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第6話 存在否定

いつだったか、花をくれた人がいた。

男の子だった。

与えられていた番号は三百十五番。

名前は侑玖。

彼は、いつも中庭で芝生に座って花畑の方を向いていた私に、初めて近づいてきた「人間」だった。


「花、好きなの?」


問いかけられて顔を上げる。

ボロボロの髪の毛に、自傷傷だらけの両腕。

包帯を巻いている箇所も多い。

彼女の眼球は白濁していた。

視力がないのだ。


「…………」


答えずに、また花畑に視線を戻す。

誰とも話したくなかった。

しかし彼女の拒否の態度を気にしていないのか、少年は近づいてきて、体が触れるほど隣に腰を下ろした。


「俺、侑玖って言うんだ。名前は?」


そんなことを聞かれたのは初めてのことだったので、驚いて顔を上げる。

そして侑玖と名乗った少年の方を向いた。


「名前……?」

「うん。俺の部屋、この真上なんだ。君、いつもここにいるだろ?」

「……二百十二番」

「型番じゃなくてさ、名前は?」


しばらく黙り込んで、少女は病院服のまま膝を体に引き寄せた。

そして顎を膝に埋めて、小さな声で答える。


「……葛葉」

「へえ、綺麗な名前だ」


そんなことを言われたのは生まれてはじめてのことだったので、葛葉は白濁した目を少年に向けた。


「何か用……?」

「花、好きなのかと思って。ほら」


侑玖は、手にチューリップの植えられた小さな鉢植えを持っていた。

それを葛葉に持たせる。


「レクリエーションで育てたんだ。部屋にでも飾りなよ」

「何……これ?」

「チューリップだよ。見えない?」


心配そうに問いかけられ、葛葉は頷いた。


「……ごめんなさい。私、全盲だから……」

「じゃあ、部屋まで送ってくよ。立てる?」


侑玖に手を引かれて、チューリップの鉢植えを持ったまま緩慢に立ち上がる。

そこで葛葉はよろめいて倒れそうになり、侑玖がそれを支えた。

僅かに頬を赤くして、葛葉は小さな声で


「ごめんなさい……」


と呟いて体を離した。

その手を握り、侑玖が歩きだす。


「部屋は?」

「D棟の45番……」

「近いね。ねぇ、友達になろう」


侑玖に手を引かれて歩きながら、葛葉は言われた意味が分からず、しばらくぼんやりとしていた。

少年は振り返って怪訝そうに首を傾げた。


「……嫌?」

「友達……」


その単語を繰り返し、彼女は小さく笑った。


「……友達」


もう一度繰り返して、侑玖の手を握り返す。

少年はそれ以上言わずに、施設の中庭を抜けた。


「あの……」


少し歩いたところで、葛葉は侑玖に聞いた。


「……ん?」

「このチューリップは、何色……?」



「……葛葉」


侑玖はそう言うと、歯を噛んで彼女に言った。


「どうして……」

「分からない? 侑玖君。今日はあなたを殺しに来たわ」


葛葉はクスクスと笑うと、手の中の精神中核を弄んだ。


「鬼ごっこしましょ。これ、必要なんでしょ?」

「そのつもりはないよ」


侑玖は、しかし冷たくそう言うとパン、と地面を平手で叩いた。

途端、葛葉の周りの地面が振動し、形を変える。

数秒後、アスファルトが鉄格子に変化し、葛葉は鉄の檻の中に囚われていた。


「二回も同じ奇襲に引っかかると思った?」

「…………」


淡々と侑玖が言う。


「成程ね」


ソフィーは、囚われても尚余裕の表情で精神中核を抱えている少女を見て、静かに口を開いた。


「今確信したわ。東機関『佐谷計画』の生き残り……おそらく二百番台の一人」


彼女は横目で侑玖を見て、続けた。


「……お知り合いかしら?」

「…………」


侑玖はそれには答えずに、手に持ったサバイバルナイフを振って、葛葉に近づいた。


「悪いけど、君の精神中核から情報をスナークさせてもらう。逃さない」

「……侑玖君」


そこで葛葉は、とても悲しそうな顔をして彼を見た。

精神中核を抱えた手が小さく震えている。


「変わったね」


檻の前に立った侑玖が、無表情でサバイバルナイフを振り上げる。


「別に」


淡白な彼の声を聞いて、葛葉はバカにするように鼻を鳴らした。


「ま、出来るものならね」


次の瞬間、彼女の体から炎が噴き上がった。

真っ白い爆炎のようなものが周囲に広がり、間髪を置かずに鉄製の檻が弾け飛ぶ。

その破片に殴りつけられる形で、侑玖が吹き飛ばされた。


「……ぐっ……」


ゴロゴロと地面を転がり、彼は体中から白い炎を上げながら足を踏み出した葛葉を見た。


「構成が甘いわよ、山中君。あの子もS級能力者なんでしょう?」


ソフィーが左腕のギプス、その留め金をもう一度外す。


「下がっていてください。俺がやる」

「申し訳ないけれど、私はあなたほどダイブが長く出来ないの。だから、介入させてもらうわ」


ギプスを剥がしながら進み出たソフィーを見て、葛葉は歪んだ笑みを発しながら言った。


「誰? おばさん。私は侑玖君に用事があるんだけど」

「年上に敬意を持たないのは馬鹿の証よ?」


嘲るようにそう返して、ソフィーはギプスを地面に落とした。

彼女の包帯が巻かれた腕を見て、葛葉は足を止めた。


「それは……スカイフィシュの……!」


驚いた声を上げた彼女に、ソフィーは微笑みながら包帯の手を向けた。


「見ただけで分かるなんて優秀ね。じゃあ、勝ち目がないことも分かっていただけるかしら?」

「……化け物……!」


葛葉はそう吐き捨てると、その場を飛び退った。

彼女がいた場所の「空間」がぐんにゃりと歪み、一拍遅れて轟音を立てて爆裂する。


「この患者の意識情報を乗っ取って、夢空間それ自体を操れるのか……!」


侑玖は歯噛みしてヘッドセットを操作した。

ノイズが聞こえるだけで、まだ通信は回復してないようだ。


関東赤十字病院は、自分達よりも先に、幸を狙う組織の情報を手に入れるつもりだ。

だから、このソフィーという女医が派遣されてきたと考えられる。


謎の組織は、幸にダイブ出来ない状況ができれば、必ず侑玖を追って来ることは予想されていた。

そう、このダイブは仕組まれたトラップ。

敵組織を誘い込んで捕獲するためのものだったのだ。


侑玖は歯噛みして、もう一度意識を集中し始めたソフィーを見た。

かなり苦しそうだ。

そろそろダイブの限界時間のようだ。


また「空間」が爆発し、葛葉が軽業師のように空中を舞った。

ソフィーは落ち着いた様子で宙に跳んだ彼女に手を向けた。

「空気」が変質し、空中に固定される。

それに四肢をガッチリと固定され、葛葉は手に持っていた精神中核を取り落した。


ソフィーは荒く息をつきながら、スカイフィシュの腕にギプスを巻き、固定具で体に留めた。

そして空中でもがいている葛葉に近づき、足元の精神中核を拾い上げて侑玖に放る。


「後はお任せしていいかしら? そろそろ私の時間も……」


そこまで彼女が言った瞬間だった。

空中に固定されていた葛葉の体が、炎となり崩れた。

そしてソフィーの体を、燃え盛りムチのようになった体で殴りつける。


とっさに反応できなかったソフィーが、侑玖の方に吹き飛ばされる。

侑玖は歯を噛んで彼女を受け止め、ゴロゴロと地面を転がった。

気絶したのか、ソフィーが首をカクンと垂れて脱力する。


その体が透けて、フッと消えた。

地面に転がった精神中核を、炎に変わった葛葉が、体を揺らめかせながら拾い上げる。

数秒して通信が回復し、秋坂の声がした。


『侑玖……侑玖、聞こえる?』

「聞こえます。現在、目標の敵と思われる勢力と交戦中です」

『フランソワーズ先生のバイタルが消えたわ。! 何があったの?』

「攻撃を受けてたけど、多分ただのタイムアップだと思われます」

『「敵」は捕獲できそう?』

「…………」


侑玖は歯を噛んで立ち上がった。

そしてサバイバルナイフを振って拳銃に変質させる。


「捕まえます。必ず」



それはもはや、葛葉が知っている「彼」ではなかった。

医師から、侑玖が「施術」をされたと聞いたのは、それが行われてから三週間ほど経ってからのことだった。


中庭に腰を下ろして、見えない目をぼんやりと花壇に向ける。

そうすると、彼が来てくれる気がしたから。

いつものように彼が、隣に座ってくれると思ったから。


しかし、三週間後に現れた侑玖は、もう葛葉の隣に腰を下ろしてはくれなかった。

彼は足元の砂利を踏みしめると、抑揚のない声で葛葉に呼びかけた。


「……久しぶりだね」

「侑玖君!」


弾かれたように顔を上げて、葛葉は立ち上がった。

そしてよろめきながら侑玖に近づこうとする。

侑玖は、しかしそれを冷めた目で見てから淡々と言った。


「葛葉、お別れを言いに来たんだ」

「お別れ……?」


葛葉は、何を言われたのか分からない、という顔で侑玖を見上げた。

そして引きつった顔でそれに返す。


「ど……どうして?」

「俺、この前施術されてさ。マインドスイーパーになるんだ。明日、このシアトルを離れて、日本に行くことになった」

「そんな……」


侑玖の方に伸ばそうとしていた葛葉の手が、力を失って垂れる。

彼女は俯いて、自傷傷だらけの右手を左手で握った。


「明日……? どうして……? どうして言いに来てくれなかったの……?」

「言っても何も変わらないだろ。俺にも、君にも、それはどうする事もできない」


その単調な言葉を聞いて、葛葉は全てを察した。

口元に手を当て、息を呑む。

彼女はしばらく泣きそうに顔を歪めていたが、やがて俯いて後ずさった。


「そう、頑張ってね……」


やっと絞り出した言葉だった。

侑玖はそれを聞いて、機械のように返した。


「葛葉も、元気で」



葛葉が振り回したムチのようになった炎を転がって避ける。

それはアスファルトの地面を砕き散らして、また横に振り抜かれた。

当たった場所が豪炎を上げて燃え盛り始める。


たちまち火の海になった周囲を見回して、葛葉は自分に拳銃を向けた侑玖に視線を向けた。

侑玖が間髪を置かずに一気に銃弾を六発発射する。

それらは葛葉の頭に正確に吸い込まれていったが、当たる直前に炎の熱で溶け、飛び散った。


「思った以上に干渉能力が強い……」


侑玖は吐き捨てて銃を振り、サバイバルナイフに変質させた。


「秋坂さん、Tを投与してください、早く!」

『分かった! 効果開始まであと十秒耐えろ!』


葛葉が不気味な笑みを発しながら足を踏み出す。

そこから炎が噴き上がり、アスファルトの地面をドロドロに溶かし始めた。


次の瞬間、侑玖の姿が消えた。

地面を砕き散らす勢いで踏み抜き、人間業と思えない速度で跳び上がったのだ。

実に十数メートルも宙を舞った侑玖は、一瞬で葛葉に肉薄した。


しかし、放物線を描きながら吹き飛んできた侑玖を見上げ、葛葉は無表情でヘッドセットを操作し、何事かを口にした。

そして肉薄して、地面をスライドしながら自分の首をサバイバルナイフで掻き切ろうとした侑玖の腕を掴んでそれを止める。


かろうじて視認できるほどの速度だったのだが、それにあっさりと追いつく反射神経だった。

驚いた顔をした侑玖の頬に、葛葉が突き出した拳が突き刺さった。

少年一人の体が、重機にでも殴られたかのように吹き飛び、ゴロゴロと地面を転がる。


「……ゲホッ!」


舌を噛んだのか、血を吐き出しながら、侑玖は立ち上がろうとして失敗した。

衝撃があまりにも強く、目の前がグラグラと揺れている。

脳震盪を起こすほどの衝撃。

視界が定まらない。


その歪んだ視線の先で、炎をまとった葛葉の体が消えるのが見えた。

次いで、腹部にまた重機のような衝撃が加わった。

また吹き飛ばされ、放物線を描いて、受け身も取れずに地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がる。


「ゲハッ……ガハッ……」


内臓のどこかが傷ついたらしく、今度は赤黒い血液を吐き出して、侑玖は四つん這いの姿勢で必死に立ち上がろうとした。

その頭を、いつの間に移動したのか、脇に立っていた葛葉が足を振り上げて思い切り踏みつける。

ゴッ、という重低音が響き、侑玖の目の前に星が散った。


『Tの効果時間が切れるぞ! 侑玖、どうした!』


秋坂の声がヘッドセットから聞こえる。

葛葉は荒く息をつきながら、侑玖の頭を踏みつけたまま言った。


「『ラッシュ』を投与できるのは、あなただけじゃないのよ、侑玖君」


額が切れたらしく、アスファルトの地面に侑玖の血液が広がっていく。

それを愛おしそうに見つめ、葛葉は腕を振った。

そこに侑玖のものと同じような拳銃が出現する。


「く……」


指を動かして自分も、もう一度拳銃を出そうとした侑玖だったが、葛葉は無表情で彼の両手に向けて引き金を引いた。


「があああ!」


激痛に絶叫を上げる侑玖。

銃弾で両手を砕かれた彼を足で転がして仰向けにしてから、葛葉はその胸を踏みつけた。

そして頭に拳銃を向ける。


「残念だけど、侑玖君じゃ私には勝てないよ。あなたのような『不完全体』と真面目に勝負をしたら、この前みたいなドジはもう踏まない」


葛葉はそう言って、小さく笑った。


『侑玖、どうした? バイタルが異常値だ。Tの副作用が来るぞ!』

「うるさいね、こいつ」


葛葉はそう言ってしゃがんで侑玖のヘッドセットを奪い取ると、手の中で握り込んだ。

たちまちそれが炎に包まれて溶けて消える。


「葛葉……」


侑玖は歯を噛んで、荒く息をつきながら口を開いた。


「……何が目的だ? アポカリクファの種はここにはない……」

「そんな事は分かってるよ。ちょっと、侑玖君にお別れを言いたくて」

「……お別れ?」


ニィ、と裂けそうな程口を開いて、少女は不気味な壊れた笑顔をした。


「あの時みたいに、私が感じた絶望を、苦しみを必ずあなたにも味あわせたかった。ねぇ、侑玖君、覚えてる?」

「…………」

「あなたがくれたチューリップの色」


葛葉はそう言って、歯を噛み締めて大声を上げた。


「あなたは全部忘れた! 私と話したことも、私との思い出も全部忘れた! 私は覚えてるのに、あなたは大事なことをすべて忘れて、そしてのうのうと生きている!」

「…………」

「私ね、実験じゃ死ななかったんだよ。でも再起不能検体として処理されて、捨てられた。ガドリニウムに拾われて、今は世界を変えるために働いてるの」

「……ガドリニウム……?」


怪訝そうに口にした侑玖に、葛葉は楽しそうに言った。


「私は今、凄く充実してるわ。でも、あなたの存在が邪魔。残念だけど、だからお別れしよう? 昔の思い出も何もかも、ここで終わりにしよう」

「なるほど……」


侑玖はそう呟くと、口の端を歪めて葛葉に言った。


「だがそれは、出来ない相談だ」

「その怪我でどうするつもり?」

「これは夢だ」


侑玖は唐突にそう断言すると、はっきりとした口調で続けた。


「ここで起こっていることは全て夢だ」

「何を……」


葛葉はそこまで言ってハッとした。

侑玖が砕かれた両腕を動かしたからだった。

彼は両手にサバイバルナイフを出現させると、起き上がりざまに大きく振った。


葛葉が間一髪でそれを避けて飛び退る。

血反吐を吐きながら、侑玖はもう一度はっきりと口に出した。


「俺の痛みも、傷も、何もかもが夢だ」

「自己暗示……! それも、とても強力な……」


絶句して言葉を失った葛葉が、一拍遅れて大声を上げる。


「そうやって何もかもを否定して、またあの時みたいに……あの時みたいに私を捨てるの? 侑玖君!」

「君も夢だ。ここで起こっていることは全て夢だ」

「私の存在までも否定しないで! 答えて、侑玖君!」

「だから、俺はまだ動ける」


侑玖は淡々とそう呟いて、ナイフを持ったまま走り出した。


「くっ……」


葛葉も手にサバイバルナイフを出現させ、それを受ける。

同時に彼女の炎が侑玖を包んで、大爆発を上げた。

しかし侑玖はまるで痛みを感じていないのか、黒焦げになりながら葛葉に肉薄した。


「ひ……」


彼の機械のような形相を見て、葛葉は後退りした。

斬撃は避けたが、彼女は次いで襲いかかってきた強烈な頭痛にしゃがみこんだ。


「Tの副作用が……」

『葛葉、時間だ。これ以上は君の体がもたない』

「レイブン……」


ヘッドセットから聞こえてきた声に、葛葉は歯噛みして飛び退った。

そして地面に平手を叩きつける。

そこに木造りのドアが出現した。


「侑玖君、あなたは私が殺す。必ず……!」


そう吐き捨て、彼女はドアの中に姿を消した。

侑玖は荒く息をついて、その場に膝をついた。

満身創痍の状態で、転がっている患者の精神中核を手に取る。

そして、無表情でそこにサバイバルナイフを突き立てた。



施術が終わり、眠り続けている侑玖が車に運び込まれる。

青くなった顔で硬直している幸の脇で、秋坂は苦い顔をしていた。

幸は車が去っていったのを病院の裏口から見て、そこでやっと我に返った。


「あ、秋坂さん! 侑玖君が……!」

「……大丈夫だよ。一時的に脳の動きを活発化させる、『T』って薬があってね。それを投与した副作用なんだ。二日くらいは眠り続ける。いつも、Tを投与した後は専門の人にあいつの家まで運んでもらうんだ」

「大丈夫なんですか……?」


その問いには答えずに、秋坂は近づいてきた足音に振り返った。

ソフィーが左腕をギプスで固定した状態で、近づいてきていた。

右腕には点滴が刺さっていて、点滴台に引っ掛けられた薬袋の中には金色の液体が入っていた。


「先生……!」


優れない彼女の表情を見て、幸がソフィーに駆け寄る。


「大丈夫ですか? 何だか、夢の中で大変なことになったみたいで……」

「大丈夫よ。あなたは、何も心配することはないわ」


そう言って彼女は秋坂を見た。


「秋坂先生、会議室に戻っていただいても宜しくて?」

「あ……ああ。申し訳ないです」


秋坂はそこでハッとして、白衣のポケットに手を突っ込んで病院内に入った。

並んでソフィーと幸も続く。


「フランソワーズ先生と侑玖の二人がかりでも止められないなんて……」


重い声で歯噛みした秋坂を見て、しかしソフィーは柔らかく笑ってみせた。


「秋坂先生」

「……はい?」

「いいマインドスイーパーをお持ちね。稀に見る優しい子だわ」

「侑玖が優しい……?」


言われた意味が分からなかったのか、繰り返した秋坂にソフィーは続けた。


「ただ遊びでダイブしたのではありません。時間内に敵スイーパーを撃退できないのは分かっていました」

「あなた……」


秋坂が語気を荒くする。


「情報を全て開示しないまま、介入してきたのですか?」

「赤十字は東機関に対しての情報開示は適切に行っています。『要請された範囲内で』ですが」

「『佐谷計画』って何ですか?」


強い口調で秋坂が問いかけると、ソフィーは口をつぐんだ。

そして一拍置いてから答える。


「その情報の開示責任は私にはありません。申し訳ないですが……」

「そんな詭弁を……」


食ってかかろうとした秋坂は、しかしソフィーがこちらを見て微笑んだのを見て言葉を止めた。

そしてハッとして息を呑む。


「……気づいていただけましたか?」

「…………」

「山中君は戦うには優しすぎますね。本当の無慈悲な行いというのは、正面を切って戦うことではありません」

「どういうことですか?」


秋坂が問いかけると、ソフィーは会議室のドアを開けながら言った。


「私がダイブした目的は、既に十二分に達成されているということです」



「ゲホッ……ゲホッ……」


苦しそうにえづきながら、葛葉は差し出されたトレイに胃液混じりの吐瀉物を撒き散らした。

そこに血が混じっている。


レイブンと呼ばれている青年は、葛葉の背をさすりながら、口をタオルで拭いた。

彼女の腕には多数の点滴がなされていて、金色の液体が流し込まれている。


「無理をしすぎだ……ラッシュは君の体に適応しない。それに、目標も逃してしまった」

「侑玖君は……」


葛葉は泣きそうに顔を歪めながら、レイブンにベッドに横たえられた。

そして毛布をかけられながら呟く。


「侑玖君は、私を殺し返そうとした……二度も。本気だった……」

「…………」

「こんなの酷い……酷すぎるよ……」

「分かってる」


レイブンはベッドの隣の椅子に腰を下ろした。


「だからこそ、俺達ガドリニウムは、君を保護した。そして理想とする世界のために、君の力を必要としている」

「…………」

「何故本気を出さない? 特S級の能力を持つ君なら、あの程度のマインドスイーパー二人など、一瞬で消し炭にできるはずだ」

「レイブン、それは違うわ……違う」


葛葉はかすれた声で言った。


「あなた達の理想は理解しているわ。感謝もしてるし、私の力をそのために使うのには何の疑問もない。でもね……」

「…………」

「侑玖君だけは私の獲物なのよ……」


歳相応の少女の発する言葉ではなかった。

奇妙にぶれた、歪んだ声音。

どんな感情でそれを発しているのか分からないほどの、奇妙にブレた声だった。


「私は、あの人に、絶望してもらいたい。絶対に……」

「…………」


レイブンはそれに声を返そうとして、言葉を飲み込んだ。

そして葛葉の痩せた頬を撫でてから、優しく言う。


「……分かった。だが、次に相対したら確実に始末するんだ。そうしないと、君が危ない」

「……分かってる。分かってるよ……」


段々と葛葉の声が小さくなり、彼女は入眠したのか、スゥ……スゥ……と小さく寝息を立て始めた。

レイブンはそれを確認して、トレイを洗面台で洗ってからタオルで手を拭き、病室の外に出た。


複数の看護師が慌ただしく動いていた。

廊下でスマホを取り出し、彼はダイヤルをしてそれを耳に当てた。


「俺です」


重苦しく彼は言い、電話口の向こうの相手に続けた。


「……『失敗』しました。至急、280番と281番を送ってください。『敵』を撃退しなければいけません」



「そう、迷惑をかけるわね……」


深夜、リビングでアイパッドのビデオ通話をオンにした状態で、汀は続けた。


「それにしても、派遣されてきたのがあなただったとは、驚いたわ。ソフィー」

『だいぶ顔色が悪いようね。薬は飲んでる? ドクター大河内』


通話の向こうでソフィーが答える。

汀は小さく笑って言った。


「ご心配ありがとう。ただ、これは私の持病によるものだから、GMDは効かないわ」

『…………』

「幸から、夕べ電話が来て、いろいろ聞いたわ。山中君とダイブして、中で『何者か』と戦闘したようね」

『ええ。その「何者か」の情報を、空気越しに触れた時にスナークしたわ。現在、精神断片を赤十字の解析班が分析中よ。明後日には結果が出ると思うわ』

「さすがね。まだまだ腕は衰えていないようで安心したわ」


汀は小さく咳をすると、隣に裕也が座り、薬を手渡したのを受け取った。

そして水とともに飲み込む。

ビデオ通話でその様子を見ていたソフィーが心配そうに言う。


『……あまり、良くなさそうね』

「ソフィー、久しぶりだな。私だ」


裕也が口を開くと、ソフィーは小さく笑ってそれに返した。


『ドクター。まぁ、幸せそうで安心したわ』

「君こそ、先日の結婚式に行けず申し訳ない。汀の体調が思わしくなくてな……」

『ビデオレターや沢山の贈り物で十分です。今度、夫を紹介しますね』


ソフィーはそう言って、しばらく置いてから続けた。


『東機関は、私がスナークした「敵」の情報開示を求めているわ。赤十字本部としては開示してもいいのだけれど、保留にしてある。どうするの?』

「まだ会議中ではあるのだけれど、おそらく開示することになると思うわ」


汀が小さく咳をしながら答えた。


「今は赤十字も、東機関も、争っている場合ではないわ……ただ、完全に信用はできないけれど……」

『OK。決定が出たら教えて頂戴。私も、明日には関東赤十字に移るから』

「ありがとう。心強いわ」


汀が微笑む。

そのやつれた顔を見て、ソフィーは少し言葉を飲み込んだ。

そしてつとめて明るく言う。


『わざわざ来たんだから、どこか美味しい料亭でも紹介しなさいね。スシがいいわ』

「ふふ……探しておくわ」


汀はそう言って、少し考えてから言った。


「あの子……山中君はどうなったの?」

『優しすぎるわね。正面切って戦って、Tの副作用で混濁状態になってる。もっと実力を出せば、早く勝負がついたはず。油断してたのか、それとも……』


言いよどんで、ソフィーは息をついた。


『夜にごめんなさいね。この話は明日しましょう』

「……ええ、今日はゆっくり休んで」


それから数言交わし、通話を切る。

妻の肩を抱いて、裕也は心配そうに彼女を見た。


「汀、無理をしすぎだ。君も今日は休んだ方がいい」

「分かってるわ……」


かすれた声で答え、汀は車椅子を動かして、寝室に向かった。


「ちょっと仮眠するわ。早くから病院で会議があるから、六時には起こしてね」

「分かった」


妻が消えていった寝室を見て、裕也は暗い表情で息をついた。

無意識の内に噛み締めていた歯が、ギチ……と音を立てた。



まただ。

また、あの夢だ。


満たされていた時の夢。

かつて、在った時の夢。


もはやそれが現実のことではなく。

ただの絵空事かもしれないという不確かさの中。


侑玖は、ベッドに上半身を起こして不快感を吐き出すように、大きく息を吐いた。

ポタ……ポタ……と汗が布団に垂れる。

左腕には点滴がつけられており、ベッド脇の点滴台には金色の薬が入った薬袋が下げられていた。


視線を横に向ける。

カーテンからは光が漏れていた。

壁の時計は正午を回ったところだ。

金魚の水槽に電気がついているのを確認する。


部屋の中に人の気配はない。

毎回、自分が施術中に意識をなくした時には、朝の10時と夜の20時に看護師が部屋に来てくれることになっていた。


頭がガンガンする。

寝間着に着替えさせられていたが、汗でグショグショだった。

点滴の薬剤がもう少しでなくなるのを見て、侑玖は手を伸ばして、チューブの加圧を調整した。

薬剤が落ちる速度を上げてから、裸足で簡素な部屋の床に足をつける。


両手と額がビリビリと痺れていた。

腹部にも鈍痛が走っている。

すぐには何があったのかを思い出せず、頭を抑えて呼吸を整える。

そして、ベッド脇のテーブルに置いてある袋から薬を取り出し、並べてあったペットボトルを開け、中の水とともに口に流し込む。


しばらくこめかみを揉んでいたが、彼はそこでやっと、テーブルの上のスマホに気づいた。

手にとってロックを解除する。

幸からのラインが結構な数、入っていた。


日付は、記憶にある施術の日から丸一日経っていた。

……今回は覚醒が早い。


まずは幸のラインを無視して、メールアプリを開く。

秋坂からのメールだと思われる英語の文章が、数件届いていた。

そこに目を通し、彼は軽く歯を噛んだ。


そして通話アプリを操作し、電話を掛ける。

しばらくコール音が鳴り、秋坂の声がした。


『起きたか、今回は結構早かったな』

「……おはようございます」

『声の調子がおかしいな。大丈夫か?』


珍しく心配する声を投げかけた彼女に、侑玖は小さく咳をしてから答えた。


「早く起きたのはいいんですけど、その代わりダイブ時のほぼすべての記憶が欠落してます。何があったのか、順を追って話してくれませんか?」

『今回の「T」は型番が違うから、その副作用かもしれないな……ちょっと待って。部屋を移る』


近くに幸がいたのか、秋坂が歩いて移動する音が聞こえる。


『……まずは』



秋坂の端的な説明を聞いて、侑玖は歯を噛んで呟いた。


「失敗……俺、失敗したんですか……?」

『残念ながらそうなるな。敵組織の女の子は取り逃がしてる。ただ、それはお前個人の場合での話だ』

「どういうことですか?」

『お前と一緒にダイブした、赤十字のフランソワーズ・アンヌ・ソフィー医師が、ダイブアウト直前にその女の子の精神情報を抜き取った。赤十字の解析班から、ウチらへも徐々に情報が開示され始めてる』

「…………」

『侑玖』


秋坂は黙り込んだ侑玖に、静かに言った。


『赤十字と共同戦線をはることになる以上、これ以上は隠し通せないぞ。奴ら、「佐谷計画」のことも知ってる』

「何だって……?」


呆然として、侑玖は深く息をついた。

それは怒り、苦しみの感情を無理やり飲み込むような。

そんな動作だった。


「…………」

『お前が「葛葉」と呼ぶ女の子の情報も、既に東機関側から開示されている。佐谷計画の生き残りだということも割れてる。じきにお前も、その計画の生き残りだって知られる時も来る』

「…………」

『どうしてすぐに殺さなかった? 赤十字に情報スナークの先を越されることがなければ、お前の情報も漏れることはなかった』


咎めるように言われ、侑玖はズキィ、と痛んだ頭を押さえた。

そして歯を噛みながら答える。


「……あの子、葛葉は……」

『…………』

「友達、だったんです」

『初耳だぞ』

「話したことがありませんでしたからね……」

『だが、その「友達」がどうしてお前を付け狙う? 個人的に恨みがあるようにしか思えない』


秋坂の問いに、侑玖はしばらく沈黙してから返した。


「あの子は、俺が殺しましたから」

『え……?』

「現実世界で、俺はあの子を殺しましたから。多分それで恨まれてるんだと思います」



白い病室の中、二つ並んでいるベッドの一つに隣り合って腰掛けている二人の女の子に、黒いコートを羽織った青年、レイブンは口を開いた。


「今日からここが、お前達の部屋になる」


二人の女の子は、それぞれ灰色のパーカーを羽織っていた。

同じもので、ダボダボのサイズだ。

下半身は白いスカート。

二人とも髪は真っ白に変色していた。


双子なのか、どちらも人形のように整った顔をしていた。

目の色は鮮やかな青。

日本人ではない。


彼女達はそれを聞いて顔を見合わせた。

片方の子が小さな声で、もう片方の子に耳打ちする。

耳打ちされた方が顔を上げてレイブンに向けて口を開いた。


「ステラがお腹が空いたって言ってる」

「…………」


レイブンはそれを無視して彼女達に計二つのタブレットを放った。

ベッドに落ちたそれを見て、ステラと呼ばれた方の少女が、怯えたようにもう片方の子にしがみつく。

彼女はステラを守るように片手で抱くと、威嚇するようにレイブンに低い声を発した。


「私達は朝から食事をしていない。食事を要求する」

「落ち着け、アートナー。食事は、説明が終わったらすぐに用意させる」

「今欲しい」


レイブンにアートナーと呼ばれた少女が、歯を剥き出しにして、犬のように彼を威嚇する。

レイブンは深くため息を付いて、自分が持っていたタブレットに電源を入れた。


「ダメだ。説明を聞け。でなければ昼食もなしだ」

「…………」


ギュッ、とアートナーのパーカーの裾を掴むステラ。

彼女の肩を抱いて頭を撫でてから、アートナーは大声を上げた。


「ステラのお腹が空いてるんだ! 今すぐ持ってこい!」


タブレットを掴んで、彼女は力まかせにレイブンに向けてそれを投げつけた。

壁に当たったそれが砕け、液晶画面にヒビが走る。

レイブンはタブレットを拾い上げ、また一つため息を付いた。


「……分かった。もう少しだけ待て。用意をさせよう」



「パーカースカイフィッシュを……?」


意味が分からない、という顔で葛葉が言い、ベッドから上半身を起こそうとして、体に力が入らず失敗した。

レイブンが近づいて彼女を落ち着かせて息をつく。


「ああ、次の作戦には、アートナーとステラを使う。君には、少し温存してもらうことになる」

「どうして? 私はやれる。やれるよ……」


最後の言葉は自信がなさげに尻すぼみになって消えた。

レイブンは少し沈黙していたが、やがて口を開いて言った。


「君があの、X36ナンバー、山中侑玖に個人的感情を抱いているのは、十分承知している。できれば君の意思を尊重したい。だが、残念ながらこれは『遊びではない』んだ、分かるね?」


静かに諭され、葛葉は唇を噛んで黙り込んだ。


「…………」

「山中侑玖を始末するチャンスは2回あった。しかも一回は、君にラッシュまでをも投与した。それでもなお、君は『個人的感傷』により任務をしくじった。俺からの忠告だ。少しの間だけ、本部の決定に従っておとなしくしていた方がいい」

「レイブン、それでも、それでも私は……」


訴えかけようとした葛葉が口を閉ざす。

振り返ったレイブンの目に、葛葉の病室のドアを勝手に開けてニヤニヤしているパーカーの双子……姉のアートナーがうつった。

その背後に、おどおどとステラが隠れている。


「何だ……誰かと思えば、特S級様々じゃない?」


ポケットに手をつっこみ、バカにするようにアートナーは言った。

そして葛葉に向けて足を踏み出して続ける。


「安心しなよ、あんたの想い人とやらはアタシ達が細切れにしてきてやるよ。なぁ、ステラ?」

「…………」


アートナーの後ろについたステラが小さく頷く。

レイブンはため息を付いて二人を見た。


「ここは葛葉の病室だ。出ていきなさい」

「アタシ達に命令すんじゃねぇよ! ただの目付役のくせしてよ!」


口汚くレイブンを罵り、笑うアートナー。

葛葉はその彼女の様子を鼻で笑った。

目ざとくそれを見たアートナーが、瞬間、真顔になって口を開く。


「……何がおかしい?」

「あなた達じゃ侑玖君は殺れないよ? 殺れたら褒めてあげる」

「バカにして! 失敗作の分際で……」

「あら……『失敗作』はどちらかしらね?」


二人の少女がきつくにらみ合う。

盲目の葛葉だったが、その視線ははっきりとアートナーを捉えていた。


「できるものなら、やってみなさい」


カラカラと病室の換気扇が、乾いた音を立てた。

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