第4話 焔
穏やかな海だった。
透き通る珊瑚礁が広がっていて、透明度が高い海水が、ゆっくりと波を刻んでいる。
白い砂浜は柔らかく体重を包み込み、どこか安心感を与える感触だった。
ローファーで砂浜を踏みしめ、幸は周りを見回した
ヤシの木が砂浜の所々に点在していて、天空には穏やかな熱を発する白い太陽がある。
暑くはなかった。
適温だ。
まるで小春日和のようなその空気感に異質なものを感じ取り、幸は体を固くした。
これは夢だ。
そう自覚したのだった。
薬を飲んでから、他人の夢に紛れ込むことはなくなっていたのだが……薬が効かなくなってきたということなのだろうか。
制服の胸を抑えて、とりあえず落ち着こうと息をつく。
見たところ安定した夢のようだ。
すぐに危険が襲ってくるような状況ではないらしい。
どうしたものか……と思った所で、幸の目に、少し離れた場所の砂浜にパラソルとシーサイドチェアが置いてあるのが見えた。
誰かがそこに、猫背に背を丸めて腰を下ろしている。
少し迷ったが、幸は意を決してそちらの方に足を踏み出した。
少しして彼女は、椅子に腰をおろして目を閉じている少年の前に立った。
綺麗な白髪の少年だった。
年は、幸と同じくらいだろうか。
彼は小さな声で音楽を口付さんでいた。
幸も知っている曲だ。
パッヘルベルの「カノン」……。
病院服を着た彼は、風を感じるように体を揺らしながら、気持ちよさそうに鼻歌を刻んでいる。
しばらくそれを見てから、幸は恐る恐る口を開いた。
「あの……」
少年はそれを聞いて軽く手を上げて、幸の言葉を静止した。
そして指揮者がやるように両手をふらふらと揺らし、鼻歌と共にピタリと止める。
ザザーッ……という波が砂浜をひっかく音が周囲にこだました。
しばらくして少年は目を開け、幸を見上げた。
その瞳を見て、幸は一瞬体を固くした。
見たこともない、血のような赤い瞳だった。
顔立ちもどこか人形めいていて、まるでマネキンのようだ。
彼は赤い瞳で、制服姿の幸を上から下まで見ると、また視線を海に戻した。
そして口を開く。
「やぁ、カフカ。また会ったね。随分と久しぶりだ」
ささやき声のような……しかしそれでいてよく通る、澄んだ声だった。
「カフカ……?」
意味がわからず問い返すと、少年はまた幸を見上げた。
「僕の言った通りだっただろう? 遅かれ早かれ、いずれ僕達はまたここで再会することになるって。カフカは半信半疑だったみたいだけど。ほら」
ポン、と彼は自分の隣を手で叩いた。
「座りなよ。またお話をしよう」
幸はしばらく迷っていたが、彼に敵意がないことを確認して、スカートを押さえながらシーサイドチェアに腰を下ろした。
少年はそんな彼女の様子を見てから首を傾げた。
「おかしな服を着ているね。少し見ない間に、大きくなった」
「あなたは……」
幸は少年に向き直って問いかけた。
「あなたは、誰……? 私を誰かと勘違いしているの?」
問いかけられた少年は、少し考え込んだ後、感情の読めない赤い瞳を海に向けた。
そして椅子の上で両膝を抱える。
「忘れてしまったんだね。無理もない。僕らがここにいたのは、今から相当、前のことだ」
「私達が、ここに……? ここって夢の中でしょ?」
「そうだよ。ここで君は、自分を『カフカ』だと、僕に教えてくれた」
「私が……? 私の名前は幸よ。大河内幸。カフカなんて名前じゃないよ……?」
「カフカはカフカだよ。それはたとえ、君が大河内幸であろうと変わらない真実だ。だから僕は君をカフカと呼ぶ。君が昔の君と別のモノに変わってしまっているとしても、僕にとっての君は、変わらないからね」
幸はハッとして自分の手を見た。
少年が痩せた手を、いつの間にか幸の手に重ねていたからだった。
不思議と嫌悪感はなかった。
あったのは漠然とした「懐かしさ」……。
既視感、とでもいうのだろうか。
確か、昔こんな風に手を握られたことがある気がする……。
そう思って少年の手を握り返す。
そこで彼はフッ、と小さく笑った。
「君は優しいね。相変わらず、苦労していそうだ」
「あなた、名前は……?」
そっと問いかけると、少年は穏やかな顔のまま続けた。
「僕は何でも在って、何でも無い。だけど、そんな僕に仮称をつけるのであれば、君が最後に呼んでくれた名前が気に入っているよ」
「…………」
「『焔』……呼びたいなら、またそう呼んでくれればいい」
にっこりと、焔と名乗った少年は笑った。
しばらく手を握り合って二人が見つめ合う。
少ししてハッとした幸は、慌てて手を離して下を向いた。
「あ……ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
不思議そうにそう聞いて、焔は視線を海に戻した。
そしてまた自分の膝を体に引き寄せる。
「……もうすぐアポカリクファの終焉が訪れる。君もそれを判っている。だからまたここに来た。違うかい、カフカ?」
「アポカリクファ……?」
聞いたことのない言葉だった。
「終焉は等しく訪れる。累積したエラーはやがて吐き出され、一つの絶対的な結果へと収束していく。それは避けられないことだ……僕にも、君にも。アポカリクファの終焉と、いつしかそれは呼ばれているよ」
「何のことなのか、よく分からないよ……」
「そう……」
焔はそう言ってゆっくりと浜辺に立ち上がった。
そして大きく伸びをする。
「それなら、その方がいいね。忘却もまた、自己防衛の大切なファクターだ」
「…………」
「でもカフカ……ここにまた来たってことは、君の身に危険が迫っているということだ。用心をした方がいい。ここにいる限りは安全だけど、今の僕には君を保護できるだけの力は、もう殆ど残っていない」
「え……?」
「……また会えて嬉しいよ。君の現在の情報をスナークした。大体は把握した……出来る限りのことはする。でも……」
焔はそう言って、そっと幸に近づいてしゃがんだ。
そしてぎゅっ、と彼女の細い体を抱きしめる。
どこか、焦げ臭い灰の臭いがした。
「どうか無茶はしないで。僕は、君のためにまた目覚めたんだ。辛くなったら、いつでも頼ってほしい」
抱きしめられて目を白黒とさせている幸から体を離し、焔は静かに微笑んだ。
「僕は、絶対に君を」
◇
目を開いた。
頭痛はなかった。
カーテンから朝日が差し込んでいる。
鳥の声……。
目覚まし時計を見ると、アラームが鳴る寸前だった。
アラームを解除して、幸はもぞもぞとベッドの上で体を起こした。
はっきりと覚えている。
焔……。
あの白髪の少年に抱きしめられた、温かく優しい感触。
自分の手で小さな体を抱いて、幸はしばらく脈打つ心臓の鼓動の音を聞いていた。
◇
ガヤガヤとした喧騒。
幸は昼休みの生徒達が談笑している教室の隅の席で、父の作った弁当をつついていた。
友達はいない。
親しく話す友人は、中学に入学してからつくったことはなかった。
夢の中に入ってしまう病気のせいで休みがちなので、更に友達は作りづらい。
しかし、虐められているわけではない。
勿論陰で何を言われているのかは分からないが、幸を面と向かって傷つけてくる生徒はいなかった。
幸自身はあまり理解はしていなかったことなのだが、東京随一の進学校であるこの学校において、関東赤十字病院理事の娘である、という存在は大きすぎる畏怖材料だった。
親からよく言い聞かせられた子供達は、幸に手を出すことはせず、また、近付こうともしなかった。
幸は、しかしその状況を苦に思ったことはなかった。
学校は勉強するところだということは割り切っていたし、自分の成績も上位をキープしていて、目的は果たしている。
ただ、空気のように過ごしているだけだ。
長期の休み分の勉強も取り戻したので、休み時間は特にすることはない。
弁当を食べて、また包み直す。
鞄に戻した時、スマホがポケットの中で振動した。
特に持ち込みは禁止されていないので、取り出して画面を見る。
朝にラインスタンプを送った侑玖からの返信だった。
『どうかした?』
一言だったが、妙に安堵して画面を操作する。
『侑玖君は、変な夢を見ることはある?』
唐突に問いかけられた侑玖は、画面の向こうで少し沈黙してから返してきた。
『ないかなぁ。俺は結構きつい薬飲んでるからね。見るにしても、大抵は起きた頃には忘れてる』
『そうなんだ』
『変な夢を見たの?』
直球で聞かれ、幸は少し停止した。
そして軽く唇を噛みながら返す。
『白い髪……侑玖君みたいな白い髪の男の子と喋ったの』
『白い髪?』
『うん。夢の内容もはっきりと覚えてて……確か、アポカリクファの終焉がもうすぐ来るって言ってた』
そこで侑玖の返信が止まった。
数分待ったが返ってこない。
彼のレスポンスが悪いことは分かっていたので、諦めてスマホをポケットに仕舞おうとした時に、また振動の感触が手に広がった。
『今日は何時に学校が終わる?』
そんなことを聞かれたのは初めてだったので、一瞬キョトンとしてしまう。
幸は戸惑いながらメッセージを返した。
『今日は午後の四時くらいかな……私は補講には出ないから、すぐ帰れるよ』
『その後病院に来れるかな。迎えに行くよ。日暮里駅の北改札で待ってる』
『うん。いいの?』
『秋坂さんがそうしろって言ってる。幸さんさえ良ければだけど』
『分かった。四十分くらいかかるから四時半頃でいいよ』
『じゃあ、そういうことで』
軽く何個かスタンプを送ってからスマホを仕舞う。
侑玖は、そっけない人だ。
まだ長い付き合いではないが、それは確かなことだった。
意識してそっけなくしているわけではないようでもある。
つまりあれが彼の素。
こうしてラインをやりとりしていても、別段特別な感情などは抱いていないらしい。
幸は窓の外から春の桜が咲いている校庭を見ながら、無意識のうちに唇を撫でていた。
◇
学校を出て、日暮里駅に向かう。
ちょうど改札を出たところで、侑玖がシャツとジーンズの軽装で壁に寄りかかってスマホを弄っていた。
改札を出て彼に近づく。
「今日は疲れてないみたいだね」
呼びかけると彼は、顔を上げて幸を見た。
そしてスマホをポケットに突っ込んで口を開く。
「やあ。まぁ……今日はダイブ予定の患者がいなかったから、実質非番みたいなもんだよ。幸さんは、確か今日は塾がなかったね?」
「うん。でも、病院に行くってまだ家に連絡してないから、遅くなるなら電話しなきゃ」
「それなら秋坂さんがしてくれると思うから、心配しなくていいよ」
「どうしたの? 今日って診察の日じゃないよね?」
幸が問いかけると、侑玖はポケットに手を突っ込んで歩き出した。
慌ててそれに続く。
「君の見た夢がちょっと気になる。詳しく聞きたいって秋坂さんも言ってる」
「私の夢? 白い髪の男の子の?」
「うん」
それ以上は言わずに、侑玖は大股で病院に向かって角を曲がった。
慌てて小走りで彼の脇につく。
「何か、まずい感じだったかな……?」
「どうかな……詳しく聞いてみないと何とも言えないけどね」
「私と会ったことがあるって何回も言ってて、私のことを『カフカ』って呼んでた」
「カフカ……?」
「何のことだか分かる?」
問いかけると、侑玖は少し考え込んでから答えた。
「ドイツ人でそういう名前の文学作家はいたけどね。フランツ・カフカっていうの。でも関係があるのかまでは……」
「作家さんの名前……?」
「『変身』とか、ちょっとクセがある話をいろいろ書いてる。俺は、内容が気持ち悪いからあんまり好きじゃないな」
「どんな話?」
「朝起きたら、主人公の青年が不気味な毒蟲に変わってたって話。救いはないよ」
端的に内容を説明してから、侑玖は自販機の前で立ち止まって、コーヒーとアクエリアスを買った。
そしてアクエリアスを幸に渡してから、コーヒーを飲みつつまた歩き出す。
春の風が二人を撫でた。
桜の花びらが舞っている。
「…………」
幸は息をついてから、侑玖の袖を引っ張った。
「ん?」
「桜。綺麗だね」
路端の満開の桜を指差す。
侑玖はしばらく、ぼんやりした顔で桜を見ていたが、やがて大あくびをしてからまた歩き出した。
「うん。そうだね」
やはり彼の声には、どこか抑揚が感じられなかった。
◇
「ふーん……その夢の中の男の子『焔』君は、幸ちゃんをずっと待っていたと。でも幸ちゃんは、会った記憶はなかったわけね?」
病院の待合室で秋坂に問いかけられ、幸は温かいココアの缶を手で揉みながら頷いた。
「はい。彼は私をずっとカフカって呼んでました」
「何だろう……何かの鍵かな……?」
秋坂はそう呟いて考え込み、腕組みをして壁に寄りかかっている侑玖を見た。
「侑玖、お前の考えは?」
「……考えも何も。これだけの情報じゃ何も言えませんね。分析班に回しても同じことを言われるだけだと思いますよ」
侑玖は、しかしいつもとは違った少し緊張した顔で秋坂に続けた。
「でも、幸さんが『アポカリクファ』の単語を出したのは確かだ。俺は話したことはありません」
「幸ちゃん、お父さんかお母さんから、『アポカリクファの終焉』って言葉を聞いた覚えはある?」
秋坂に問いかけられて、幸は少し考え込んでから答えた。
「思い当たる感じはないですけど……もしかしたら小さい頃に聞いて忘れてるのかも……」
「そこまでは心理分析にかけないと分からないか……」
「あの……」
幸は怪訝そうに秋坂に問いかけた。
「それ、何かまずい言葉なんですか……?」
「うーん……」
秋坂はボリボリと頭を掻いてから、顔の前で人差し指を立てた。
「まぁ、簡単にだけ説明するとね。『アポカリクファの終焉』っていうのは、私達精神外科医が使う特殊な言葉なの。それも、普段は口にしてはないけないようなもの」
「え? どういうことですか?」
「深く説明するのは難しいな……例えば」
「幸さんは知らないほうがいいです」
そこで、初めて侑玖がはっきりとした声で秋坂の言葉を遮った。
秋坂と幸が、意外そうに彼を見る。
「……いや、侑玖。でも少しは言っておかないと、幸ちゃんも納得はできないだろ?」
「アポカリクファの種を精神内に発芽させたら、もう取り返しはつきませんよ。俺は、そこまでは絶対に保証できない。秋坂さん、それはあなたが一番良く分かってるはずです」
侑玖にしてはかなり珍しく、断固とした「拒否」の意見だった。
秋坂は侑玖をしばらく見ていたが、息をついて幸を見た。
「まぁ……そうだね。でもこのままだと幸ちゃんも無駄に不安なままだから、私達でどうにかしてあげるしかないな……勿論お父さんとお母さんにはちゃんと連絡する」
「どうにかって……?」
「これから君の精神の中にダイブする」
侑玖がゴミ箱にコーヒー缶を投げ入れて言った。
幸が首をひねって彼を見上げる。
「え? どうして……?」
「君の精神内に『エラー』が入り込んでる。それはある種の病気を発生させる可能性のある危険なものだ。だから、発症する前に壊しておく必要があると思う」
「私、病気にかかってるの……?」
「厳密に言うと病気じゃないんだ。何だろう……虫歯みたいなものかな。早めにエラーを除去さえすれば、また普通に眠れるようになるよ」
「精神内部へのダイブは本人の了承が必要になるんだけど、どうかな?」
どこか切羽詰まったような印象を、幸は受けた。
二人にいつものような余裕がない。
その事実に不安になりながらも、幸は少し考えてからコクリと頷いた。
◇
「エンダースカイフィッシュが動き出した」
薄暗い病室だった。
黒く、足元までの長いコートを着た青年が息をついて続ける。
「追って、東機関が種の駆除を始めるはずだ」
「阻止しなきゃいけないね」
ベッドに上半身を起こした、病院服の少女が口を開いた。
長く、綺麗に梳かされた髪は、雪のように真っ白く光沢を発していた。
黒いコートの青年は、オールバックにまとめた黒髪を神経質そうに弄りながら、少女を見下ろした。
「出来るのか、葛葉?」
問いかけられた葛葉という少女は、どこか白濁した目を青年の方に見えた。
「ええ、レイブン。私はこの時のために飼育されていたのよ。ちゃんと役目は全うしなくちゃ」
「……東機関の連絡網をハックしての情報だと、あと三十分後にターゲットの精神内にダイブするらしい」
「種は先にこちらへ確保させてもらうわ。ついでに、その『高畑の遺産』も、もらっておきましょう」
「気をつけてくれ。同行しているマインドスイーパーは、X36番……あいつだ」
「あら……侑玖君? いつから関東赤十字の犬に成り下がったのかしら?」
コロコロと笑って、葛葉はレイブンと呼んだ青年を見上げた。
やはりその瞳の焦点は合っておらず、あらぬ場所を見ている。
盲目なのだ。
「成り下がったと言っても、国産S級スイーパーであることは確かだ。油断はしないように」
「私を誰だと思っているの?」
葛葉はニコ、と微笑んで続けた。
「特S級、この世界に唯一であって最強のマインドスイーパーよ」
◇
侑玖は目を開いた。
ガヤガヤとした喧騒。
そこは、幸が通っている中学校の廊下だった。
沢山の生徒達が歩いている。
全員「顔」がなかった。
のっぺらぼうになっているが、何か喋っているのか声が聞こえる。
「ダイブ成功。幸さんの精神表層に侵入しました」
耳元のヘッドセットを操作して口を開く。
侑玖は病院服の状態だったが、裸足の彼に目を向ける生徒は誰もいなかった。
『幸ちゃんは?』
秋坂の声がイヤホンから聞こえてきて、侑玖は周りを見回して答えた。
「分かりません。見た所あの子が通ってる学校の中みたいだ」
『種は確認できる?』
何処か緊迫感を孕んだ声で秋坂が問う。
侑玖は周りを見回した。
青空で、雲がゆっくり動いているのが窓から見える。
教室の中を覗くも、のっぺらぼう達が談笑したりして思い思いに休み時間を楽しんでいる、普通の学校生活が見えるだけだった。
「見た所ありませんね……感染兆候も見られない」
『でも幸ちゃんが、アポカリクファの単語を出したのは確かだ。誰かが種をインプラントしようとしてる』
「分かってます。少し探索してみます」
そう言って侑玖は、裸足の足を踏み出した。
そして学校の廊下を歩き出す。
教室を何個か覗いて回り、そして彼は隅の教室前で足を止めた。
ガラガラと扉を開けて中に入る。
相変わらずのっぺらぼうの生徒達は、彼に顔を向けなかった。
その教室の奥の方……窓側の席に、机に突っ伏して寝息を立てている幸がいた。
「幸さん、起きて」
侑玖がそう言って幸の肩を揺する。
しかし幸は深い睡眠に入っているのか、小さく寝言のような言葉を言ってからまたスゥ……スゥ……と眠りに入ってしまった。
『幸ちゃん見つけた?』
秋坂に問いかけられ、侑玖は息をついて幸の肩から手を離した。
「見つけましたがダメですね。麻酔が強すぎたんじゃないかな……レム睡眠の深いところまでオチてる。夢も見ない状態です」
『そんなに大量には投与してないから、麻酔というより薬の副作用かもしれないね。幸ちゃんに危害が及ぶような環境じゃないなら、そのまま種を探して』
「分かりました」
頷いて、侑玖は教室を見回した。
そして教壇の方を見て、目を見開く。
ほとんど反射的にといった動作で、侑玖は椅子と机、そしてのっぺらぼう達をなぎ倒すように後ろに飛んだ。
ゴロゴロと床を転がりながら腕を振る。
そこにショットガンが出現し、侑玖はしゃがみながら倒れた机の陰に体を隠し、腕を伸ばして教壇に銃口を向けた。
「お前か……!」
押し殺した声を発する。
ヘッドセットの向こうで秋坂が息を呑む。
『侑玖、何かいたのか?』
「両腕を上げろ! ゆっくりとだ!」
しかし侑玖はそれには答えず、大声で威嚇するように怒鳴った。
教室内は相変わらずガヤガヤと生徒達の喋り声で満たされている。
その奥から、静かな調子でクスクスという笑い声が聞こえた。
「お前だな? カフカに最近まとわりついてる、山中侑玖っていうのは」
教壇に足を組んで、病院服の少年が座っていた。
真っ白いざんばらの髪。
そして、血のように赤い瞳。
彼はショットガンを向けられても全く怯まずに、バカにするように笑った。
「はじめまして。僕の名前は焔。カフカを守る者だ」
「秋坂さん、スカイフィッシュだ!」
侑玖はヘッドセットの向こうに怒鳴ってから、ショットガンの引き金をためらいもなく引いた。
散弾がものすごい勢いで発射されて焔と名乗った少年に殺到する。
しかし焔は、表情を変えるわけでもなく、右手を上げてパチン、と指を鳴らした。
彼の眼前で、無数の散弾が着水したかのように、空中に波紋を広げて停止する。
まだ回転しながら空中に静止している弾丸を横目で見てから、焔はその回転が止まったあたりでまた指を鳴らした。
バラバラと散弾が地面に転がっていく。
『幸ちゃんが言ってた焔って奴か! そこにいるのね?』
「人間の形をしてるように見えます。危険です。ここで駆除します」
早口でそう言って侑玖はショットガンを振った。
それが長大な日本刀に形を変える。
焔は立ち上がった侑玖を見て、目を細めて言った。
「やめておいたほうがいい。君は僕には敵わないよ」
「人間もどきが……!」
吐き捨てて、侑玖は乱暴に椅子と机を蹴り飛ばしながら日本刀を構えた。
焔はにやけた表情のまま教壇から降りた。
いつの間にか、その右手には侑玖が持っているものと同じような日本刀が握られていた。
「アポカリクファの種をこの子の精神にインプラントしようとしているのはお前だな? 死なない程度に破壊してから、その背景情報をゆっくりスナークさせてもらう」
「それは大きな間違いだ」
焔は中段に日本刀を構えて腰を落とした。
そして微笑みながら侑玖を見る。
「僕は、カフカをこれから訪れる外的脅威から守るために待機していた。最も……そうは言っても信じてはもらえなさそうだけどね」
「スカイフィッシュが戯言を……」
侑玖の顔に明らかな嫌悪の表情が浮かんだ。
彼は歯を噛んで口元を歪めると、吐き捨てるように言った。
「精神飛沫の断片などと会話をするつもりはない」
侑玖は、教室の床を蹴った。
そして大きく跳躍して、およそ人間のものとは思えない動きで焔に踊りかかった。
焔は体を回転させながら振りおろされた斬撃を、その場にしゃがむことでかわした。
彼の白い髪の一部を刀が薙ぎ、そのまま黒板を両断する。
侑玖の勢いは止まらず、彼は崩れ始めた黒板を足で蹴って、軽業師のように空中を回りながら刀を振った。
焔がそれを自分の刀で受け止める。
火花と金属音が散り、二人はそれぞれ反対方向に弾き飛ばされた。
焔は軽く腕を振っただけのようだったが、侑玖は教室の反対側まで吹き飛ばされ、壁にしたたかに背中から突き刺さった。
ゴウンゴウンと教室が揺れ、コンクリート製の壁にヒビが入る。
「っぐ……!」
侑玖は歯を噛んでズルズルと床にしゃがみこんだ。
そこで、床を転がった焔の姿が消えた。
ハッとして刀を振り上げる。
いつの間にか真正面に現れた焔が大上段に刀を振り下ろし、侑玖が眼前で、かろうじてそれを受けた。
つばぜり合いのようになり、二人の少年が全力を刀にかけて押し合う。
ガチガチと刃が鳴り、火花が散った。
焔の力はものすごく、押し返すことができずに侑玖が壁に押し込まれる。
「言っただろう? 君では僕に勝てないって」
焔はクスクスと笑うと、目を細めて侑玖を見下ろした。
「僕はエンダースカイフィッシュだ。君達が狩っている模造品じゃない」
「エンダースカイフィッシュ……?」
初めて聞く単語だったらしく、侑玖は歯を噛んで焔の刀を押し返そうとしながら言葉を絞り出した。
「たかが自我を持っているくらいで調子に乗るなよ……!」
「スカイフィッシュに対して、君は異常な憎悪を持っているね。そんな危うい騎士に、カフカは任せられないな」
「何を……!」
「静かに。カフカが起きてしまうだろう」
焔はそう言って、ひときわ強く刀を押し込んだ。
受け止めきれなかった刀の腹が侑玖の肩にめり込む。
それはたちまちのうちに彼の肩の筋肉を切り裂いた。
病院服が凄まじい勢いで血に濡れていく。
歯を噛み締めて痛みに目を見開いた侑玖から、教室の隅でまだ寝息を立てている幸を横目で見て、焔は小さく笑った。
のっぺらぼう達は、日本刀で斬り合っている二人など意識もしていないように談笑を続けている。
肩からボタボタと血を垂らしながら、侑玖は歯を噛み締めた。
そして息を吸い、ヘッドセットに向けて声を張り上げようとした時だった。
焔の顔が一瞬無表情になり、彼は窓の外を見た。
そして軽く舌打ちをする。
『侑玖、外的な回線ジャックだ! 幸ちゃんの夢座標にハッキングを受けてる!』
「……何だって!」
ヘッドセットから流れてきた秋坂の切羽詰った声を聞いて、侑玖は思わず手に持っていた刀から力を抜いた。
その瞬間、焔が手を伸ばして侑玖の腕を掴んだ。
斬られた肩から凄まじい痛みが体を駆け抜け、侑玖が声を上げて硬直する。
そこで彼の意識は暗転した。
◇
次に気づいた時には、侑玖は教室の外……校庭に転がっていた。
(な……何だ……?)
呆然として視線をスライドさせる。
すぐ隣に幸が力なく横になっている。
次の瞬間だった。
今まで自分達がいた教室……。
離れた場所の3F、その場所が轟音と爆炎を噴き上げて爆裂した。
窓ガラスやコンクリートの破片が周囲に散乱し、熱風が校庭を駆け抜ける。
慌てて幸に覆いかぶさってその風から眠っている彼女を守る。
数秒経ち、侑玖は唖然として、時限爆弾でも爆発したかのように、綺麗に一角が消えてなくなった校舎を見上げた。
幸はまだ起きない。
周囲の無事な教室では、のっぺらぼうの生徒達が談笑を続けているのが見えた。
「山中侑玖、残念だけど君と遊んでいる時間はもうないようだ」
そこで背後から声をかけられ、彼は抱いていた幸を校庭に下ろして立ち上がった。
そしてまた無事な方の腕を振って日本刀を出現させる。
少し離れた場所……。
体育倉庫の屋根の上に、焔が悠々と腰を下ろしていた。
侑玖は彼に刀を向けて怒鳴った。
「何を言っている……! お前はここで始末する。逃さねぇぞ……」
「その刀は僕じゃなくて、侵入してきたヤツに向けたほうがいいと思うよ?」
焔に静かに言われてハッとする。
さりげなくヘッドセットに手を当てるも、秋坂の声はしなかった。
ハッキング。
ここに移動する前、秋坂はそう言っていた。
それは、外部からマインドスイープ機構に干渉して乗っ取る犯罪行為だ。
何者かがこの、幸の夢の中に侵入してきた……しかしこのスカイフィッシュではない。
(第三者か……?)
血が流れ続ける肩を庇おうともせずに、両手で日本刀を握って構える。
ハッキングを受けているとしたら、外部との通信も妨害されている可能性が高い。
そうだとしたら、秋坂と連絡が取れるのは、彼女がハッキングをある程度解除してからだ。
一分……二分くらいか。
そう考えて歯を噛む。
侑玖の目は、焔と同じ校庭の、少し離れた場所を見つめていた。
そこに病院服を風に翻した、小さな女の子が立っていたからだった。
いつの間に現れたのかは分からない。
しかし、雪のように白く、長い髪をたなびかせている彼女……。
その見覚えがある顔を見て、侑玖は飛び出しそうな心臓を、呼吸をすることで何とか押さえ込んだ。
「葛葉……」
そう呟いた侑玖を見て、真っ赤な瞳をした小さな少女はニコ、と微笑んだ。
「侑玖君。お久しぶり」
「どうして君が……君は確かにあの時に死んだはずじゃ……」
「それをあなたに説明する義理はないなぁ」
コロコロと小さく笑って、葛葉と呼ばれた少女は大きく伸びをした。
そしてパチン、といきなり指を鳴らす。
反射的に侑玖は刀を胸の前に突き出したが、それごと、何か吹き飛んできた風の塊のようなものが彼を後方に吹き飛ばした。
校庭を取り囲むように生えていた木の幹に突き刺さり、侑玖は歯を食いしばった。
衝撃の瞬間に舌を噛んでしまったらしく、口から血が垂れる。
打ちどころが悪かったらしく、侑玖はそのまま地面に墜落して動かなくなった。
「S級能力者でも、隙を突かれればこんなものかぁ」
どうでも良さそうにそう呟いて、葛葉は校庭に横になって寝息を立てている幸の脇に移動した。
そしてしゃがんで彼女に触れようとして……。
首があった場所をためらいもなく薙いだ日本刀を避けるように、地面を蹴って体を反転させた。
いつの間にか幸の隣に出現していた焔が、日本刀を立て続けに葛葉に向けて繰り出す。
彼女は静かな動きで体を連続して捻りそれをかわしてから、腕を振った。
途端、彼女の腕から真っ赤な炎が上がった。
熱くないのかそれを掴んで、葛葉は鞭のように振り回し始めた。
燃え盛る炎を受け止めるのは困難と判断したのか、焔が刀を捨てて幸を抱え、後方に跳ぶ。
「逃げないでよ」
少女はそう言って炎を焔に向けて投げつけた。
体を捻ってかわした焔だったが、後方の地面に打ち当たった炎は大きく燃え上がり、たちまちのうちに炎の壁を作り上げた。
幸に炎が及ばないように、焔が少し前に移動して彼女を強く抱く。
「あなたが、レイブンが言ってたエンダースカイフィッシュ?」
悠々と足を進めてきて、離れた所で止まった葛葉が問いかける。
焔はそれを聞いて口を開いた。
「だとしたら、どうするのかな?」
「どうしてスカイフィッシュが、私達のターゲットを守ってるのかな? 殺す前にその理由を聞きたくて」
「へぇ、物好きだね」
焔は幸を抱きながら微笑んだ。
「人が人を好きになるのに、理由なんて必要ないと思うけどな?」
「それはヒトにだけ赦された特権みたいなものだと思うけど……」
葛葉は少し考え込んでからコキコキと両手の指を鳴らした。
「……まぁいいや。ついでだからあなたも半殺しにして、中核を持ち帰ることにする。できるだけ痛くはしないから、抵抗しないでね?」
「それは無理な話だ」
肩をすくめて焔は言った。
「実戦経験が少ないのかな? いろいろ甘く見てるね」
「……何を」
そこまで葛葉が言った時だった。
炎の壁を、何か弾丸のようなものが突き破った。
それは、血に濡れた病院服を翻した侑玖だった。
彼は人間だとは思えない程の動きで地面を蹴り、凄まじい勢いで炎を突き破り、更に反応しきれていない葛葉に肉薄して日本刀を振りかぶった。
一瞬の出来事だった。
葛葉が斬撃を避けようと体を捻ったのと、侑玖がためらいもなく日本刀を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。
袈裟斬りに首から腹まで斬られた葛葉の体から、凄まじい勢いで赤い血液が噴出する。
「……か……」
言葉にならない悲鳴を上げ、少女は地面に倒れ込んだ。
侑玖は異常な反応速度で刀を振り上げ、彼女の頭に叩き込もうとして……。
葛葉が手を伸ばし、そこから雪崩のように噴出した炎の塊に飲み込まれて吹き飛んだ。
黒焦げになった彼が校庭をゴロゴロと転がる。
体中から白い煙を発しながらもよろよろと起き上がった侑玖の目に、自分の体から流れる血を見て狼狽している葛葉の姿が映った。
「私の……私の体に傷……斬られた……侑玖君が私を斬った……侑玖君が……!」
「葛葉……」
ギリギリと刃を噛み締め、侑玖は日本刀を握りしめた。
「その力はスカイフィッシュ……変異亜種の……!」
しかし最後まで声を発することができずに、侑玖は強く咳き込んで膝をついた。
そこで葛葉は、つけているヘッドセットの向こうと何かを言葉をかわした。
そして歯ぎしりして侑玖を睨み、幸を抱いている焔を見てから右手を地面に叩きつけた。
そこに木製のドアが出現し、彼女はその取っ手を握って開き、中の黒い空間に身を躍らせた。
扉が閉まって掻き消える。
「…………」
『侑玖、バイタルが異常値だ! 「T」の効果が切れるぞ!』
ヘッドセットから秋坂の声がする。
彼は立ち上がって振り返った。
いつの間にか焔の姿は消えていた。
校庭に横たわっている幸に近づき、ガランと音を立てて日本刀を投げ捨てる。
そして彼は、幸が眠っていることを確認してヘッドセットに手を当てた。
「秋坂さん、回線を遮断してください。すぐに!」
◇
「幸が……変異亜種に狙われてる……?」
呆然とした声をあげた幸の父、裕也に秋坂は頷いてみせた。
「はい。まだ断片的な情報しか分かりませんが、幸さんの脳内にダイブした瞬間を見計らってハッキングがありました。おそらく、あの子の精神中核を狙っての犯行だと思われます」
「バカな……幸は普通の子供だぞ……?」
施術室で寝息を立てている幸を前に、裕也は声を荒げた。
「詳しく説明をもらいたい。どういうことなんだ?」
「…………」
秋坂は少し考えた後、息を吸って答えた。
「幸さんにまとわりついている精神体がいます。スカイフィッシュだと思われますが、詳細は不明です」
「何だって……」
呆然とした裕也に、秋坂は淡々と続けた。
「そのスカイフィッシュは幸さんに危害を加えるつもりはなく、逆に守っているようですが……『アポカリクファの終焉』の話をしたそうです」
「…………」
裕也が目を見開いて硬直する。
「そんな……まさか! それは隠匿情報の機密レベルAの事項だ!」
「だからこそ、真実を確かめるためにダイブさせていただきました。その結果、このハッキングがあった次第です」
秋坂は息をついて裕也を見た。
「何かをまだ、隠していらっしゃいますね? 汀先生と、あなたとの娘、幸さんには、関東赤十字が隠していることがある。東機関は、その情報の開示を求めています」
「…………」
「開示をいただけないのであれば、我々はこれ以上の干渉は一切行いません。関東赤十字病院の案件として、全ての処理をお返しします」
裕也は下を向いてしばらく考え込んでいた。
その額から冷や汗が垂れている。
やがて彼は、決心したように顔を上げて秋坂を見た。
「……分かりました。私もこの子の親だ。責任を持って開示をさせて頂く」
◇
「……ん……」
小さく声を上げて目を開ける。
そこは、裕也が隣に座ったタクシーの後部座席だった。
「……お父さん……?」
横を向いて口を開く。
裕也は横目で幸を見て微笑んだ。
「よほど疲れていたみたいだな。だいぶ寝ていたようだ」
「あれ……? 私、秋坂先生の病院に……」
「診察は終わったよ。問題ないそうだ」
裕也が被せるように言う。
幸はしばらくきょとんとして首を傾げた。
「え……? 終わったの? 私何も覚えてないけど……」
「少し強い薬に変わったが、幸の頭の中の病気は、山中君が退治してくれたそうだ。明日からも通院してほしいとのことだったから、お父さんが送ってあげよう」
「でも、学校が……」
「またしばらく休むという連絡は入れてある。心配しなくていい」
「う……うん……」
どこかいつもと違う父の様子に、思わず黙り込む。
そして幸はポケットからスマホを取り出した。
侑玖が何とかしてくれたという話だったが、どうしても気になったのだ。
ラインで侑玖に何個かスタンプを送って反応を見てみる。
既読表示は、いつまで経ってもつかなかった。
諦めてスマホをポケットにしまった幸を横目で見て、裕也は小さく息をつき、暗い表情を隠すように唇を噛んだ。