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第2話 乖離

まただ。

また、見知らぬ場所にいた。


大小様々な西洋人形が立ち並んだ部屋。

蝋燭の灯りで周囲が薄暗く照らされている。

部屋の大きさは四方十メートル前後といったところだろうか。


その中央に幸は立っていた。

いつもの学校の制服姿の彼女は、ため息をついて周りを見回した。


(また人の夢の中……? まともな人だといいけど……)


靴を踏み出すと、ジャリッという音がした。

下を見た幸はゾッとした。

床一面に、砕けたガラスが敷き詰められていたのだ。

靴を履いていなかったら足の裏がズタズタになっていたところだ。


(嫌だ……この人、自殺病に感染してる)


直感的にそう感じた幸の目に、手近な西洋人形が、ふいにガタガタと動き出すのが見えた。

息を呑んで後ずさった彼女の前で、壁に引っかかっている人形や、床に放り出されている人形がそれぞれ動き出し、いびつに首や腕を曲げながら床を踏みしめ始めた。

動き出した人形に囲まれ、どうしようもなく幸は胸の前で手を握って震えていた。


(早く目を覚まさなきゃ……早く……)


目を閉じ、一生懸命覚醒しようと努力する。

カタカタという音が近づいてくる。


「痛ッ!」


小さく叫んで幸は後ずさった。

にじり寄ってきたマネキンのような西洋人形が、彼女の細い足首を掴んでいたのだ。


「や……離して……! 離して!」


嫌悪感に体を震わせながら足を振る。

しかしガッチリと掴んだ手は離れなかった。

かえって力がこもり、ギチギチと足を締め付けてくる。


「カナバ……アガナ……キャラガー!」


意味不明な言葉が耳をついた。

彼女を囲む西洋人形達が手を伸ばし、幸の細い体を所々掴んで力を込めながら、呪詛のような言葉を叫んでいる。


「アギャナ! ハラギャ!」

「サギャナ! アハングア! ラギャー!」

「ウガナ! ウガナガ! アラガナナ!」

「ひ……」


息を呑んで、幸は体中に蟲のようにまとわりついてくる西洋人形達を前に恐怖に引きつった声を上げた。


「お、お父さん……お母さん……」


ブルブルと震えながら壁まで後退し、背中を付ける。

そこで幸は息を止めた。

壁全面に西洋人形の顔がくっついていた。

巨大な目がギョロリと幸の方を向き、ガチガチと歯を鳴らしながら口が開く。


「アガガガガガガガガガガガ!」


耳をつんざく奇声、奇声、奇声。

幸はその狂った夢の中で。

ただ、目をギュッと閉じて喉が破れんばかりに悲鳴を上げた。



鳥の声がした。

カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

ベッドの上で上半身を起こした姿勢で、幸は荒く息をついていた。

ポタ……ポタ……と汗が布団に落ちる。

寝巻きが汗だくだった。


(私……)


まだ体中を人形に掴まれている感覚がある。

念の為足首や腕を見てみるも、痣などはなかった。


(気持ち悪い……)


若干吐き気がした。

目尻を抑えて頭を振る。

そして彼女は、枕元に置いてあった眼鏡をかけてもぞもぞと布団を出た。



顔を洗って歯を磨く。

喉に何かつっかえている感じがしたが、特に引っかかっているものはなさそうだ。

コンタクトレンズをはめて、髪を整える。

スリッパを鳴らしつつ寝間着のまま居間に降りると、車椅子を動かして汀がテーブルの方に来るところだった。


「幸、パジャマくらい着替えてらっしゃい」

「うん……分かってる。おはよ」


ぼんやりと返事をしてダイニングに入る。

フライパンを数個コンロにかけていた壮年の男性……幸の父である裕也が綺麗に卵焼きを裏返した。


「おはよ、お父さん」

「おはよう」


静かな声で返される。

汀は三十代前半程に見えるが、裕也は五十代半ば程に見える。

並べば夫婦とは分からないだろうな、といつも思う。


冷蔵庫から野菜ジュースを取り出してコップに注ぎ、口につける。

一気に飲み込んだ幸を見て、汀はまた声を上げた。


「あなた汗だくじゃない。大丈夫?」

「ちょっと頭が痛いかな……」

「また悪い夢でも見たの?」


汀がそう言うと、裕也がフライパンを持つ手を止めて幸を見た。

眼鏡の奥の瞳が心配そうに娘を見ている。


「幸、無理しなくてもいいんだぞ。学校はもう少し休学していても問題ない」

「大丈夫だよ。ちょっと頭が痛いだけだから……」


流しにコップを置いて、幸は息をついてテーブルに近づいた。

汀が半身不随の為、家事の大部分を裕也がしている。

すでに食卓には美味しそうな朝食が並んでいた。


「じゃ、着替えてくるね」


そう言ってスリッパを鳴らしながら自分の部屋に向かっていった幸を、汀が複雑そうな表情で見ていた。

裕也がフライパンの卵焼きを皿に移し、口を開く。


「……まさか最近になって、君と私の遺伝が発現するとはな……」

「…………」


汀はそれには答えずに、息をついて俯いた。

裕也が卵焼きが乗った皿を持ち、大きな体を揺らしながらテーブルに近づいてきた。

そして並べながら続ける。


「……汀。この前幸が言っていたことなんだけどな。私は、東機関に少し任せてみてもいい気はするんだ」


それを聞いて、汀が弾かれたように顔を上げた。


「あなた……東機関は安楽死専門のいわば『暗部』よ。正規の医師団じゃない。当然危険な脳内にもダイブするし、やっていることは人殺しよ。そんなのに幸を関わらせるなんて……私は反対だわ」

「しかし、その東機関のS級能力者は、幸を昏睡状態から、たった一人で救出したんだろう。二人共無傷で帰還したじゃないか」

「…………」

「残念ながら今の赤十字には、特A級を越える能力者はいない。いや……年々マインドスイーパーは減少してる。S級能力者は貴重だ。それがマインドアサシンだとしても、幸に夢の中での制御法を教えてくれるというなら、ある程度『予防』の意味でも受けた方がいい」

「……私の体調さえ戻れば……」

「汀」


裕也はそう言うと椅子に座って腕を組んだ。

そして汀をきつい目で見る。


「約束したじゃないか。もう、君はダイブができる体ではない」

「夢の中で幸にレクチャーをするくらいならできるわ」

「それも無理だ。君の体のことだ。君が一番良く分かっているだろう?」


落ち着いた声で諭され、汀は下を向いた。

不随でない方の手で服のスカートを掴んでいた。


「それでも……私は反対よ」

「気持ちは分かる。とてもよく。だが……」

「着替えてきたよ」


そこでスリッパを鳴らしながら、制服姿の幸が顔を覗かせた。

そして深刻そうな顔をしている父と母を見る。


「……どしたの?」

「いや、何でもない。朝食にしようか」


裕也が気持ちを切り替えたのか、幸を見て小さく笑いながら言う。


「うん」


幸は頷いて椅子に腰を下ろした。



大欠伸をしながら侑玖は道を歩いていた。

すでに夕方で、帰宅する人々で道は溢れている。


しかし彼一人だけ、とても眠そうだった。

Tシャツにジーンズ姿の侑玖は、ポケットに手を突っ込んで猫背のまま家路に着くところだった。


「侑玖君!」


交差点で信号待ちをしていると、不意に背後から声をかけられた。

人混みの中振り返る。


だいぶ背の小さい女の子が、埋もれるようにして必死にこちらに近づいてくるのが見えた。

関東赤十字病院理事の娘、大河内幸だった。

学校の帰りらしく、制服にリュックサック姿だった。


「ああ……幸ちゃん、だっけ?」

「やっと気づいてくれた! 酷いよ、どんどん先に行っちゃうんだもん!」


追いついてきた幸に咎めるように言われ、侑玖は一つため息をついて、青信号になったので歩き出した。

幸が慌ててその脇につく。


「ね、携帯見てる? 私今日結構ラインしたんだけど……」

「携帯……?」


ぼんやりとそう返して、侑玖は歩きながら尻のポケットからスマホを取り出した。

そしてラインの着信メッセージ数を見て、またポケットに戻す。


「あー! その様子だと見てないでしょ!」


足元で幸に大声を上げられ、侑玖は呆れたように手をひらひらと振った。


「悪い。今日は一日中ダイブしてて尋常じゃないくらい眠いんだ。帰って寝るよ」

「ええ? だって、私にいろいろ教えてくれるって約束したじゃない!」


侑玖は困ったように頭をボリボリと掻いてから、蒼い目を幸に向けた。


「ウチの担当医から聞いたよ。お父さんとお母さんは、君がウチでアルバイトしたり、俺と話したりするのには反対してるそうじゃないか。物事には順序ってもんがあるだろ? まずはお父さんと、お母さんを説得してからじゃないかな?」


路地で足を止めて、少年は幸のことを見下ろした。


「何も、俺達の方から断ってる訳じゃない。やっぱり君みたいな子供を預かるには、相応の責任が生じてくるんだ。分からないかな?」


侑玖にそう言われ、幸はあからさまに不満そうに頬を膨らませた。


「何よ。侑玖君だって私とたいして変わらないじゃない」

「それとこれとは話が別だろ……困ったな」


ため息をついて、侑玖は空を見上げた。

そろそろ夕焼けも落ちて暗くなってきている。

夜道をこの子一人で帰らせるのも憚られた。


「送ってくよ。今日は家に帰りな」

「大丈夫! 今日は塾をサボることにしたから!」


何が大丈夫なのか、幸は元気な様子で親指を立てて見せた。


「夜の九時までに家に帰ればバレないよ」

「……君は俺の話を一切聞いちゃいないな……」


侑玖は困った顔で言葉を続けようとして、口をつぐんだ。

そしてニコニコしている幸の目を見て、不意に顔を近づける。

侑玖の整った顔が近づいてきて、幸は一瞬頬を赤くした。


「……何かあったの?」


問いかけられ、幸は一瞬図星を突かれたのが丸わかりなほど表情を変えた。

しかしすぐに引きつった顔で笑い、手を下ろす。


「な……何もないよ……」


言葉の最後は、弱々しく尻すぼみになって消えた。

侑玖は少し考え込んでいたが、やがて携帯を取り出して通話ボタンを押した。


「侑玖君……?」


不安げに呼びかけられ、少年は諦めたように言った。


「俺の家に連れ込むわけにもいかないから、施設に連れて行くよ。そこで、少し落ち着いて話をしよう」



「へぇ、この前の?」


親しげに呼びかけられ、幸は椅子に座ってリュックサックを抱いた姿勢で、不安げに周りを見回した。

一見普通の診療所に見えた。


侑玖が彼女を連れて戻ったのは、いた場所から電車ですぐの、日暮里にある個人病院だった。

表の看板には秋坂精神外科と書いてある。


中は小綺麗でくつろげる空間になっていて、ソファーなどが待合室には置いてあった。

赤ん坊用のベビースペースもある。


もう診察時間は終了しているらしく、受付にはシャッターが降りていた。

表の看板の電気も消えている。


「ウチ完全予約制でね。今日の分の『仕事』は終わったから、閉めたところだったの」


ざんばらの髪を首の後ろでまとめた女性、秋坂医師にそう言われ、幸は体をちぢこませながら


「はぁ……」


と気の抜けた返事をして俯いた。

どこか落ち着かなかった。

秋坂はそんな幸の様子を見て、待合室に設置されている自販機からファンタのペットボトルを買って差し出した。


「ぶどう味、嫌い?」

「あ……いえ、ありがとうございます」


慌ててお礼を言って受け取る。

秋坂はそこで、疲れた顔でコーヒーを飲みながらソファーに座っていた侑玖を見た。


「おい侑玖。今朝、私が関東赤十字と話をしてからって言ったじゃない?」

「ご、ごめんなさい。私が無理やり侑玖君に言って、連れてきてもらったんです」


幸が割って入る。

秋坂は自分の分のコーヒーも自販機で買うと、缶のプルトップを空けた。


「いーよ、そんな気を使わなくて。こいつ気難しそうに見えるけど、実は何にも考えてないからさ」

「そ……そうなんですか?」

「私は秋坂。ここの病院の院長をしてるわ。あなた、大河内幸さんで良かったわよね?」

「はい。いきなり押しかけてすみません……」


頭を下げた幸に、秋坂も困ったようにポリポリと頭を掻いてから答えた。


「……いや、ウチはいいんだけど。お父さんとお母さんと、話はしたの?」

「……その、まだ許可してもらえてなくて……すみません」

「謝ることはないけどさ。大丈夫なの? 家に連絡する?」

「塾サボってるみたい。何か隠してるっぽいから連れてきた」


そこで侑玖が口を開いた。

幸がファンタのペットボトルを持ちながら、ビクッとして動きを止める。

少年は幸を見て続けた。


「当ててみようか? 多分君は夢遊型の無差別乖離症候群にかかってる」

「何だって?」


秋坂がそれを聞いて苦い顔をする。


「……大河内さん、あなた、前に侑玖に機械を使わなくてもダイブができるって言ったらしいわね?」


「え……あ、はい……そうなんです」


キョトンとしていた幸だったが、秋坂に聞かれて頷いた。

そしてファンタを口につけて続ける。


「私……時たま寝てると、多分他の人の夢の中だと思うんですけど、そういう場所に入り込んでる事があるんです。最近特に多くなって……」


ギチ……と幸が両手で握ったファンタのペットボトルが音を立てる。

秋坂は自分のコーヒー缶をゴミ箱に投げ捨てると、顎に手を当てて考え込んだ。


「ふーん……例えばどういう夢?」


「例えば」という問いを聞いた途端、幸の顔色が一変した。

彼女は思い出したくないことを思い出したように歯を噛むと俯いた。

その額からポタ……と汗が垂れる。


「ええと……」

「…………」

「その……」

「…………」


しばらく返答を待ってみたが、幸はどうも上手く応えられないようだった。

秋坂は頷いて幸の前のソファーに腰を下ろすと、足を組んで彼女の顔を覗き込んだ。


「別に無理に思い出さなくてもいいよ。どうやら本当のことみたいだね」

「……はい」

「それが自分の夢じゃなくて、『他人の夢』だって自覚できるようになったのは、いつから?」

「小学校……六年生あたりだから、今から三年くらい前です」

「三年間も? あなたのお父さんやお母さんは、それについて何も言わなかったの?」


驚いた声で秋坂が言うと、幸は顔を上げて首を振った。


「いえ……私、前からその治療を定期的に受けてるんです」

「治療?」

「はい。でも、どうもうまくいかないみたいで……私、夢の中で他のマインドスイーパーに会ったことありませんし……」

「成る程ね」


秋坂は息をついてソファーに座り直し、侑玖を見た。


「どうする? 侑玖?」


問いかけられ、少年はコーヒー缶をチビチビと口につけながら答えた。


「……今日は勘弁できないでしょうか? 流石に一日で四人はキツい」

「だ、そうだ」


秋坂は立ち上がると、パンパンと白衣のお尻を叩いた。


「明日またおいで。ちゃんと、お父さんとお母さんとお話をしてからね。それから塾はサボっちゃダメ。親のお金で行ってるんでしょ?」

「今日は……ダメなんですか?」


すがるようにそう聞かれ、秋坂は困ったように頭を掻いた。


「ダメも何も、治療は私一人でやるわけじゃないからね。侑玖が言ってることは本当だよ。今日はこいつ、既に三人殺してる」


サラリと言い放たれた言葉に、幸は目を見開いて、思わず侑玖を見た。

見つめられた少年は、少女と目を合わせることなく猫背の姿勢でコーヒー缶を噛んでいた。


「そ、そうですね……無理言っちゃってごめんなさい……」


慌てて立ち上がり、幸は頭を下げた。


「ごめんなさい。帰ります……」

「……侑玖?」


そこで秋坂に咎めるように言われ、侑玖は目にクマが浮いた顔で彼女を見上げた。

そしてため息を付いて立ち上がる。


「はー……分かりました。やればいいんでしょ、やれば」

「施術に成功したら、一日有給やるよ」

「有給って社員の権利じゃありませんでしたっけ?」


呆れたようにそう返し、侑玖は帰ろうとして所在なさげに立ち尽くしている幸の前に移動した。

そして壁の時計を親指で指す。

既に夜の七時を回っていた。


「あまり長くはダイブできないから、三十分くらいしかないけど。あと、君に施術をするから、施術後にお父さんとお母さんには連絡させてもらう。それで良ければ、俺がこれからまたダイブして、病気の原因を探ってあげてもいい」

「本当……?」

「ああ。ただ、今回で完全に治るとは断言できないし、原因が見つかる保証もない。それでいいね?」


幸は引きつったように小さく笑って、そして俯き、小さく頷いた。



「安請け合いしちまったなぁ」


茶化すように秋坂に言われ、侑玖はゲッソリした顔で彼女を見た。

電気がついた施術室のベッドには制服姿の幸が横たわっていた。

既に軽い眠剤が投与されていて、眠りについているようだ。

かなり不安げな様子だったが、侑玖と言葉を交わしてすぐ眠りに落ちたようだった。


「秋坂さん、安請け合いしたのは俺じゃなくてあなたでしょ?」

「やるのはお前だろ? 私はいつだってお前に無理強いしたことはないね」

「してるじゃないですか」

「そうむくれるな。有給はちゃんとくれてやるよ」


侑玖は秋坂から幸の血液検査カルテを受け取ると、めくって確認した。


「別段薬物反応はありませんね……他の値も至って正常、健康そのものだ」

「敢えて言うなら、アドレナリンの分泌量がかなり多いね。遺伝かな?」


秋坂に言われ、カルテをめくって更に確認する。

そして侑玖は壁の時計を見た。


「絶対揉めますって……」

「まぁ、後三十分くらいで『遭難』してるこの娘を見つけ出すのは至難の業だな。それに、眠剤かけちゃったから両親にはちゃんと説明しないとね」

「どうして他人事みたいに言ってるんですか……連絡するのは秋坂さんでしょ?」

「何不満そうな顔してるんだよ、何のためのS級免許? 免許に見合った働きをしなさい!」


バン、と背中を叩かれ、侑玖はよろめきながら頭を掻いた。


「やりますよ。はいやります。有給は欲しいですからね……」



侑玖は目を開いた。

そこは、暖炉に火がつき、パチパチと燃えている小さな民家の中だった。


異常な程音がない。

シーン……と静まり返った家の中は、ランプの光で薄暗く照らされていた。


病院服に裸足の侑玖は、寒さに小さく震えた。

彼はパン、と手を叩いた。

次の瞬間、厚手のコートが彼の手の中に現れた。

もう一度手を叩くと、今度は毛皮で覆われたブーツが現れた。

それらを身に着けていると、ヘッドセットからノイズ音と共に秋坂の声が聞こえた。


『どうだ? 侑玖』

「どこですか? 幸ちゃんの夢の中じゃないみたいだ」

『さっきあの娘の意識をちょっとパラグラフで覗いていたら、自分の頭の中じゃなくて、別の夢座標にいることが分かってね。慌ててあんたをそこに転送したってわけ』

「誰の頭の中だよ……夢遊病はこれだから……」


毒づきながら侑玖は立ち上がった。

そしてトントン、とブーツの感触を確かめてコートのボタンを留める。


『ここからもその夢の主が誰なのかは、まだ確定できない。ただ幸ちゃんは、どうやらマインドスイープのネットワークに無自覚でハッキングしてるらしいことは分かった』

「へぇ……ご近所さんじゃないんですね」

『多分な。そこは「自殺病」の患者の脳内……現在マインドスイープシステムに接続されてる病人の頭の中だ』


侑玖はブーツで木造りの床を踏みしめてしっかりと立ち上がった。

そして周りを見回す。

窓の外は薄暗く、しんしんと雪が降り続けている世界だった。


「残業代、ちゃんと出してもらいますからね」


苦々しげにそう言って、侑玖は窓に近づいた。

なにか黒いものが複数、空を飛んでいるのが見えたからだった。


最初は風船かと思ったが、違った。

風船にしては異様に大きい。

人間大の黒い塊が、確認できるだけで三つ、鳥のように空を飛んでいる。


(何だあれ……?)


それを確認しようとして、侑玖は空を注視し、そして窓から体を離して壁に背中を付けた。


目が合った。

そう感じたからだった。


飛んでいたのは、鳥だった。

いや、正確には鳥のような物体……。

猛禽類の頭のようなものがついていて、その両脇に小さな羽根がある。

体はでっぷりと、ゴムのような丸い球体だ。


どういう原理で飛んでいるのか、それがぐるぐると家の周りを周回していたのだ。

スーッ……と黒い影が一つ家の前に降りるのが、玄関のすりガラス越しに見えた。

丸い奇妙な物体は、その場でざわざわと振動して形を変え始めた。

たちまち丸いゴム体から両手両足が生え、すりガラス越しにも分かるほど、鳥の巨大な目玉が真っ赤に発光を始める。


(マズいな……)


「危険」を察知した侑玖が、ヘッドセットのスイッチをオフにする。

そして彼は息を潜めながら右手を振った。


そこにリボルバー式の拳銃が現れた。

それを慣れた手付きで玄関に向け、腰を落とす。

ガァン! と扉を、物凄い力で叩く音がした。

外の鳥人間が叩いているようだ。

ガァン! ガァン! ガァン!

叩く勢いは徐々に苛烈さを増していき、たちまちのうちに玄関のドアを接続している蝶番が軋みを上げ始める。


数分もせずにドアが蹴破られた。

重低音がして、木製の割れたドアが部屋の中に転がる。

猛禽類の巨大な鳥の頭が、ヌゥ……と部屋の中に入ってきた。

爛々とその両目が赤く光っている。


「クケラ……クケラ……クケラ……」


意味不明なことを言っている。

侑玖は「それ」と目が合う前に、鳥人間の顔面に向けてリボルバー銃の銃弾を六発、連続して一気に発射した。


「グギャラァ!」


汚らしい不気味な悲鳴を上げ、両目を銃弾で潰された鳥人間がよろめき……。

そして、頭部を滅茶苦茶に破壊され、血液と脳漿、よく分からない液体を撒き散らしながらどうと倒れる。


痙攣しているそれを確認し、侑玖は


「フー……」


と息をついた。

そしてヘッドセットに手をかけながら、壊されて雪がなだれ込んできている玄関から外を見る。


空に複数の鳥風船が飛行しているのが見えた。

また部屋の中に戻り、窓に近づかないようにしてから、侑玖はヘッドセットのスイッチを入れた。


「秋坂さん。スカイフィッシュだ。この患者はスカイフィッシュ症候群に感染してる」


彼の通信を聞いて、向こうの秋坂が息を呑む。


『え……? ウソでしょ?』

「冗談なんて言いませんよ。一匹殺しましたが、多分これは分裂体です。まだ、この患者の情報は割り出せないんですか?」

『どうも外国の患者みたいなんだ。生命維持装置に接続されてるままなのかもしれない。国外の患者の場合、すぐに情報開示を求めるのは無理だな……』

「場合によってはこの患者はステらせますけど(殺しますけど)いいですね?」


左腕を振って銃弾を作り出し、それを拳銃に込めながら侑玖が言う。

秋坂は舌打ちをしてから言った。


『重度は?』

「スカイフィッシュ症候群に感染してる時点で、多分5か6。分裂体汚染ですから、もう助からないと思います」

『最優先なのは幸ちゃんを無事に連れ帰ることだ。それは大丈夫そうなの?』

「分かりません。外にいるのが、あの子が身を守れるタイプのスカイフィッシュだとは思えない。かなり危険なことは確かだ」

『どうするの、侑玖?』

「探しに出ます」


そう言って侑玖は、コートのフードを目深に被った。

そして拳銃を下に構えながら、雪の中に足を踏み出す。


しんしんと音もなく降り続く雪の中を、彼は走り出した。

見た目よりは積もっていないようだ。


空を飛ぶ鳥風船達は、目を合わせなければおそらく襲ってはこない。

しかしそれを、幸が知っているとは思えない。

侑玖の頬を冷や汗が流れた。


雪原はどこまでも続いていた。

雪は穏やかに降っていたが、少し進むとどこから来たのか分からなくなる程の大雪に変わってきた。

侑玖は左手を振った。

そこには小さなコンパスが握られていた。


『幸ちゃんを探すって……夢の中でそう簡単に見つけられる?』

「大丈夫です。この前あの子に、夢の中で接触した時に俺の痕跡をつけてあります」


侑玖は秋坂にそう答えてコンパスを覗いた。

しばらく針がくるくると回っていたが、やがてピタリと一方向を指して止まる。


『いつの間に……お前、他人の精神に何かをインプラントするのは違法だぞ? 変態だな』

「人聞きの悪いこと言わないでください。絶対面倒なことになると思ったから、予防線を張っただけですよ」


言い返して、侑玖は前も見えない大雪の中、コンパスの針を頼りに足を踏み出した。


「そのおかげで見つけられるんだから、御の字でしょ?」


進むに連れて雪が深くなってくる。

すぐに足首までを雪が覆い、ついには掻き分けないと進めなくなってきた。


そこで侑玖は足を止めた。

少し離れたところに、うつ伏せの姿勢で倒れている影を発見したのだった。


「幸さん!」


慌てて声を上げてから、周りを見回す。

雪ではっきりとは見えないが、今の所周りを鳥風船は飛んでいないようだ。


急いで雪をかき分けて近づくと、制服姿の幸が青い顔で気絶していた。

コンパスと拳銃をポケットに入れ、かじかんだ手で彼女を抱き上げる。

かなり冷えているようだ。


「幸さん、俺だ。侑玖だ。聞こえるか?」


問いかけながら右手を振る。

彼が来ているのと同じようなコートやブーツなどが一式現れて雪の上に落ちる。

そこで幸が小さくうめいて、震えながら目を開けた。


「た……侑玖君……?」

「細かい説明は後だ。早く防寒着を着て……」

「そっちを見ちゃダメ! 一匹いるよ!」


幸に大声を上げられ、侑玖はハッとした。

大吹雪で前が見えない。

どういうことだ、と問いかけようとしたが、侑玖は一瞬の判断でポケットから拳銃を取り出した。

そして幸を突き飛ばしてその場を転がる。


今まで彼の頭があった場所を、猛禽類の巨大なクチバシがガチン、と噛んだ。

考える間もなく、その赤い眼球に向けて拳銃を発射する。


数発は命中したが、寒さでかじかんだ手で照準が若干狂った。

背後から襲いかかってきていた鳥人間が、右目から噴水のように赤い血液を噴出しながら、金切り声の絶叫を上げる。


『どうした、侑玖! 幸ちゃんを見つけたのか!』


吹雪でノイズ混じりにしか聞こえないヘッドセットの向こうで秋坂が怒鳴っている。

鳥人間は、雪の上にへたりこんで震えている幸に頭を奇妙に揺らしながらにじり寄ろうとしていた。


「チッ……!」


侑玖は舌打ちをして、拳銃を振った。

それが長大なサバイバルナイフに変質し、彼は雪を蹴って鳥人間に躍りかかると、ためらいもなくその脳天に刃を叩き込んだ。

ものすごい勢いで血液が周りに飛び散る。


「ガッ!」


目を見開いて鳥人間がどうと倒れる。

顔面に浴びた血を手で拭って、侑玖は息をついた。

そしてサバイバルナイフを雪の上に捨てる。


「ば……バケモノを……倒しちゃった……」


幸は目を丸くして侑玖を見ていた。


「幸さんを保護しました。でもスカイフィッシュがそこら中にいるみたいだ。回線は遮断できますか?」


息一つ乱さず、侑玖は顔についた鳥人間の血を手で拭ってからコートのポケットに手を入れた。

そしてリボルバー式の拳銃を取り出し、撃鉄を起こす。


『ダメだ。お前達の夢座標が特定できない。もう少し時間が必要だ』


秋坂がそう言うと、侑玖は苦い顔をしてしゃがみ、幸にコートとブーツを押し付けた。


「早く。ここを離れよう。どこか外国の、自殺病患者の脳内らしい」

「う、うん。知ってる」


幸はもぞもぞとコートを羽織りながら、震える手で侑玖の手を握った。


「死ぬかと思った……」

「知ってる……?」


侑玖は怪訝な顔で彼女を見た。


「知ってるってどういうこと? 君はこの人の夢の中に入るのは初めてのことだろう?」


問いかけられた幸は、反対に目を白黒とさせながら、倒れている鳥人間の死骸を避けるようにしてブーツに履き替え、侑玖の腕を掴んで歯を鳴らした。


「この人は、イギリスの人で……歳は八十歳くらいかな。生命維持装置に繋がれてて、自殺病のウイルスに感染してる……家族は誰もいなくて、奥さんもだいぶ早くに亡くしてる。孤独な人……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


侑玖は青くなって幸に向き直った。

そして彼女の肩を掴む。


「この患者の意識をクラッキングしたのか? それは犯罪だぞ! どうやったんだ? まさか俺を騙して……」

「だ、騙してないよ……?」


おどついた顔で幸は侑玖を見上げた。


「私、夢の主のことが分かるの。前からずっとそうなんだけど……侑玖君は分からないの? どうして?」


どうして? と問いかけられ、侑玖は吹雪の中立ち尽くした。

そして少し呼吸を整えて拳銃を握りしめながら回りに視線を投げる。


「普通は分からない。俺は国家認定のS級マインドスイーパーだけど、それでも患者の中にダイブしただけでその人の個人情報を読み取る(スニークする)なんて芸当は無理だ」

「え……?」

「君は……」


侑玖は何かを言いかけたが思いとどまり口を閉ざした。

そしてヘッドセットに手を当てて言う。


「……秋坂さん、聞いてましたか? イギリス人、八十歳程度。身よりもなくて生命維持装置に繋がっている病人です」

『聞こえてたよ。今大急ぎで特定してる』


秋坂が何かを操作している音がヘッドセットの向こうから響いている。

侑玖は段々と猛吹雪になってきた中、幸を抱きしめるように自分の方に引き寄せた。


コートを羽織っているとはいえ、彼女は制服のスカート姿だ。

完全に凍えている。


「俺から離れないで。ここは夢の表層意識、いわゆる『外層』って呼ばれてる場所だ。俺がここから出るためには、秋坂さんが俺達の居場所を特定してから、回線の切断処理をしなくちゃいけない。でも、君は正規のマインドスイープシステムの回線を通ってダイブしている訳ではないらしい」

「どういうこと……?」


震えながら聞いた幸に、侑玖は淡々と続けた。


「君は、他人の夢の中で『遭難』している状態なんだ。だから、この夢を終わらせないと、君を無事に現実世界に連れ戻すことはできない」

「夢を……終わらせる……?」


幸はハッとして言った。


「そう、いつもこういう夢って途中で終わってた。ブツ切りになって目が覚めるの」

「それは夢の主が目覚めたせいだ。夢が終わりを告げたから、君は強制的に現実に排出されてたに過ぎない」

「……それって……」

「ああ。この患者は生命維持装置に繋がれてると言ったな? なら、この患者を治療して目覚めさせるか、殺すかしないと君はここから出れない可能性もある」


侑玖が静かに言ったことを聞いて、幸は青くなった。

そして彼のコートにしがみついて声を上げる。


「ど……どうしよう……」

「この患者を『治療』する。秋坂さん、煉獄に入ります」


侑玖がそう言うと、ヘッドセットの奥から秋坂の声が聞こえた。


『そうするしかなさそうだね。幸ちゃんは無傷で連れて帰るんだ。そうしたらボーナスやるよ』

「確約はできませんよ」


侑玖はそう言うと、足元に拳銃を向けた。


「どうするの?」


幸に不安げに聞かれ、侑玖は呼吸を整えてから言った。


「この患者の精神は安定してる。ただ周りにスカイフィッシュ……君が言う『バケモノ』がいるだけだ。アレらは、ウイルスが創り出した負のイメージだ。今までも見たことはあるの?」

「うん……目を見ちゃいけないって、前にお母さんから聞いてたから、しっかりと見たことはなかったけど……」

「スカイフィッシュは夢によって様々に形を変える。今回はたまたまああいう形をとっていただけだ」


そこで幸が小さい悲鳴を上げた。

いつの間にか二人は、黒い鳥人間達に囲まれていた。


数十体もいるだろうか。

全部が目を爛々と赤く輝かせて、意味不明な言葉を呟きながら幸と侑玖を睨んでいる。

侑玖は表情を変えずに、腰まで雪に埋もれながら言った。


「大丈夫。安定している精神に揺らぎを与えて、もっと深い所まで入る道を作ればいいだけ」


彼はそう言って、何の予備動作もなく一気に六発、拳銃を足元に向けて発射した。

幸が耳を抑えて声を上げる。


足元の雪に吸い込まれた銃弾が当たった場所から、ドバァッ! と血液が噴出した。

その「赤」はたちまちのうちに白い雪原に広がっていくと、雪を「海」に変えてぬらぬらと蠢き始めた。


幸と侑玖、そして鳥人間達が血液の海の中に沈んでいく。

侑玖はもがいている幸の手を掴むと抱きしめ、ためらいもなく赤い海の中に潜り込んだ。

そこで二人の意識はブラックアウトした。



幸は目を開けた。

そこは、一面に広がるひまわりの花畑だった。

空は青い。

透き通るほどの青さだ。


「ゲホッ! ゲホッ……!」


飲み込んでしまった臭い血液の塊を吐き出してえづく。

その隣で、侑玖は血まみれで重くなっているコートを脱ぎ捨てた。


「大丈夫?」


手を差し出されて、頷いてそれを握る。

立ち上がってコートを脱いだ幸を見て、侑玖は地平線の向こうまで続くひまわりの畑を見回した。


「綺麗……」


鳥人間はいないようだ。

幸はそれを見回して、不意にツゥ……と両目から涙を流した。


「幸さん……?」


侑玖に問いかけられ、幸は熱に浮ついたかのような口調で、静かに言った。


「この人……『彼』が十八歳の時。ここで奥さんと出会ったんだね……」


幸の視線の先に、ひまわり畑の真ん中にマットを引いてバスケットの中の食べ物を口にしている、若い男女がいた。

金色の髪をした男女。

外国人だ。


「煉獄に入れました」


侑玖はヘッドセットの向こうにそう報告してから、幸に向き直った。


「君は、夢の本質を見ることができる目を持っているんだね」

「本質……?」

「俺には、それは見えない」


侑玖はそう言ってひまわり畑を掻き分け、幸の視線が向かっている場所に足を進めた。

慌ててそれを追いかけ、幸は英語で談笑している若い男女の前で足を止めた。


「見えないって……ここに……」

「…………」


侑玖は口を閉ざして、目の前でガスマスクを顔につけ、か細く胸を上下させながら目を閉じている老人を見た。

男性だ。

病院服を着ていて、ガリガリに痩せこけ、骨と皮ばかりになっている。


幸には、別の光景が見えているらしかった。


「秋坂さん、中枢を発見しました」


侑玖がヘッドセットの向こうに向けてそう言うと、秋坂の声が返ってきた。


『患者の特定ができた。向こうの医師会と連絡もついた。ジョナサン・ヘンデル。八十六歳。脳梗塞を起こして以来、七年間植物状態の患者だ』

「成る程」


侑玖はそう言って、腕を振った。

彼が持っていた拳銃が形を変えてサバイバルナイフに変質する。

幸は彼の手のナイフと、自分達に全く気づかない風に談笑している二人を見て青くなった。


「た……侑玖君、何をするつもり……?」

「向こうの医師会の決定は?」


幸を無視して淡々と言った侑玖に、秋坂は答えた。


『ステらせていいそうだ』

「分かりました。施術を開始します」


侑玖はそう言って、ガスマスクの老人の脇にしゃがみこんだ。

幸がもう一度震える声を上げる。


「侑玖君、もしかして……」

「これからこの患者を殺す」


侑玖は無表情で、淡々とそう言った。

幸が胸を抑えてよろめき、声を絞り出す。


「で……でも……」

「…………」

「でも、こんなに幸せそうに……」

「それは君が見ている、この人の心の中の真実の『幻影』だよ。俺には、しなびた老人しか見えない」

「嘘……」

「嘘じゃない。秋坂さんがこの患者の情報を特定した。治療は無理だ。ここで安楽死させる。そうすれば君は、ここから出ることが出来る」

「嘘だよ!」


幸は必死の形相で侑玖に駆け寄った。

そして彼の肩を掴んで自分の方を向かせる。


「侑玖君、お医者さんなんでしょ? この人を助けてくれないの? この人を治してくれないの? どうして私を助けてくれたみたいに、助けようとしないの!」

「…………」

「この人まだ生きてるよ……? どうしてそんな簡単に……」

「…………」

「簡単に安楽死なんて言うの……?」


大粒の涙を目に浮かべて自分を見上げる幸から視線を離して、侑玖は言った。


「安楽死は簡単だからな。こうすればいいだけだ」


迷いも躊躇もなかった。

侑玖は幸が止める間もなく、声を上げる間もなく、ガスマスクの老人の眉間にサバイバルナイフを叩き込んだ。


幸の目には、談笑していた男性の首元に、侑玖の振り上げたナイフが振り下ろされたのが見えた。

血しぶきが噴水のように吹き上がる。

ガスマスクのしなびた老人は、だんだんしわくちゃのゴミのようになり消えていった。


「あ……ああ……」


幸は掻き消えた男女の幻影と、目の前に転がる血みどろの痕跡を見て震え始めた。

そして両手で顔を覆い、大声をあげようとして……。



「…………」


幸は緩慢に目を開けた。

頭がガンガンして痛い。

頭痛を振り飛ばすように頭を振ると、大粒の汗が額から垂れた。


「お、目が覚めたね。おはよう」


秋坂がそう言って近づいてきて、幸の目にライトを当て、眼球の状態を確認してから脈拍を測る。


「ちょっと脈が早いかな。夢の中で侑玖にショッキングなことでもされた?」


温かいココアの缶を手渡され、幸は震える手でそれを受け取った。

そしてベッドに座り、背中を丸める。


「…………」


そこで侑玖が目を開けた。

そして頭から機器を外し、大きくあくびをする。


「重症ですね」


ものすごく疲れた様子で、侑玖は起き上がってから幸を見た。


「今回みたいに、抜け出しようがない夢の中で遭難したら、起きるのにも一苦労すると思います。ある程度コントロールできるように訓練しないと……」

「た、侑玖君……?」


幸は侑玖の方を見ずに、ココアの缶を握りしめながら言った。


「どうして……殺したの……?」


問いかけられた侑玖は、何がおかしいのか分からない、と言った顔で答えた。


「もう助からなかったからだよ。何かおかしい?」

「おかしいよ……あの人、まだ生きてたんだよ……?」


幸に言われ、侑玖は口をつぐんだ。

そして困ったように頭をボリボリと掻く。

そこで秋坂が息をついて口を挟んだ。


「まぁ、今日は帰りなさい。あなたのお父さんに連絡して、迎えに来てもらってるから」

「お父さんに……?」

「うん、ほら。来たみたい」


病院の入り口にタクシーが停まり、中から裕也が顔を出した。

そして小走りで中に入ってくる。


「幸!」


慌てた様子で駆け込んできた祐也は、ホッとした顔を上げた幸の脇にしゃがんだ。

そしてココアの缶ごと手を握る。


「良かった……」

「ごめんなさい、お父さん……私……」

「事情は秋坂先生から聞いてる。しかし無茶を……」


祐也は立ち上がると、疲れた顔で秋坂が差し出したコーヒーを飲んでいる侑玖を見た。


「……君が、マインドアサシンの子だね?」


問いかけられ、侑玖は顔を上げて頷いた。


「はい……今回はご迷惑を……」

「お願いする。娘に、マインドスイープのやり方を教えてやってくれ」


祐也が侑玖に向けて頭を下げる。

幸が驚いた顔で振り返って声を上げた。


「お父さん……!」

「かなり危険な状態だと聞いた。以前、同じような症例を見たことがある。頼めるだろうか……?」


幸を無視し、祐也は侑玖と秋坂を見た。

秋坂は肩をすくめ、侑玖のことを小突いた。


「だ、そうだ」


侑玖は深く溜息をついて、ゲッソリしたクマの浮いた目で秋坂を見た。


「……とりあえず、寝かせてもらえませんか……?」


少年の声はカラカラと回る換気扇の音に紛れて、そして消えた。

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