルなんじゃない?」
何も研究者達は幼女愛好家という訳ではないのだ。
ただ、総じて言えるのは、詠星生態部に所属する研究者の多くは詠星に対して変態的であるということ。
とかく、興味がつきないそうだ。この世界の法則から外れた存在。この世界ではなしえない技術や知識をもった存在。まるで宇宙を研究するかのような異様な興奮につつまれる、というのはかつてのアレンの言葉だ。
研究者の怪しい目というのはすなわち貴重なサンプルに高揚する研究者のそれである。
「嬉しいなぁ! 最近は静寂期に入っていたから、新しい詠星の姿もなくてね。いやぁ、本当に嬉しいよ!」
「そ、それはよかった。その、それで、興奮しているところ悪いんだが――」
「ああ、分かっているとも! まずは健康診断だろう? ドクターは保健治療室にいると思うから尋ねてごらんよ! よし、手の空いている人は検査の準備をしてしまおう!」
「おお!」と研究者が拳をつきあげる。めちゃくちゃ熱血集団である。
がやがやと動き出す研究者たちにアルクは誰ともなく。
「いや、あんたら、仕事とか休憩とか……してたんじゃなかったのか?」
ただ、その言葉はむなしく宙に舞うだけだった。