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第3話 殺意

生きるのに精一杯だった。

ただ生きているだけのことが、上手くできなかった。


自分が普通の人間とは違う。

そういう自覚を持ち始めたのは中学校に入ったあたりだった。


心が痛まないのだ。

何をしても。

何をされても。

その感情が欠落している。


自分にはそれがない。

他者と悲しみを共有することが、自分にはできない。


欠落している心の痛み。

すっぽり抜け落ちている穴、穴、穴。

その存在は感じ取れる。

だが、自分にはないそれがとても彼には「疎まし」かった。



侑玖は目を開けた。

眠る前にいつも飲んでいる薬。

それがテーブルの上に置いてあるのが見える。


どうやら、昨日の夜、飲むのを忘れて寝てしまったらしい。

誰もいないワンルームのガラリとしたマンションの一室。

カーテンの隙間からは朝日が射していた。


嫌な夢を見た気がする。

かつて、満たされていた時の夢だ。

それが果たして夢なのか、それとも現実にあったことなのか。

侑玖には断言することはできない。

だが、「嫌な夢」であることは確かだ。


ベッドから起き上がってひんやりとした床に降りる。

そして侑玖はカーテンを開けてから、テーブルの上の薬を、薬箱にしまった。


「おはよう……」


眠い声で水槽に向かって声を発する。

部屋の隅でコポコポと音を立てている水槽には、大きな金魚が一匹泳いでいた。


よく整備されたきれいな環境になっている。

答えは返ってこなかったが、侑玖は水槽の電気をつけてから冷蔵庫に向かった。


そこで、テーブルの上のスマホを見て足を止める。

手にとって画面を確認すると、ラインが入っていた。

チャット欄を開く。

幸からだった。


『おはよう、侑玖君。昨日と今日は、もらったお薬でよく寝れたよ』


どうということはない日常会話だ。

ああ、寝れたのか。

そう心の中でどこか安堵してから、侑玖は続きをスクロールした。


『今日は土曜日だけど、病院って開いてるのかな? 行っていい?』


その文を見て、侑玖は少し考え込んだ。

そしてしばらく躊躇ってから、ぎこちない動作でチャットを返す。


『今日はダイブ予定の患者が一人いるだけだよ。来るのは問題ないけどオススメはしない』


少しして、幸はスマホを操作していたのか、すぐに既読の表示がついた。

そしてチャットが返ってくる。


『どうして?』

『かなり重度の患者なんだ。同席しない方が良いと思う』


本当のことだった。

自殺病を発症してずいぶん経ち、もう助からないと関東赤十字病院から回されてきた患者の診察なのだ。

いささか、今回は幸を同席させたり接触させるのは憚られた。


『でも、私、できれば今日侑玖君とお話したい』


しかし幸から返ってきたのは、我を通そうとする言葉だった。

侑玖はスマホの時刻を見た。

朝の八時を少し過ぎたところだ。


『診察は十四時からだから、それまでなら大丈夫だよ』

『本当?』

『秋坂さんは九時ごろ病院に来るから、それくらいでいいかな?』

『ありがとう。じゃあ九時に間に合うように行くね』


スマホをテーブルに置き、冷蔵庫を開ける。

コーヒー缶を取り出し、プルトップを開けて中身を口に流し込む。


頭痛がした。

頭を押さえて、侑玖はため息をついた。


幸の様子だと、何かあったらしい。

あの子はそういう重要なことを隠しながら話をしようとする節があるのは、どこか察することができていた。

いずれにせよ、面倒なことにならないといいな……。

侑玖はそう思ってまたコーヒー缶に口をつけた。



ポケットに手を入れた軽装の侑玖が医院に来た頃には、幸はすでに私服で病院前に待機していた。


「あ、侑玖君!」


そろそろ秋口に差し掛かってきたので、薄い上着を羽織っている。

具合でも悪いのか、顔色は悪かった。

しかし侑玖を見て安心したような顔をした幸を、彼は近づいてから見下ろした。


「秋坂さん、まだ来てないの?」

「うん。来る前にテレビで列車の遅延とか言ってたから、それだと思うよ」


頷いた幸に、侑玖は続けた。


「そう。とりあえず裏口の鍵はあるから、そこから入ろう」

「うん。ありがとう……」


幸の声はどこか自信なさげに尻すぼみだった。

二人で裏口に回り、侑玖が開けた鍵で中に入る。


侑玖は病院の電気をつけていくと、受付のパソコン類の電源を入れた。

そして自販機に近づき、ポケットから丸のままの小銭を掴みだして言う。


「何か飲む?」


誰もいない待合室のソファーに腰を下ろした幸が顔を上げた。

そしてぎこちなく笑ってみせる。


「あ……私は大丈夫」

「元気ないね。何かあった?」


侑玖はそう聞きがてら小銭を入れて自販機のボタンを二度押した。

そして幸の隣に腰を下ろすと、手に持っていたポカリスエットのペットボトルを差し出す。


「まぁ、秋坂さんが来るまでゆっくりすると良いよ」

「ありがとう……」


自分はコーヒーの缶を開けて飲む。

幸はしばらくペットボトルを見ていたが、やがて蓋を開けて中身を口につけた。


「…………」

「…………」


しばらく二人の間を沈黙が包んだ。

カチ、コチと壁の時計が秒を刻む音がする。

やがて幸は言いにくそうに侑玖に言った。


「……お父さんとお母さんは、ここで私が治療を受けることは賛成してくれたんだけど、アルバイトは駄目だって。ずいぶん話したんだけど、そう言われちゃった」

「まぁ……だろうね。そんな生易しい仕事じゃないし」


侑玖は特に幸を気遣うわけでもなく、淡々とそれに返した。

幸は俯いてポカリスエットを飲みながら続けた。


「うん。それは分かるよ。普通の仕事じゃないもんね……」

「普通かどうかは、それは他人が判断することじゃない」


侑玖はコーヒー缶の中身を口に流し込んでから言った。


「……少なくとも、それで救われる人はいる」

「侑玖君は……」


幸は少し言い淀んでから、侑玖を見上げて言った。


「侑玖君は人を殺しても、何も感じないの?」


幸の大きい目で見つめられて、侑玖はそれを困ったように見下ろした。

そして息をついて返す。


「感じないよ」

「どうして? 私、この前侑玖君が……外国の患者さんを殺した時、何だか……」

「…………」

「……凄く、嫌だった」

「心が痛んだ?」


問いかけられ、幸は視線を侑玖からそらした。


「……多分、そうなんだと思う」

「へぇ、普通はそうなんだね」


少年はコーヒー缶の中身を全て飲み干すと、立ち上がってゴミ箱に近づき、それを入れた。

そして大きく伸びをしてから幸を見ずに言う。


「俺は、そういうの感じないから。いちいち感じてたらこんな仕事できない」

「感じないって……?」

「そのままの意味だよ」


侑玖がそこまで言った時、裏口に面している休憩室のドアが開いた。

そして秋坂が顔を出す。


「何だ侑玖。今日は随分早いな」

「八時頃目が覚めちゃいまして」

「いいけど診察は十四時から……」


そこまで言って、ソファーに腰掛けている幸を見て、彼女は言葉を止めた。


「大河内さん。来てたの?」

「おはようございます、秋坂先生。侑玖君に無理を言って、入れてもらったんです」

「別にいいよ。でも十四時から、ちょっと込み入った患者の診察だから、それには立ち会わないほうが良いかな」


秋坂は受付のシャッターを上げてから、大欠伸をして椅子に腰掛けた。


「あの……」


幸が声を上げると、秋坂はパソコンを操作しながら答えた。


「ん? 好きにしてていいよ。どうせここは完全予約制だから、患者は来ないからね」

「この前から気になってたんですけど、秋坂先生と侑玖君の二人でやってるんですか?」


問いかけられ、秋坂は頷いた。


「うん。別に、患者でごった返すこともないし。結構かかるのよ、人件費って」

「そうなんですか……」

「で……今日はどうしたの? お薬はちゃんと効いて眠れた?」


幸は頷いて小さく笑った。


「はい。よく眠れるようになりました。夢も見ません。少し起きるのが大変になりましたけど……」

「慣れればそうでもないよ。ま、眠れたなら良かった。ついでだから、後で採血とかの検査もしようか」

「はい……」


頷いて俯いた幸を見て、秋坂は待合室の隅でスマホをいじっている侑玖に目をやった。


「おい侑玖、幸ちゃんが来てるんだよ。話し相手になるとか、何とかあるだろ?」

「俺、今時の若者が何の話をするのかよく分かんないんで」

「何で老後みたいなこと言ってんだよ」

「アルバイトは反対されてるみたいです。さっき聞きました」


スマホで何かゲームでもやっているのか、指を動かしながら侑玖が言う。

秋坂は少し考え込んでから幸を見た。


「実はそのことで、大河内理事……ああ、あなたのお母さんと電話でお話もしてるの」

「お母さんと?」


幸が顔を上げて表情を曇らせる。


「お母さん、何か失礼なこと言ってませんでしたか?」


問いかけられ、秋坂はきょとんとしてから笑った。


「そんなことはないよ。汀先生は素晴らしいお医者さんだからね。私も大学で講義を受けたことがあるんだ。いわば顔見知りってやつ」

「そうだったんですか」

「まぁね。ただ、汀先生は幸ちゃんがアルバイトをするより、まずは病気を治すことから始めなきゃならないって考えてるみたい」

「私……やっぱり病気なんですか?」

「侑玖……説明してなかったの?」


声をかけられた侑玖は、スマホから視線を外して秋坂を見た。


「秋坂さんがするものかと思ってました」

「全く……」


ため息をついて、彼女はパソコンのキーボードから手を離した。

そして立ち上がってソファーに近づく。

幸の正面に腰を下ろして、秋坂は続けた。


「あなたは、夢遊性の強い干渉能力を持っているわ。生まれつきのものね」

「病気……ですか?」


不安そうな顔をした彼女に、秋坂は頷いてみせた。


「ええ。脳の一部が異様に活性化してる場合に、こういうことが起こる場合もあるの。あなたの場合、アドレナリンの分泌量がかなり多いから、それを抑えるお薬を継続して飲めば、無意識に他の人の夢に迷い込むことは無くなるはずよ」

「治るんですか……?」

「それは今後の診察次第かなあ。今の所は何とも言えないわね。ごめんね」


言葉を濁してそう言い、秋坂は息をついた。


「それでも、確実に夢遊病を防げるとは限らないから、予防線は張った方が良いとは思うけどね」

「予防線……?」

「うん。あなた自身がマインドスイープの知識をつけること。それに限るわ。今まで危険地帯に迷い込んだことも多いんでしょう? 多分、この前自殺病のウィルスに感染してたのもそれが原因だと思うわ」


幸はそれを聞いて表情を曇らせた。

そして侑玖からもらったポカリスエットのペットボトルをギュ、と握る。


「お母さんが、最初いろいろ教えてくれてたんですけど……」

「汀先生が?」

「はい。でも、お母さん、ちょっと具合を悪くしてもうマインドスイープできなくなっちゃって……」

「うーん……」


秋坂は考え込んでから腕組みをした。


「まあ、いずれにせよ病気の治療もすぐ完治、っていう訳にはいかないわ。夢の中でどう動けば良いかも、これから少しずつレクチャーしていくことになると思う。だから焦らずに」

「……先生」


そこで幸が言葉を挟んだ。

口をつぐんだ秋坂を見上げて、彼女は言った。


「夢を見なくなったのはいいんですけど、ずっと不安なんです」

「……不安?」

「はい……何だか、眠ってるのか、それとも死んじゃってるのか分からなくて。いつも起きられるかどうか、寝る前に凄く不安で……」


どこか憔悴したような表情でそう言った彼女に、秋坂は言った。


「……まぁ、今までずっと夢の中で動き回ってたから、その部分がいきなりカットされてしまったら喪失感を強く感じるのは仕方ないわ。でも、それが普通よ」

「普通……?」

「普通は寝てる時は脳が休んでいるものなの。あなたの場合、ずっと脳が稼働し続けている状態だから無理やり意識をお薬でシャットアウトしているわけ。休める時には休まないと、疲れちゃうでしょ? それだけのことよ。別にそんな深く考えることじゃないわ」


それを聞いて表情を落とした幸を見て、侑玖はスマホをポケットにしまってから口を開いた。


「寝るのと死ぬのは、別に変わりはないよ。何も怖いことじゃない」

「おい、侑玖」


顔をしかめて秋坂が侑玖を静止する。


「そういう話をしてんじゃないんだよ」

「同じようなものでしょ? 目を覚ますか覚まさないかの違いだけ。大抵は目は覚めるんだから、何も怖いことはないですよ」


どうでも良さそうに幸の不安を掃き飛ばしてから、彼は大欠伸をして休憩室の中に入っていった。

幸はそれを目で追ってから、秋坂に言った。


「あの……」

「ん?」

「侑玖君って……その……何か、違うんですか?」

「何かって?」


曖昧な問いを問い返されて、幸は少し考えてから続けた。


「さっき、人を殺しても何も感じないって。侑玖君が言ってたのが少し気になって……」

「ああ、そういうこと」


合点がいったように頷いて、秋坂は言った。


「そうだよ。あいつはそういうの、欠落してるから」

「……欠落?」

「痛みとか苦しみっていうのかな? 肉体的じゃなくて、精神的なもの。侑玖は、それ感じないんだ」

「…………?」


何を言われているのか分からずに幸が首を傾げる。


「感じないって……?」

「よく分からないのも仕方ないけど、上手く説明できないな……まぁ、簡単に言うと、あいつはどこで何しても『心が痛まない』んだよ。そういう人間なんだ。だから、あいつと話してても、話、妙に噛み合わないでしょ?」

「…………」


どう答えたら良いか迷っている幸だったが、そこで複数の車の音が聞こえてきて口をつぐんだ。


「……?」


秋坂が不思議そうに、表の駐車場に停まった二台の車を見る。


「午前中は診察は入ってないはずだけど……」


そう行って彼女が立ち上がったのとほぼ同時に、周りの目を気にするような動きで、車の中から一人の男が出てきた。

そしてブーツの踵を鳴らしながら医院の玄関に足を踏み入れる。

自動ドアをくぐり、彼はスリッパに履き替えてから中に入ってきた。


「失礼。秋坂先生はいらっしゃいますか?」


問いかけられて、秋坂は男に近づいて答えた。


「私ですが?」

「良かった。ご連絡していた新宿署の金見かなみです」

「ああ……警察の。ずいぶん早いですね」

「容疑者の容態が急変しまして……救急車で運び込むのも報道陣を連れてきてしまう可能性がありまして。事前連絡無しにお伺いしてしまい、申し訳ない」


金見と名乗った警官らしき男はそう言うと、息をついて医院の中を見回した。

そして幸に目を留める。


「……先に、患者さんが?」

「いえ、この子は私のアシスタントです」


サラリと、真顔で秋坂が嘘をつく。

口を開いて否定しようとした幸だったが、金見は勝手に合点がいったように頷いた。


「マインドスイーパーですね。施術を行うのはこの子ですか?」

「もうひとりいます。それより、患者を早く処置室にお願いします。意識はあるんですか?」

「混濁状態といいますか……自殺病の進行が進んでいまして、今朝方、鏡を叩き割って首を掻っ切ろうとしましてね」


幸が小さく息を呑んで青くなる。


「幸い処置はすぐ済んだんですが、幻覚と幻聴の症状が見られています。薬を投与していますが、改善の見込みがありませんね」

「車の中です?」

「はい」


秋坂は視線を駐車場の方に向けた。

確かに、もう一台の車の後部座席に、二人の男に挟まれるようにして体を揺らし続けている影がある。


「とにかく中に。手遅れになるとコトですから」

「分かりました」


秋坂の言葉に頷いて、金見はまた玄関から外に出ていった。

幸が立ち上がって、青い顔で言う。


「秋坂先生、私、帰ります……」

「そうさせてあげたいんだけど、ちょっと難しいかなあ……」


ため息をついて、秋坂は続けた。


「さっきの刑事さんかなり偉い人でね。幸ちゃんは、私のアシスタントってことで静かにしてた方が良いな。何より……」


彼女はボリボリとざんばらの髪の毛を掻いて、困ったように言った。


「見ちゃったでしょ? 患者の顔」


息を呑んで幸が硬直する。

そこで休憩室のドアが開き、スマホにバッテリーをくっつけた状態でゲームをしている侑玖が入ってきた。

秋坂は彼に近づくと、ゴン、と拳でその頭を叩いた。


「うっわ……何するんですか、秋坂さん」


驚いたのか画面から目を離して、侑玖が抗議の声を上げる。

秋坂は呆れたように言った。


「診察時間が早まった。今患者が入ってくるから、処置室の整備してきて」

「ええ? 十四時からじゃなかったでしたっけ?」

「向こうさんの都合。仕方ないから合わせるよ。ああ……幸ちゃん、帰すわけにいかなくなったから、処置室に連れてって。適当に話し合わせてくれないかな」

「見ちゃったんです? 全くもう……」


困った調子で言ってから、侑玖はスマホとバッテリーをズボンのポケットにつっこんだ。


「こっち。幸さん、とりあえず処置室の方についてきて」


マインドスイープの装置が並んでいる部屋で、侑玖は次々に機器の電源を入れていった。

その近くに立って、幸はリュックサックを抱きながら言った。


「あの……見ちゃったって、どういうこと?」

「ん? 患者の顔。どこかで見たことない?」


どうでも良さそうに侑玖が言う。

幸は少し考えてハッとした。


「あの人、まさか……」

「うん。三日前に逮捕された連続殺人犯。女の子達を暴行後、六人殺して埋めてる」


淡々と言った彼に、青くなって幸は問いかけた。


「そんな……自殺病にかかってたの?」

「今回は殺すのが目的じゃなくて、治療が目的らしいんだ。今の法律だと、自殺されたら裁けないからね。そのための診察とダイブを今日行うわけ」


診察ベッドの位置をガタガタと直している侑玖に、幸は言った。


「侑玖君、怖くないの……?」

「怖い?」


意外なことを聞いた、という感じで侑玖は顔を上げた。

そして首をかしげる。


「何が?」

「殺人犯の中にダイブするんでしょ? 私にはそんなこと……できない」

「君がするわけじゃないし、そんな危険なことはさせられないよ。今回は秋坂さんと外からナビをしてくれてればいい」

「それは……そうだけど」


幸は口ごもってから、機材の電源をつけはじめた侑玖に、思い切ったように言った。


「ねぇ、侑玖君」

「何?」

「今度の患者さん……その、連続殺人犯の人。もし自殺病が進行しすぎてて、治療できなかったらどうするの?」

「殺すよ」


端的に返された言葉は、異常な程に呆気なかった。

愕然として言葉を失った幸を横目で見て、侑玖はパソコンモニターに視線を移して言った。


「そういう契約になってる」

「それは……ダメだよ……」


幸が言ったことの意味が分からなかったらしく、彼は振り向いて向き直った。


「何が?」

「私は……私は侑玖君に、人を殺して欲しくない……」


自信なさげに言葉は尻すぼみになり、幸は侑玖から目を離して床を見た。

そして唇を噛む。


「そんなこと言われてもなぁ……」


困ったように侑玖は頭を掻いてから息をついた。


「仕事だしなぁ」

「侑玖君は私を助けてくれたでしょ? 私分かるの。侑玖君は、本当は人を殺したくなんてないって思ってる。そんなことしたくないって思ってる。そうでしょ?」


幸の断言するような言葉を聞いて、侑玖は動きを止めた。

そして頭痛がしたのか、頭を押さえて何度か瞬きをする。


「俺は……」

「侑玖君は、心の中ではこの仕事を嫌がってる。私はそれを感じるの。本当は、侑玖君はとっても優しい人だから。だから……私は……」

「おい侑玖、準備はできたか?」


そこで秋坂が施術室に入ってきた。

侑玖は息を吐いてから秋坂の方を向いた。


「OKです。いつでもダイブできますよ」

「よし。幸ちゃんはこっちにおいで。私の側から……」

「……秋坂先生。私も侑玖君と一緒にダイブします」


そこで、幸が顔を上げて、決心したように、はっきりとした口調で言った。


「……え?」


秋坂は数秒キョトンとした後、慌てて顔の前で手を振った。


「いやいやいや、そんなことはさせられないよ。もし万が一のことがあったら、私達じゃ責任は取れないわよ」

「大丈夫です。侑玖君がいますから」


幸は歯を噛んで、息を吸ってからポカンとしている侑玖を見上げた。


「侑玖君は強いから、何が起こっても私を守ってくれるはずです」

「でも……いや、ダメだよ。汀先生に何て説明したら……」

「ダメだって言われても、勝手に寝てついていきます」


幸の確固たる断言を聞いて、秋坂は深い溜め息をついた。

そして侑玖を見る。


「……お前、何か言ったの?」

「いえ……何も言ってないですけど……」


侑玖も戸惑いの表情で幸を見た。


「ついてきて何したいの? 何の得もないと思うけど」

「それでも、私は……」


幸は言い淀んでから、真っ直ぐ侑玖の顔を見て強く言った。


「侑玖君に、人を殺して欲しくない」

「は?」


侑玖は困ったように口ごもってから、繰り返した。


「仕事だからなぁ……別に君が気に病むことはどこにもないじゃない?」

「…………」


それ以上は口をつぐんだ幸と侑玖を交互に見てから、秋坂は頭をボリボリと掻いてから口を開いた。


「あーもう……仕方ないね。侑玖、幸ちゃんを守りながらダイブできる?」

「異常変質区域のハザード5級なんでしょ? 保証なんてできないですよ」

「保証しろなんて言ってないよ。できるか、できないかって話」

「できますけど、『保証』はできません」


反復するように念を押した侑玖に、秋坂は頷いてから続けた。


「幸ちゃんは絶対に無傷で帰還させること。それができたらボーナスと有給くれてやるよ」

「ボーナスは欲しいな……」


侑玖は少し考え込んでから幸を見た。


「まぁ、絶対後悔すると思うけど。それでもいいならついてきて」



幸と侑玖は目を開いた。

二人が立っていたのは、真っ暗な夜のどこかだった。

しばらく、暗闇に目が慣れずに何度か瞬きをしている幸を横目に、病院服姿の侑玖は手を叩いた。

そして靴を空中から取り出し、冷静な動きでそれを履く。


「君は……その制服姿が一番イメージしやすいんだね。珍しいな」


耳元のヘッドセットを操作しながら侑玖が言う。

幸は中学校の制服姿だった。

ローファーで砂を踏んで、空を見上げる。


そこで彼女は息を飲んだ。

真っ黒で星一つない空には、巨大な赤い月が一つ浮いていた。

血のように濁った色だ。

それが眼球のように、ボタボタと血液らしき液体を空中に垂れ流している。


二人がいたのは夜の森の中だった。

次の瞬間、赤い月から垂れた血液の飛沫が地面に落ちて飛び散った。

それが火の粉になり、周囲の樹木や草に一気に燃え移り始める。


『侑玖、幸ちゃん、状況を説明できる?』


慌ててヘッドセットのスイッチを入れた幸の耳にも、秋坂の声が聞こえる。

目の前で周りの森が燃え始めたのを見て口ごもった幸を尻目に、侑玖は淡々と答えた。


「ダイブ成功です。幸さんもいます」

『よし。世界の崩壊は見られる?』

「崩壊はまだしてませんね。ただ、明らかに俺達を認識して攻撃してきてる。誰か、この患者にマインドスイープ治療をするって伝えてますね。把握されてる」

『多分警察の皆さんだろうな。どうにかなりそう?』

「面倒ですが、どうにかするしかないと思います」


そこまで言ってから、侑玖は幸の手を掴んだ。

いきなり手を握られて幸がハッとする。


「しっかり掴まってて。絶対に離さないように」

「う……うん」


幸が頷いたのを確認して、侑玖は赤々と炎を上げ、森に広がっていく炎を見回した。

かなり明るくはなったが、呼吸が困難な程に焦げ臭く、熱くなってきた。


火も二人が立っている場所に迫ってきている。

赤い月からはひっきりなしに血液が流れ落ちてきていた。


「……おかしいな」


しかし侑玖は、歯を噛んで、そこで動きを止めてヘッドセットに手をやった。


「秋坂さん、この患者は統合失調症だって言ってましたよね? あと精神のDIDも見られるとか……」

『そうカルテには書いてあるね』

「この患者は正常です。精神が歪んでない。崩壊も見られない。つまり……」

『おいおい……六人の女の子を殺した凶悪犯だぞ。裁判でも精神由来のものだって見解は……』

「演技ですね。この患者はサイコパス的欠落者だ。多分知能指数が物凄く高いタイプの」


侑玖はそう断言して、迫り来る炎から幸を守るように炎に背を向けた。。

そして月と反対方向に走り出す。


夜の森は視界が悪い。

何度もつまづきながら、幸も必死に侑玖の横についた。


『そういうことか……ということは、警察病院と関東赤十字のカルテの内容は一切アテにならないな……』

「多分マインドスイーパーの撃退知識も持ってる。危険です。幸さんを戻した方がいい」

『そうさせてあげたいけど、この患者には麻酔が効きにくい体質みたいなのよ。一度回線を遮断したら、覚醒される恐れがあるわ』

「分かりました。何とかします」


炎の勢いは凄まじかった。

たちまち周囲を燃え盛る火に囲まれ、侑玖と幸は息を切らしながら足を止めた。


皮膚が焦げる。

息ができない。

熱い。


間近で見る炎は、想像を遥かに越える「驚異」だった。

幸の足が震え出す。

侑玖は手を振って、右手の中に湿ったタオルを出現させた。


「これで口をおさえて。早く。煙は吸わないように」


渡されて、必死に口に当てる。

熱すぎて、眩しすぎて目も開けていられなくなってきた。

口を開くことも難しい。


必死に空を見上げた幸は、そこでゾッとして動きを止めた。

天空に輝く赤い月が、ゆっくりとした動きでこちらに近づいてきていたのだ。


(嘘でしょ……?)


背筋に寒気が走った。

それは、幸が経験したことのないものだった。


殺意。


明確に自分達に向けられるそれを、感じてしまったのだ。

漠然とした恐怖を感じる夢はあっても、自分達を何の躊躇もなく、本気で殺しにかかってくる「夢」に入る。

それは、幸にとっては、初めてのことだった。


怖い。


体が震えた。

火は、不思議と全く怖くはなかった。

恐ろしかったのは、この夢の主の憎悪。

一握りの人間性さえ感じさせない、躊躇のない殺意。


「殺す」


という意思。

外敵を駆除するという機械のような意識。

それは中学三年生の少女が受け止めるにはあまりにも鋭く、重く、そして残酷な感情だった。


「さて……君を無傷で連れ帰る約束だ」


侑玖はそう言って足元の小枝を拾い上げた。

それがぐんにゃりと形を変えてショットガンを形作る。

彼はそれを近づいてくる上空の赤い月に向け、何度も引き金を引いた。

銃声に幸は体をすくめた。


「……高度が高すぎる。届かないな……」


侑玖は舌打ちしてそう言った。


「侑玖君、囲まれたよ……!」


そこで幸が、タオルで口元を隠しながら叫んだ。

いつの間にか炎に二人は囲まれていた。

もう息をすれば喉が焼けるレベルだ。

体中が焦げ、髪や服が煙を発し始める。

そして赤い月が上空で静止した。


【死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね】


どこからか男の声が聞こえた。

エコーがかかり、グワングワンと炎に包まれた森の中にそれが響く。


上空の月の下面がパックリと二つに割れた。

そしてサメのような鋭い歯が並んだ異形の「口」を形成する。

そしてそれは赤い涎を垂れ流しながら、ゆっくりと下降を始めた。


【殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す】


また声が反響する。

そこで幸の腰が抜けた。

彼女は地面に崩れ落ちて、震えながら目を見開き、近づいてくる月を見上げた。


ドス黒い。


真っ黒だった。

月の「中」に詰まっているのは、只の「黒」いモノ。


それは虚無。

感情ではない。

心でもない。


そう、迫り来る異形の化け物は、もはや生命体としての概念を持ってはいなかった。

それはもはや、ただの殺意衝動の塊であり。

認識できる理性は何処かに消し飛び、欲望のみで構成されている「狂気」だった。

それを理解してしまい、幸は動けなくなったのだ。


「物事の本質を理解できるっていうのも考えものだね。でも、まともに受けることはないよ」


しかしそこで、幸は侑玖の何でもないかのような声を聞いてハッとした。

彼は迫り来る月を見上げ、腕を振った。

その手に銛を射出する水中銃のような形の、大きな装置が出現する。


それを両手に構え、侑玖は考える間もなく上空に向けて引き金を引いた。

長さ一メートル半程はある銛がものすごい勢いですっ飛んでいき、月の大きく開いた口の中心部に突き刺さる。

次の瞬間、銛に爆薬でも仕掛けられていたのか、それが大爆発を上げた。


「こんなものは、壊れた理性の残滓でしかない」


断末魔のような絶叫が森中に響き渡った。

思わず悲鳴を上げて耳を塞ぐ。

実に数十秒も鳴り響いた絶叫は、不意にかき消えるようになくなった。



目を開けた幸は、周囲に炎がないことに気がついて、服の上から飛び出しそうに鼓動している心臓を押さえた。

二人は、もう森の中にはいなかった。

どこまでも続く、真っ白い砂漠の中心に倒れていた。


慌てて空を見上げる。

そこには、ジリジリと体を焦がす真っ赤な太陽が、確認できるだけでも、一……二……十以上。

まるで電球のように空中に浮かび、熱を発し始めている。


ゆらゆらと辺りの空気が歪み始めた。

熱だ。

体からまた白い煙が上がり始める。

今度は狙撃が届く場所には太陽がなかった。

侑玖は横目で大量の太陽を見上げてから、ヘッドセットに手を当てた。


「秋坂さん、煉獄の中に入ったようです」

『患者が半覚醒状態だ。もうじき麻酔が切れる』


それを聞いて幸が青くなった。


「ま、麻酔が切れたらどうなるんですか……?」

「普通に俺達は夢の中から追い出されるだけだよ」

『覚醒されたら厄介だ。侑玖、お前の見解を端的に教えて』

「この患者の心には何もないですね」


侑玖は淡々とそう言った。


「何も……ない……?」


繰り返した幸を無視して、彼は続けた。


「欠落して、欲望と衝動しか残ってない。他はみんな消えてしまったようです。これはもう『ヒト』じゃない。『リビングデッド』だ」

『成る程……』


秋坂は少し考えると、息をついてから言った。


『分かった。時間もない。中枢を見つけて破壊しなさい。できるね?』

「破壊……? 破壊って……」


幸は熱で歪む砂漠の中、必死に口を開いた。


「この患者を殺せってことですか?」

『そう。そういうことになるね』

「どうして! まだ生きてるのに!」


幸の悲痛な声を、秋坂は静かに払った。


『リビングデッド症候群の欠落者にはもう、人権はないんだよ』

「…………」

『もう「それ」はヒトじゃない。やれ、侑玖』


圧倒的な断言だった。

幸が言葉を発するより早く、侑玖は腕を振った。

そして拳銃を出現させると、足元の砂の地面に向かって何度も引き金を引いた。


連続した銃声が鳴り響く。

何を、と思った幸は硬直した。

銃弾が突き刺さった地面から、まるで人間の皮膚に穴を開けたかのように、血液が弾けて噴出し始めたのだ。


「侑玖君!」


幸の必死な声を無視し、侑玖はまた弾丸を銃にこめると、血まみれになりながら足元に向けて乱射した。

また、断末魔の絶叫が砂漠中に響き渡った。


幸は耳を押さえた。

声が、聞こえたからだった。


嫌だ。

嫌だ、嫌だ、消えてなくなるのは嫌だ。

助けて。

死にたくないよ、お父さん、お母さん。

痛いよ、誰か。

死ぬ。

死ぬ。


「侑玖君やめてえええ!」


幸は耳を押さえながら絶叫した。

侑玖は血まみれになりながら、銃撃をやめなかった。

その顔は圧倒的に無表情で。

その目は、幸を見てはいなかった。


段々と血液が砂に染み込んで広がっていく。

そして真っ赤な沼に変質を始めた。

それに腰までを飲み込まれながら、侑玖はやっと銃撃をやめた。


そして砂漠から血の沼に変わった周囲を見回す。

上空の太陽の群れにヒビが入り、ボロボロと崩れ始めていた。

少し離れた沼の水面に、丸く、黒い一抱え程の球体が浮かんでいた。


侑玖は沼をかき分けてそれに近づいた。

持っていた銃を振ると、それがサバイバルナイフの形に変わる。


「侑玖君……そ、それ……」


侑玖はサバイバルナイフを躊躇なく振り上げた。


「違うよ! それは人間だよ!」


幸は絶叫した。

慌てて沼をかき分けて近付こうとした彼女の目の前で。

侑玖は何も考えることもなく、機械的にサバイバルナイフをその球体に突き立てた。



遠ざかっていく救急車のサイレンを聞きながら、幸は胃の中のものを全て吐き出しても尚こみ上げてくる吐き気と戦っていた。


「大丈夫……? お水、飲める?」


秋坂に水の入ったペットボトルを渡されて頷く。

そしてフタを開けて口に流し込んだ。


部屋の隅では、何事もなかったかのように侑玖がスマホをいじってゲームをしていた。

幸はしばらく息を整えると、侑玖の方を向いた。

そして歯を噛んで口を開く。


「……どうして殺したの?」


問いかけられた侑玖は、スマホから目を離して幸を見た。


「……どうしてって……アレはリビングデッドだ。正確には精神中核を破壊したから、植物状態になったって言った方がいいかな」

「私、止めたじゃない! どうして聞いてくれなかったの!」

「これは仕事だよ? 何で君の言うことを聞かなきゃいけないんだ?」


侑玖に淡々と問い返され、幸は言葉に詰まった。

特に悪気を込めて言ったわけではないらしく、彼はスマホをポケットにしまってから続けた。


「リビングデッド症候群っていうのがあってね。心……理性の大部分を欠落してしまうんだ。あの患者の中に残っていたのは、殺人衝動と本能だけ。法律で、そういう患者は『人間じゃない』っていうことも決められてる。生かしておくだけ危険だから、契約通り中核を破壊しただけだよ」

「それでも……」


幸の脳裏に、あの夢の中で聞いた助けを求める声がまだこだましていた。


「あの『人』は生きてたよ……」

「それは幸さん、君のエゴだ」

「エゴ……?」


呆然と繰り返した彼女に、侑玖は続けた。


「失くなった心はもう戻らない。心の大部分を欠落しているのに、生かしている方が酷だよ。誰かが終わらせないと」

「助けられなかったの……?」

「幸さんは、助けることができたの?」


淡々と問いかけられて、幸は侑玖から目をそらして下を向いた。


「分からない……」

「…………」

「分からないよ……」


そこで秋坂が息をついて立ち上がった。

そして幸を見下ろす。


「今日の案件はこれで終わりだから、家まで送っていくよ。一応車もあるから」

「はい……」


幸は頷いて、リュックサックを強く胸に抱いた。

そして興味を失ったように大あくびをした侑玖を見て、唇を噛む。


「侑玖君は……」

「ん?」

「侑玖君は、それでいいの?」


問いかけられ、侑玖は首をひねった。

そして肩をすくめる。


「さぁ? いいんじゃない?」


彼の抑揚のない言葉は、カラカラと回る換気扇の音に、やがて霧散し、消えた。

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