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第5話 再敵

「東機関が、幸の治療に全面協力を承諾してきたわ」


深夜半、幸が二階の部屋で眠っていることを確認して降りてきた裕也に、汀が言った。

裕也は静かに扉を閉めると、テーブルを挟んだ彼女の向かい側の椅子に腰を下ろした。


深刻そうな顔でテーブルに置いたタブレットを、片手の人差し指で操作していた汀が顔を上げる。

画面には英語の文書が長々と表示されていた。

そこに表示されていた赤い印を指先で苛立ったようにトントンと叩く妻に、裕也は口を開いた。


「汀、大丈夫か?」


夫に言葉をかけられ、汀は暗い表情のままそれに返した。


「幸のことを、東機関に開示したのね」

「ああ。今はそうするしか、あの子の命を守る手段がない。君も……」

「……分かってる。そんなことは重々分かってるわ」


汀は深く息をついて、動く手で頭を押さえた。

そして頭痛がするのか、小さくため息をつく。

彼女の顔色を見て、裕也は立ち上がり、壁の薬棚から数種類の薬剤を取り出した。

そしてコップに水を汲み、汀の前に並べる。


「手伝おうか?」

「ううん……大丈夫、ありがとう」


首を振って、汀は片手で器用に包みを破り、中身を口に入れて都度飲み込んだ。

そして疲れた顔で長く息を吐く。


「最優先すべきは、幸の命……そんなのは言われるまでもないことよ。でも……」

「…………」

「事実と感傷だけでは割り切れないこともあるのよ……」

「そうだな」


妻の言葉を肯定して、裕也はまた椅子に座った。

そしてタブレットを手に取り、中の文書に目を通す。


「……引き続き秋坂先生に治療と対応を一任するということか。しかし、このまま素で幸を東機関に預けるには、情報が不足しすぎている。こちらからアドバイザーを設ける必要がある」

「…………」

「事情を知っているアドバイザーだ。それも、権力と実力を併せ持った幸を守れる人が」

「あなた」


そこで汀は裕也の言葉を遮った。

そして考え込んでから小さな声で言う。


「……幸には、いつ……」

「…………」

「本当のことを告げるべきなのかしら……」


その、自信がなさそうに掠れた声に、裕也は口をつぐんだ。

そして彼は立ち上がり、俯いて唇を噛んでいる汀の背から、彼女をそっと抱きしめる。


「汀」

「…………」

「幸は、私とお前の娘だ。それは事実じゃないか? ……違うか?」

「…………」


汀は、しばらくそれに答えなかった。

やがて彼女は


「うん……」


と小さな声で言って頷いた。

そして片手で裕也の手を握る。


「絶対に守る。幸を狙う組織からも、スカイフィッシュからも……」


彼女は決意を含んだ言葉でそう言った。

カラカラと回る換気扇の音が、やけに大きく部屋の中に反響していた。



「……と、いうわけで。幸さんには少しの間、住み込みでこの病院の手伝いをしてもらうことになりました」


秋坂がそう言って、幸にファンタグレープ味のペットボトルを渡す。


「改めてようこそ。あ、ちゃんとアルバイトとして時給は出すから、私のアシスタントとして働くのよ?」


朝、裕也にタクシーで送ってもらいそのまま秋坂医院に入った幸は、着替えなどが入ったリュックサックを抱いたまま、ソファーに腰掛けてポカンとしていた。

そしてリュックサックを脇に置き、秋坂を見る。


「あの……私、アルバイトしていいんですか? 学校も休んじゃって……」

「んー……正確には、病気の治療の為にここに入院する、っていう形かな」

「入院……?」


それは親から聞いていなかったようで、幸は怪訝そうに首を傾げた。


「そんなに私の病気って、悪いんですか?」

「それが分からないから、少しずつ治療していこうってこと。難しく考えなくていいよ」


秋坂がそう言って近づき、幸の隣に腰を下ろす。

ココアを口に運んで、彼女は不安気な顔をしている幸に続けた。


「ただ、この前みたいに他の人の頭の中にダイブするのは禁止。勝手に眠ってどこかの夢に入り込むのも、当然禁止。それだけはちゃんと守ってもらうからね」

「は……はい。ごめんなさい……」


小さな声で謝った彼女の頭をグリグリと撫でて、秋坂は軽く笑った。


「ま、長くても二週間くらいかな。その間、病院の会計とか、やり方を教えるから手伝ってくれるだけでいいよ。あと細かい治療は、私と侑玖でやるから」

「あ……」


侑玖の名前を聞いて、幸は顔を上げた。

そして秋坂に聞く。


「侑玖君、具合でも悪いんですか?」

「ん? どうして?」

「一昨日からライン送ってるんですけど、全然既読にならなくて……今日も来てないみたいですし……」

「ああ、今日の午後には目を覚ますと思うから」


何でも無いことのように秋坂は言って、立ち上がった。


「午後……?」

「さ、今日は治療はないけど、診察は三件入ってるから忙しいわよ。ちゃんとアシストしてね」


にっこりと笑った秋坂に、幸は小さく頷いた。

そしてファンタのペットボトルを握りながら言う。


「秋坂先生?」

「ん?」

「ここに来る患者さんって、もう助けることはできないんですか?」


少女の至極単純な問いかけだった。

秋坂は、しかし即答はせずに少し考えてから、持っていたココアのカップを口に運んだ。

そして軽く笑う。


「できないよ」

「え……?」


思わず問い返した幸に、秋坂はあっけらかんと続けた。


「他で助けられないから、ここに回ってくるの。ただ、勿論どうにか出来ないかっていうのはちゃんと診察をするよ。その結果どうにかなりそうだったら、別の病院に回すわ」

「…………」

「助ける、助けないっていうのはね。難しい問題なんだ」


秋坂は飲み干したカップをゴミ箱に放って、受付に足を向けながら言った。


「幸ちゃんが感じてる違和感を、私は否定しないよ。あなたが優しい子だっていうのはよく分かってるからね。でもね、ここで仕事をするなら、これだけは覚えておかないといけないよ。『優しさでは人は救えない』ってこと」

「優しさじゃ……救えない?」


意味が分からず繰り返した幸に、秋坂は微笑みかけるとパン、と手を叩いた。


「さ、話は後。一応ここの二階に泊まれる部屋が何部屋かあるの。そのうちの一つを掃除しといたから、使ってくれていいよ。入院って言っても、気楽にね」

「あ、ありがとうございます」


頷いて、リュックサックを持って立ち上がった幸を、秋坂は手招きして呼びよせた。


「診察がない時は掃除。それが終わったら遊んでていいけど、『決して寝ない』ようにね」


先ほどと同じセリフを念を押すように繰り返した彼女に、幸は不安そうに、コクリと頷いてみせた。



侑玖が病院に姿を現したのは、昼の十四時を回ってのことだった。

既に秋坂の助手として、白衣を着て自殺病患者三名の診察は終わっていた。

結果はよく分からず、秋坂はパソコンにデータを打ち込んで患者を帰していた。


大あくびをしながらスリッパに履き替えて入ってきた侑玖を見て、幸はパッと表情を明るくして彼に駆け寄った。


「侑玖君!」


嬉しそうに呼びかけられ、侑玖は顔を上げて、一瞬意味が分からなかったのか、白衣姿の幸を眺めてポケットに手を突っ込んだ。


「……何してんの?」

「私、今日からここで入院することになったんだよ」

「へえ……」

「秋坂先生が、その間アルバイトさせてくれるって」

「マジか……」

「ライン送ったのに見てないでしょ?」


侑玖はそれを聞いて、ジーンズのポケットからスマホを取り出した。

そしてチラッと見てまたポケットに仕舞う。


「あー! 無視してる!」

「よぉ侑玖、調子はどう?」


秋坂に呼びかけられ、侑玖はひらひらと幸に手を振ってからソファーに腰を下ろした。


「ダメですね。どうも俺には『T』の二十番台は合わないみたいです」

「緊急事態だったんだ。愚痴るな」

「それより、幸さん入院するんです?」

「ああ。私もしばらくここに泊まる。できればお前にも泊まってもらいたいんだが」


彼女がそう言うと、聞いていた幸が意味を察して少し赤くなった。

彼女にとっては年頃の男性と同じ建物で暮らすのは、初めてのことだ。

しかし侑玖は首の骨を鳴らして背を伸ばしながら首を振った。


「いや、無理ですよ。ウチ、ペットいるんで」

「侑玖君、ペット飼ってるの?」


食いついてきた幸を見て、侑玖はスマホの画面をつけて、写真アプリを起動させた。


「ほら」


立派な金魚が綺麗なアクアリウムの中で泳いでいる水槽の写真だった。


「うわぁ、綺麗!」


幸が目を丸くしてスマホを受け取り、まじまじと見つめる。


「金魚くらい少し置いといたって死にはしないだろ」

「死にますって。秋坂さん責任取れるんです? ウチのブスコパン高いんですよ」

「……ブスコパン?」


怪訝そうに幸が口を挟むと、呆れたように秋坂が答えた。


「こいつの金魚の名前。ちなみにブスコパンって胃薬の名前なんだけどね」

「どんな名前つけようが俺の勝手でしょ?」


秋坂は頭を押さえて、諦めたようにため息を付いた。


「ブスコパンと仕事どっちが大事なんだよ」

「ブスコパンですね」


淡々と即答した侑玖を見て、しばらく幸はキョトンとしていたが、やがてクスクスと笑い出した。

怪訝そうな顔をした侑玖に、彼女は笑いながら言った。


「へ……変な名前……」

「そうかな……?」


納得がいかなさそうに言ってから、侑玖は秋坂を見上げた。


「仕事は仕事。プライベートはプライベート。俺の『人間性』のためにも分けろって言ったのは秋坂さんじゃないですか」


含みを込めて発せられた言葉を聞いて、秋坂は苦そうな顔をした。

そして少し考えて肩をすくめる。


「勝手にしろ。だけど、ここにいる間はしっかり働いてもらうからな」

「いつもしっかり働いてるでしょ」

「どうだかな」


侑玖に背を向けて、秋坂は受付のパソコン前に移動し、椅子に腰を下ろした。


「今日って施術の予定はありましたっけ?」


侑玖が声を投げかける。

その隣に、水筒を持った幸が腰を下ろす。

中身のポカリスエットを口につけ、幸は隣の侑玖を横目で見上げた。


異性の自分が隣に腰掛けているというのに、侑玖の表情には一ミリも変化がなかった。

やっぱりこの人は感情の一部を失くしているのだろうか。

前に秋坂に言われた内容が頭をこだまする。


「今日はもう終わりだよ。ラインで幸ちゃんに送ってもらったの、見てないからだ」


秋坂が呆れたように言ってキーボードを叩く。

侑玖はスマホを手に持って画面を操作した。


「ほんとだ」

「もう、無視するのやめてよ」


幸が侑玖を見上げて口を挟む。

侑玖は困ったように幸を見下ろしてから答えた。


「いや……こういうのあんまりやったことねぇからな……」

「他にラインする人いないの?」


問いかけると、侑玖はソシャゲの画面を起動させながら答えた。


「いないよ。このアプリをちゃんと使うのは、幸さんが初めてだ」


初めて、と聞いて幸が少し頬を赤くする。

そして侑玖の画面を覗き込んだ。

今流行のゲーム画面が見える。

どうやらいつも弄っているのはこれらしい。


「侑玖君、ゲームやるんだ」

「うん、まぁ。暇つぶし」

「暇つぶしで月に十数万も課金し続けるバカがそいつだよ」

「じゅ、十数万……?」


秋坂が挟んだセリフの意味が分からずに目を丸くした幸の脇で、侑玖は無表情で画面を操作しながら口を開いた。


「俺のプライベートには口を出さない約束でしょ?」

「はいはい。別に、ガキの遊びに口出す保護者じゃないわよ」


秋坂が呆れたように答えてパソコン操作に戻る。

しばらくピコピコと音を出しながらゲームをしている侑玖を見て、幸は伺うように言った。


「ね。そのゲーム私も出来るかな?」

「幸さんもやるの?」


侑玖が、そこで初めて興味を持ったように幸を見下ろした。

幸はスマホを取り出して電源ボタンを押した。


「フェイトってゲームだよね。名前だけは知ってるんだ」

「へぇ……」


侑玖は自分の画面から目を離して、幸のスマホを見た。


「出来るんじゃないかな。スマホ、最近のやつでしょ?」

「うん、この前テストの点が良かったから替えてもらったんだ」

「……チュートリアルの後にガチャが引けるんだけど、リセマラでいいキャラが手に入れば楽かな。やってやろうか?」

「リセマラって何?」

「ランダムでいいキャラが引けるガチャっていうのを、最初は無料でできるの。そこでいいやつが引けるまで、ゲームのリセットを繰り返すこと。リセットマラソンだね」


侑玖は幸からスマホを受け取って、弄り始めた。


「へぇ……」


ゲームなど殆どしたことがなかった幸が、目を丸くして、慣れた手付きで操作を始めた侑玖を見る。


「お金かかるの?」

「キャラをガチャで引くんなら、相当数はかかるな。俺は自分のガチャの確率サイクルを記録して、狙ってるのが引けるように調整するけど」

「お父さんが、あんまりそういうのでお金を使うのはダメだって言ってたけど……」

「別に課金しなくちゃ出来ないわけじゃないから、したくなきゃせずに進めればいいよ。ストーリーもなかなか面白い」


いつもと違って自主的に口を開く侑玖の様子を、秋坂が横目で驚いたように見ている。

しばらく子供らしくゲームのルールを説明したり聞いたりしている侑玖達を見ていたが、やがて彼女は息をついてパソコンに目を戻した。


メールのランプが点滅していた。

マウスでクリックしてそれを開く。

英語の文書が大きく開いた。

そこに書かれていた内容を読んで、彼女は唇を噛んだ。


そして返信メールを打ち始める。

眉間にシワが寄っていく。

彼女は苦虫を噛み潰したような顔で、エンターキーを押した。



鳥の声が聞こえる。

けだるさが体を包んでいた。

最近飲むようにと処方され始めた薬の副作用だ。

全く夢を見ない代わりに、起きるのにものすごく苦労するようになる。


幸は汗が浮いた額を手で拭い、よろよろと体を起こした。

そして周りを見てきょとんとする。

自分の部屋ではない。

病室だ。


少し考えて、昨日から秋坂医院に入院することになったんだ、と思い出して大きくあくびをする。

眼鏡を掛けて、枕元で充電しながら置いてあったスマホを手に取る。

電源ボタンを押した彼女は、意外そうに目を見開いた。


侑玖からのラインだった。

昨日の夜中に送ったものらしい。


「FGO、フレンド送っといたから」


一文だけだったが、幸は嬉しそうにそれにスタンプを返した。

まだ寝ているのか既読はつかなかったが、どこか嬉しかった。

どうやら昨日調整してもらったゲームのフレンド申請を送ってくれたらしい。


いまいちよく分からなかったが、昨日侑玖から説明されたログインボーナスとやらをもらうために、洗面台で顔を洗って、歯を磨きながら片手でスマホを操作する。

確かにフレンド欄に侑玖のハンドルネームだと思われる「スルピリド」という名前が見える。


申請を承諾して、幸は口をゆすいで、髪を櫛で梳かし始めた。

しばらくスマホを弄りながらラインの画面を見る。


そこでトントン、と部屋がノックされた。

顔を上げてそちらを見る。


「はーい!」

「私よ。ちょっと開けてもいいかしら?」


言われて、幸はパジャマの乱れを手で直してから言った。


「あ、はい! 大丈夫です!」


扉が開いて秋坂が顔を覗かせる。

彼女は寝間着に化粧もせず、ボサボサの髪という、まさに今起きました、という状態だった。

寝間着のポケットに手を突っ込んで幸に近づき、体温計を額に当てる。

すぐに検温は終了して、彼女は液晶画面を確認した。


「三十六度。平熱ね。右手を出して」


言われるままに右手を出すと、血圧と脈拍を測る装置をつけられる。

少ししてタブレットに情報を入力し、秋坂は大きく欠伸をした。


「全部正常っと。ちゃんと寝れた? お薬効いてる?」

「はい! 最近全然夢を見ないんです。ちょっと疲れてる感じはありますけど……」

「それは副作用だから、まぁすぐに慣れるよ。あ、お父さんとお母さんには、定期的に状況を報告するようにね。あなたの口から聞いたほうが、おふたりとも安心すると思うから」

「分かりました、後で電話しておきます」

「うんうん」


秋坂は頷いて、幸がベッドに置いたスマホの画面を横目で見た。

侑玖からと思われるメッセージが表示されているのを見て意外そうな顔をしてから、息をついて幸に目をやる。


「今日は、八王子の関東第二病院に午後から行くわ。診察はないから、午前中はゆっくりしてていいよ。ご飯は私がつくったげるから、ちょっと待っててね」

「あ、いいんですか……?」

「何言ってるの。あなたは入院患者なんだから、ちゃんとお世話しなきゃね」


秋坂は大きく伸びをして部屋のカーテンを開けた。


「関東第二病院って……侑玖君も来るんですか?」

「うん。施術の予定があるんだ。ちょっと危ない案件だから、友達とかには言わないようにね」


秋坂にとっては何気なく発した言葉だったが、幸は少しだけ寂しそうに笑って、答えた。


「あ、大丈夫です。私、友達いませんから……」

「え? 学校でよく話す子とかはいないの?」

「小学校くらいのときは仲がいい子はいましたけど……中学校に入ってから、みんな私を避けるようになりまして。だから、大丈夫です」


秋坂は、渡した薬を口に含んで水で流し込んだ幸を見下ろして、複雑な表情で口をつぐんだ。

そしてつとめて明るく彼女に言った。


「……着替えたら休憩室においで。私、パンは嫌いだからお米だけどいいよね?」



午後一番には侑玖が病院に来た。

一応普段着に着替えてから、侑玖と一緒に秋坂の車に乗り込む。


車を発進させて、秋坂はスマホを取り出した後部座席の侑玖に向けてタブレットを放った。

そして駐車場を出ながら口を開く。


「今日の患者だ。目を通しておけ」

「分かりました」


侑玖はそう言って片手にスマホを持ったまま、器用にタブレットを操作し始めた。

隣に座っていた幸が、横目でタブレットを覗き込む。


しかし書いてある資料は全て英語だった。

それらを読解するほどの語力はまだ持っていなかったので、少し悩んでから視線を秋坂に向ける。


「あの……」

「ん?」


運転しながら秋坂が答える。

幸は不安そうに彼女に問いかけた。


「私もついていっていいんですか?」

「うん。お預かりしてる手前、絶対に幸ちゃんを一人にする訳にはいかないからね」

「私は何をすればいいんですか?」

「別に、私の隣にいればいいよ。今日は侑玖がダイブの予定だから、ナビゲートを手伝ってもらってもいい。難しく考えなくていいから」


落ち着かせるようにゆっくり言われて、幸は表情を落とした。

侑玖は英語の資料を読み終わったのか、タブレットを座席の脇に放った。

そしてスマホを弄り始める。

しばらく車内を沈黙が包み、幸はゲームをしている侑玖に、伺うように言った。


「侑玖君」

「何?」


画面から目を離さずに聞いた彼に、幸は続けた。


「英語、得意なんだね。私とあんまり変わらないのに凄い」

「小さい時はシアトルにいたからな」


ぼんやりと侑玖が答える。

幸は目を丸くて彼を見上げた。


「シアトル! 私、日本から出たことないよ。凄いねえ」

「別に。何も凄くないよ」


しかし幸の言葉を、侑玖は打って変わって感情を感じさせない、冷たい調子で否定した。

それきり、特に会話をするつもりはないのか口をつぐむ。

しばらく進んだところで赤信号で停車し、秋坂が思い出したように言った。


「あ、侑玖。今日の施術には赤十字病院の医師が一人同行するから」


それを聞いて侑玖はスマホから目を離して、意外そうに秋坂を見た。


「施術書にはそんな事書いてありませんでしたけど」

「機密事項だからな。赤十字も、私ら東機関と表立って協力するのは嫌なんだろうさ」

「へぇ……誰です?」

「お前の知らない人だ」


秋坂は苦虫を噛み潰したように言って、ため息を付いた。


「資料は読んだな?」

「はい」

「一応『心構え』だけはしておけよ。ただの案件じゃない」

「分かってます」


侑玖は淡々とそう言って、軽く歯を噛んだ。


「幸さんには刺激が強すぎるかもしれませんよ」

「いいんだ。そのために連れてきたのもある」


自分を置いておいて、二人で話し始めたのを見て、幸は体を縮こませながらスマホを取り出した。

そして消音にしてから、侑玖に教えてもらったゲームを起動する。

三人を乗せた車は、青信号でまた走り出した。



「ソフィー先生……!」


関東第二病院の会議室。

秋坂の隣に腰を下ろしていた幸は、扉を開けて入ってきた女性を見て思わず声を上げた。


腰まであろうかという白い髪を頭の後ろでまとめて垂らしている、とても美しい女性だった。

年齢は三十代前半ほどに見える。

左腕をギプスで体に固定している。

動かないようだ。


ソフィーと呼ばれた女性は、幸を見るとニッコリと笑って片手を上げた。

そして秋坂に頭を下げる。


「こんにちは、ドクター秋坂。赤十字本部から派遣されてきました。フランソワーズ・アンヌ・ソフィーです」

「秋坂美樹です。宜しくお願いします」


社交辞令的に挨拶を交わし、ソフィーが近づいてきて、二人は軽く握手をした。

そして彼女は興味がなさそうに、座った状態で自分を見ている侑玖に視線を落とした。


「あなたが山中侑玖君ね」

「そうですけど……あなたですか? 今回の施術に同行するっていうのは」

「そうよ、あなたと同じ、S級スイーパーの資格もあるわ。勿論、私はもうそんなに長時間はダイブできないけれどね」


優しくふんわりと笑って侑玖の頭をそっと撫でてから、ソフィーは幸に視線をやった。


「大変だったみたいね……でも、元気そうで安心したわ」

「先生、フランスにお帰りになったんじゃ……」

「赤十字本部からの要請だからね。そんなにゆっくりはできなかったかな」


親しげに話している二人を見て、秋坂は不思議そうに口を挟んだ。


「あの……幸ちゃんとお知り合いですか?」

「ええ。ドクター大河内と私は旧知の仲でして。幸ちゃんは小さいときから知っています。この子のおむつを替えたこともありますよ」

「せ……先生!」


幸が真っ赤になって慌てて口を出す。

秋坂は僅かに表情を暗くして、タブレットを操作した。

その目が若干、ソフィーを警戒するように動いている。


「……成程ね」


侑玖はそこで立ち上がって、ポケットに手を突っ込んでソフィーに向き直った。

背の低いソフィーを見下ろす形になりながら、彼は淡々と言った。


「赤十字のお目付け役ってところですか。勤勉ですね」

「仕事熱心と言って欲しいな。宜しくね」


右手を差し出したソフィーだったが、侑玖はそれを無視した。


「ちょっと手洗いに行ってきます。言っておきますが、俺はいつも単独行動なんで。最低限、自分の身は自分で守ってくださいね」


会議室を出ていった侑玖を見て、幸が唖然としてソフィーに視線を戻す。


「侑玖君、怒ってるのかな……」


自信なさげにそう呟くと、ソフィーはまたニッコリと微笑んで幸の頭を撫でた。


「まぁ、思春期だもの。いろいろあるわよ」



関東第二病院の医師達も集まって、施術前の会議が始まったのはそれから三十分程経ってからのことだった。

侑玖は手洗いから戻ってきてから、不機嫌そうに椅子に腰掛け、どこか細い目で周囲を見ていた。


幸が肩身が狭そうに椅子に深く腰掛け、隣の秋坂に目をやる。

秋坂は全員のテーブル前にタブレットが配られたのを確認して口を開いた。


「東機関から派遣されてきました、秋坂です。こちらは当院が保有しているマインドスイーパーの山中侑玖です。今回は私の助手を一人同行させてあります」


侑玖が軽く会釈する。

関東第二病院の医師がタブレットを操作してから口を開いた。


「ようこそおいで下さいました、秋坂先生。院長の多田です。こちらは、赤十字本部所属のS級マインドスイーパー、フランソワーズ女史です」


多田の隣に腰掛けていたソフィーが微笑みながら会釈する。


「今回の施術には、フランソワーズ女史と共同で当たっていただくことになります」

「宜しくお願いします」


ソフィーが言うと、秋坂も軽く頭を下げた。


「こちらこそ」

「さて、クランケのデータ確認に移りたいと思います。資料の五ページ目をご覧ください」


全員がタブレットを操作する。

幸の前にだけ何もないので、横目で秋坂のタブレットを覗き込む。

やはり英語の文章があった。

どこかで見た青年の顔写真が添付されている。


「今回の施術対象は、喜多川慶彦。二十五歳。先日人格欠損が認められ、リビングデッド認定で安楽死による死刑が言い渡されました」


多田院長が説明を続ける。


「喜多川は現在、自殺病のステージ8後期、乖離型のDID(精神分裂)を発症しています。非常に攻撃性が強い精神防壁を築いており、赤十字の施術では難しく、東機関へ要請する流れとなりました」


そこで幸は思い出した。

病室備え付けのテレビで繰り返し報道されていたこと。

それは……。


「罪状は、実父と実母の殺害。その後の死体遺棄。人格欠損はその時から確認されておりますが、裁判では責任能力あり、との判決が出ています」


実父と実母の殺害。

幸はその単語を聞いて、何故か頭を殴られたような衝撃を受けた。


それは、テレビの中の出来事ではなく。

目の前で、事実として語られていること。


先日侑玖とダイブした、婦女暴行犯の脳内を思い出す。

無意識に動悸が早くなり、スカートの裾を握る。


「フランソワーズ女史と、山中君には協力してトラウマを除去、クランケを安楽死させていただきたい。それでは、具体的な施術スケジュールの説明に移ります」


幸は横目で、秋坂の隣に座っている侑玖を見た。

彼は淡々とした目でタブレットを見ていた。

その感情を感じさせない顔を見て、幸は表情を暗くして、唾を飲み込んだ。



侑玖は目を開いた。

そこは窓一つない牢屋のような部屋だった。

血痕と思われるものが辺りに飛び散って固まっており、灰色の壁に異様なコントラストを描いている。


天井に白熱灯が一つだけぶら下がっており、不規則に明滅していた。

その他には何もない。


「成程ね。リビングデッド症候群で収縮してしまった攻撃性か……」


背後から声が聞こえて振り返る。

ギプスで腕を体に固定した、白衣姿のソフィーが立っていた。

侑玖は特に驚きもせずに、病院服に裸足姿で振り返った。

そして口を開く。


「動かないんですか? 腕」


問いかけられ、ソフィーは軽く笑って首を振った。


「『動かせる』わよ。でも今はその時じゃない」


意味の分からない答えを聞いて、侑玖は軽く歯を噛んで周囲を見回した。

部屋はさほど大きくなく、六畳ほどの狭い空間だ。

ヘッドセットのスイッチを操作して、言葉を発する。


「秋坂さん、ダイブに成功しました」

『フランソワーズ先生から報告は受けてるわ。そこから煉獄に入れそう?』


言われ、侑玖はもう一度周りを見回した。

そして横目で、壁の血痕を興味深そうに見ているソフィーを見る。


「……分かりません。麻酔は効いてるんですか?」

『完全なノンレム睡眠状態の筈だ』

「おそらく何らかの攻撃性の具現化だと思いますが、まだ……」


そこまで彼が言った時だった。

プシュー……という音がして部屋の四隅……天井の部分から水蒸気のようなものが噴出してきた。

侑玖とソフィーが部屋の中央に移動する。


それは、肌を焼く程の猛烈な熱さの水蒸気だった。

たちまちのうちにそれが密閉された部屋の中に立ち込め、呼吸も困難な状況になる。


「……蒸し焼きにするつもりか」


侑玖がそう吐き捨てると、ソフィーはしゃがみ込みながら口を開いた。


「このクランケは、両親を殺した後、その肉を削ぎ落として調理。自分で半分以上食べたらしいわね。異常者の考えることが分からないのは、日本も同じね」

『フランソワーズ先生、状況は打開できそうですか? 無理そうなら一旦回線を切ります』


侑玖と同じ通信で繋がっているのか、秋坂がソフィーのヘッドセットに向けて声を発する。

しかしそれを聞いたソフィーは、面白そうに小さく笑って床に手を付けた。


「秋坂先生。仮にもS級スイーパー二人に対して、『無理』と言ってはいけないわ。私達に無理なんてないの。だって『S級』なんですもの」


落ち着き払った様子で侑玖がソフィーに近づく。

そして彼は淡々と言った。


「何を勿体ぶってるんですか。できるんでしょ? 早くして下さい」

「せっかちな子はモテないわよ?」


ソフィーは軽口を叩いて、床をパン、と手で叩いた。


「このクランケの意識の一部をスナークしたわ。夢空間の断片を乗っ取ります」


ソフィーはそう言って、指先で床に線を引いた。

そこが白く輝き、割れていく。

数秒後には真っ白い木造りのドアが、床に形成されていた。


「どうぞ」


侑玖に入るように促したソフィーだったが、彼は不機嫌そうな顔でそれを拒否した。


「レディファーストです。お先に」

「あら、その辺りは礼儀をわきまえてるのね」


淡々とやりとりをして、ソフィーは扉を開けた。

中は真っ黒い流動体のようなものが蠢く空間だった。

そこにためらいもなく身を躍らせたソフィーを見て、侑玖もしゃがみこんだ。


既に部屋の中は髪が焦げるほどの温度になっていた。

半開きのドアを開いて、中に滑り込む。

扉が閉まったと同時に、侑玖の意識は暗転した。



「山中君」


揺さぶられ、侑玖は目を開いた。

目をこすり立ち上がる。


周りを見回すと、そこは防波堤がどこまでも続く、海岸だった。

反対側には山がそびえ立っている。

海は真っ赤に染まり、血液のどろどろした感じを発しながら揺らめいている。

防波堤にそれが打ち当たり、気持ちの悪い飛沫を撒き散らしていた。


少し離れた場所に、骨がたくさん並んでいた。

正確には人間の骸骨。

それがパイプ椅子に腰を下ろして、赤い血液の海に釣り竿で糸を垂らしている。


侑玖はそれを確認するやいなや、右手を振って長大なサバイバルナイフを出現させた。

そして骸骨達が立ち上がり、一斉にこちらに向けて歩き出したのを見て腰を落とす。


ソフィーを背後にかばい、彼は手近な骸骨の頭を叩き割った。

そして人間業とは思えない体さばきで、殺意を剥き出しに襲いかかってきた骸骨達をなぎ倒し始める。


『侑玖、中枢に入れたのか?』


秋坂の声がヘッドセットから聞こえる。

侑玖は息切れもせずに骸骨の頭にサバイバルナイフを突き立てると言った。


「多数のトラウマと戦闘中です。半ばスカイフィッシュに変異しかかってる。これは……」


彼はそこまで言って、ハッとして飛び退った。

そして突っ立って自分を見ていたソフィーを横目で睨む。


「何をしてるんですか」

「いや……ね。若い男の子って元気だなぁって思って……」

「トラウマがスカイフィッシュに変異しかかってる。近くにおそらく……」


ソフィーの軽口を無視して言葉を続けようとした侑玖が口をつぐむ。

バキバキ……と木々が倒れる音とともに、山の方から巨大な影がせり上がってくるのが見えたからだった。

それと同時に、離れた場所の血液の海が泡立ち、同様に何か巨大な影がせり上がる。


山と海から同時に現れたのは、それぞれ二十メートルを超えるかという程の、肉がボロボロに腐った中年の男女だった。

飛び出した目の玉をぶら下げながら、所々に内蔵や骨をのぞかせた、巨大ゾンビのようなそれらが、ゆっくりと前に足を踏み出す。


「ガーディアンか……」


侑玖が舌打ちをする。

通信の向こうで秋坂が歯噛みした口調で言った。


『除去できそう?』

「相手にするより精神中核を探した方が早そうです」


そう答えた侑玖の脇に進み出て、ソフィーがギプスの固定具を外した。

そしてギプスをベリベリと剥がして脇に捨てる。

中には包帯に包まれた、華奢な腕があった。


しかしそれを見た侑玖は、目を丸くして後ずさった。

彼の反応を見て、ソフィーがにっこりと微笑んで頷く。


「いい反応ね。S級というのは確かに確認しました」

「それは……」


侑玖はギリ……と歯を噛んで押し殺した声で言った。


「あんた、まさか……」

「危ないよ? 下がってて」


優しく侑玖にそう言って、ソフィーは包帯でぐるぐる巻きの腕を、二体のゾンビと、多数のガイコツたちに向けた。

侑玖の耳に、彼女が何事かを口にしたのが聞こえた。


次の瞬間だった。

真っ白い光が周囲を覆った。

次いで周囲を轟音とともに、凄まじい地震が襲った。

そして髪を焦がす熱風が吹き荒れる。


たまらずしゃがみこんだ侑玖の目に、ガーディアン達を巻き込むように、キノコ型の爆炎が吹き上がっているのが見えた。

辺りにガーディアンの肉片や骨の欠片、内臓がびしゃびしゃと飛び散る。

骸骨達はひとたまりもなかった。


粉々に砕けた海岸に、ドッと血液の海が雪崩込む。

ソフィーは左腕にギプスを巻き直すと、固定具で体に留めた。


「……何してるの? 早くこのクランケの精神中核を見つけないと」


ガーディアン達の巨大な体が爆散していた。

何が起こったのか、それを考える前に、侑玖は揺れが収まった地面を踏みしめて立ち上がった。

そしてソフィーを睨みつける。


「その腕……」

『外部からのハッキングだ! 二人とも気をつけて! 通信のジャミングも……』


そこで秋坂が、突然通信越しに大声を上げた。

次いでヘッドセットからノイズ音が走り、ブツリという音とともに通信が途絶する。


「ハッキング……?」


怪訝そうな顔をした侑玖に、ソフィーは微笑んで足を踏み出した。


「あらあら、また可愛いお客様……」


少し離れた海岸線に、病院服を着た白い髪の少女が立っていた。

少女は一抱え程の赤いビー玉のようなものを抱いていた。


……この患者の精神中核。


それを察して、侑玖は少女を見た。


「……葛葉……」


押し殺した声でそう言った彼に、少女……葛葉はニヤァ、と裂けそうに口を開いて笑ってみせた。


「や、また会ったね……侑玖君」


それは、奇妙なほど感情を感じさせない、不気味に歪んだ笑顔だった。

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