第1話 眠り姫
よく考えることがあった。
死んだら一体、その人はどうなってしまうのだろうか……。
消えるのだろうか。
残るのだろうか。
それとも、記憶の飛沫として誰かの中にただ、遺るだけなのだろうか。
死の先に、まだ続きがあるのだとしたら。
そこに向かうことは罪ではないのではないのではないだろうか。
そこに導くことは、間違ってはいないのではないだろうか。
侑玖は、目を開いた。
「異常変質心理壁内に侵入しました」
耳元のヘッドセットに向けて言葉を発する。
ヘッドセットからノイズ混じりの女性の声がした。
『周囲の状況は?』
「心理壁の崩壊が見られます。虚数空間が見えてる。残り三十分あるかないかですね」
『それだけあれば十分よ。中枢を目指して頂戴』
「了解」
ヘッドセットのスイッチを切り、侑玖は周りを見回した。
十四、五歳ほどの少年だった。
青白い病院服の上下を着ている。
外国人とのハーフなのか、薄灰色の髪の毛と、空のように蒼い瞳をしていた。
痩せぎすの体で、裸足を踏み出す。
ジャリッ、と音がして足元の砂がきしんだ。
彼は、無限回廊のようにどこまでも続く細い道の真ん中に立っていた。
前も、後ろも数十……数百と赤い鳥居が連ら重なる、白い砂が敷き詰められた道だ。
空気が淀んでいる。
何かの腐臭が鼻をついた。
周囲には枯れた木が、おびただしい数立っていた。
地平線の向こうまでそれが続いている。
そして、木の枝には全裸の人間が、モズの早贄のように数百数千と突き刺されていた。
腐臭はそこから出ているようだ。
近くで眼球と舌を半ば飛び出させながら絶命している男性を一瞥し、侑玖は白い砂の道で足を踏み出した。
空は青い。
突き抜けるほどの青さだ。
しかし、所々が「欠けて」いた。
ガラスが割れているかのようにヒビが入り、欠け落ちている部分もある。
そこだけ銀色の流動体が、奥にうごめいているのが見えた。
暫く進むと、神社の社が見えた。
小さな社だった。
「中枢を発見しました」
ヘッドセットに手を当てて音声を送り、侑玖はそれに近づいた。
無造作に手を伸ばし、社の扉を開ける。
そこには赤ん坊が丸くなって眠っていた。
薄汚い毛布に包まれている。
スゥスゥと寝息を立てている赤ん坊を見て、侑玖は無表情のまま口を開いた。
「精神中核を捕捉しました」
『施術は可能そう?』
問いかけられ、彼は表情を変えないまま腕を振った。
一瞬後、侑玖は右手に刃渡り三十センチはあるかと言うほどの長大なサバイバルナイフを持っていた。
「していいんですか?」
逆に問いかけると、通信の奥の声は一瞬言葉を止めてから、静かに言った。
『時間がないわ。施術の許可をします』
「了解」
短く応え。
侑玖は赤ん坊を左手で掴み上げた。
泣き声も上げずに目を閉じて眠っている。
どこかで、空が砕ける音がした。
バラバラとガラスのようになった青空が降り注いでいる。
侑玖はそれを見上げ……。
そして、持っていたサバイバルナイフをためらいもなく、赤ん坊の眉間に叩き込んだ。
◇
「大河内幸?」
そう言って、Tシャツにジーンズ姿の少年……山中侑玖は手に持っていた資料に目を落とした。
やつれたような顔をしているが、どこか眼光が鋭く、近寄りがたい雰囲気を発している少年だった。
彼が持っている資料には、黒髪の少女の写真と、彼女の経歴が書いてあった。
「関東中央赤十字の案件でしょう?」
病院の診察室の一角だった。
コーヒーポットから中身をカップに移しながら、ざんばらの赤茶けた髪の毛を無造作に首の後でまとめた女性……秋坂美樹が、医師服を片手で直しながら口を開いた。
「さぁ? こっちの機関に回してきたってことは、あっちで手に負えなくなったってことじゃないの?」
「東京第一学園の小等部から中等部まで通っていて、現在休学中。自殺病患者じゃないみたいだけど」
「今回はその子を『起こして』ほしいとのことだ。眠り姫。好きでしょ君、そういうの?」
「そういう言い方はハラスメントに当たりますよ」
言い返してから、侑玖は写真を見つめた。
整った顔の少女だった。
「でもウチはそういうの専門じゃないでしょ?」
「すでに関東中央のマインドスイーパーが五名ダイブして失敗してる。攻撃性が強すぎるのと……」
ズズ……とコーヒーをすすって一息ついてから、秋坂は侑玖に向き直った。
「その子は変異亜種になりかけているそうだ。通常の方法では太刀打ちできない」
「へぇ……」
どうでも良さそうに返事をしてから、侑玖は資料をめくった。
「二ヶ月前から原因不明の昏睡状態……か。まさに眠り姫ですね」
「その子の母親は、関東赤十字病院の理事、大河内汀女史。院内で処理したかったみたいだけど、どうも手が回らなくなってしまったようね」
「別に、俺はいつでもいいですよ。ダイブするのは俺一人?」
「じゃなきゃお前に依頼はしないだろう?」
淡々と言われ、侑玖は無表情のまま資料をテーブルに放った。
「確かに」
「午後から関東赤十字に行く。そのままダイブができるようなら、して欲しいそうだ」
「一つ確認したいんですけど」
秋坂にそう言って、侑玖は感情の読めない顔で彼女を見た。
「殺しちゃダメなんですよね?」
「危険地帯へのダイブだから、そんなことより自分の身を心配したほうがいいわよ」
「まぁ、それはそうか……」
椅子から立ち上がり、侑玖はパンパンとジーンズのお尻を叩いた。
「じゃ、俺メシ食ってきますんで。ああ、それと……」
「何?」
「さっきの患者、ちゃんと死にました?」
何でもないかのように問いかけられ、秋坂は椅子に腰を掛けてコーヒーをまた飲んでから言った。
「ああ。無事に息を引き取ったよ。さっき」
「それならいいんです」
侑玖はポケットに手を突っ込んで、診察室を出ていった。
秋坂が、彼が放った資料を手にとって眺める。
換気扇がカラカラと無機質な音を立てていた。
◇
秋坂と侑玖が関東赤十字病院に着いたのは、午後一時を回ってのことだった。
関係者用の駐車場に車を停め、二人が裏口から中に入る。
秋坂は医師服にネームプレートを首から下げていたが、侑玖はそのままTシャツにジーンズの軽装だった。
守衛に事情を話すと、会議室に通される。
すでにそこには数名の医師達が待機していた。
彼らはやる気がなさそうな目をした侑玖を見た瞬間に体を固くした。
「秋坂です。こちらは当院が保有しているマインドスイーパーの、山中侑玖です」
秋坂が軽く頭を下げて侑玖を紹介する。
少年はぎこちなく頭を下げ、興味がなさそうに部屋を見回した。
ホワイトボードの脇に、車椅子に乗った綺麗な女性がいた。
長い白髪を首の脇で三つ編みにしている。
三十代前半ほどだろうか。
彼女は真っ直ぐに侑玖を見ていた。
「関東赤十字病院の理事を務めています、大河内汀です。どうぞ、お座りください」
白髪の女性は静かな調子でそう言った。
か細い声だった。
具合が悪いのか、小さく咳をしてから指先で車椅子の操作をして向き直る。
どこかが不随で体が動かないようだ。
言われた通りに秋坂が腰を下ろし、侑玖はしばらく迷っていたが、彼女の脇の椅子に座った。
それを確認して、汀と名乗った女性は続けた。
「急なお呼び立てに応じてくださり、感謝します。秋坂先生」
「大河内理事もご健在そうで何よりです」
「ふふ、そう見えるなら良かったです」
小さく笑って、彼女は侑玖のことをもう一度見た。
「あなたが、山中侑玖君ね」
気さくに呼びかけられ、侑玖は受付の女性が目の前に麦茶を置いてくれているのを目で追いながら言った。
「あ、はい。そうです」
「今回あなた方、東機関に協力を要請したのは私です。危険地帯のダイブになりますが、受けていただけると嬉しいわ」
「いいですよ。俺でよければ」
即答だった。
何でもないことのようにそう言った侑玖の反応に、周囲の医師達がざわつく。
侑玖は周りを全く気にしていない様子で麦茶に口をつけ、続けた。
「娘さんですか?」
問いかけられ、汀は頷いて軽く隣に立っていた女性に指示をした。
彼女が医師達と秋坂、そして侑玖に資料を配り始める。
「今回の患者は私の娘です。名前は大河内幸……先日十五歳になりました」
「その……自殺病じゃないんですよね?」
侑玖に質問され、汀は頷いて続けた。
「ええ。二ヶ月程前から、原因不明の昏睡状態に陥っていて、心理防壁を心の中に展開しているわ。関東赤十字が現在保有しているA級スイーパーでは、それをどうしても破ることができないの」
「だから私達に回ってきたと……」
秋坂がそう言って息をつく。
「確かに侑玖は、能力だけを見ればS級に匹敵します。しかし……」
「あなた方のことは知っています。それを見越しての依頼なのです」
汀は彼女の言葉を打ち消すようにして続けた。
「娘の心理壁に数日前から異常が発生しています。侑玖君、娘を救って欲しいの」
また汀に真っ直ぐ目を見られ、侑玖は戸惑ったように視線をそらした。
「できることはしますけど……一つだけいいですか?」
「何かしら?」
侑玖に問いかけられ、汀が聞き返す。
彼は顔を上げてから言った。
「俺は『人殺し』が専門なんで。助けることの『確約』はできませんよ?」
さらりと言われた言葉だった。
周囲の医師達に緊張が走る。
汀は少し考えてから、静かに答えた。
「大丈夫。あなたならできるわ」
「はぁ」
気の抜けたような返事をした侑玖に、彼女は続けた。
「私の娘の夢の中に入って、あの子を起こして頂戴。あなたに、全てを任せます」
◇
「先生……本当によろしいんですか?」
病院の廊下で車椅子を押してもらいながら、看護師にそう聞かれて汀は口を開いた。
「何が?」
「その……東機関は正確には医療機関ではありません。それにあの少年は……」
「分かっています。東機関が、人を安楽死させる医療機関だということも。あの少年が、その専門家であることも」
「それならどうして……? 私達でまた幸ちゃんの中にダイブして……」
看護師の言葉を首を振って止め、汀は答えた。
「これ以上、犠牲を出すわけにはいきません」
「しかし……幸ちゃんがもし東機関に殺されてしまったら……」
「大丈夫。あの、山中君という子は信用できるわ。同じマインドスイーパーの勘……というのかしら。危険な子じゃない」
「……先生の体調が万全で、私達がうまくサポートできてさえいれば……」
悔しそうにそう言った看護師に、汀は小さく息をついてから言った。
「そうね……でも、過ぎたことを言っても仕方ないわ。幸が変異亜種に完全に変わってしまう前に、こっちに呼び戻さないといけない」
「…………」
「そのためには私は、東機関でも利用するわ」
◇
侑玖は無表情で、ベッドに寝かされている少女を見下ろした。
タレントのように整った顔と、体つきの女の子だった。
自分と同じくらいの年齢。
(厄介だな……)
小さく心の中でそう呟いて、息をつく。
「侑玖、準備はできたの?」
秋坂にそう聞かれ、少年は彼女に向き直って言った。
「いつでもいいですよ」
「ダイブの時間は三十分に設定する。その間に、この子の心の中に入って、昏睡状態の原因を見つけて除去するの。できるね?」
「さぁ?」
投げやりに答えて、侑玖は少女……幸の隣のベッドに横たわって、ヘルメット型の装置を頭に被った。
「できるだけやってはみますけどね」
◇
侑玖は目を開けた。
そこは、古い廃校舎のような学校の校庭だった。
空は真っ暗で、星一つない。
廃校舎には、所々明かりがついていてかろうじて周りが見えるような状態だ。
かなり大きな建物だ。
振り返ってみると、フェンスで囲まれた校庭の周りは海になっていた。
波も立たずに、ぬらぬらと水が動いているのが、空にひとつだけ浮いている、おぼろげな満月の明かりでやっと見える程度だった。
侑玖は、今は病院服の上下を着ていた。
裸足の足に校庭の砂が絡みつく。
耳元のヘッドセットに手をやり、彼は口を開いた。
「ダイブ成功。見たところ、変質区域のようです」
『気をつけて進みなさい』
「了解」
『何が見える?』
問いかけられ、侑玖は少し考えてから答えた。
「学校ですね。古い廃校舎。多分あの中に何かがあるんだと思います」
不気味な様相を呈している廃校舎に向けて足を踏み出す。
あたりには奇妙なほど音がなかった。
シーン……と静まり返る中、侑玖は校舎の入り口に足を踏み入れた。
下駄箱が並んでいて、多数の靴が入っているのが見える。
「訂正、異常変質区域みたいです。かなり危険だ」
絡みつくような異様な空気を肌で感じ、侑玖は声を低くして言った。
そして腕を振る。
彼の右手に長大なサバイバルナイフが出現した。
それを構えながら前に進む。
校舎の中に入った途端、キーンコーンカーンコーン……とチャイムが鳴った。
『皆さん、校舎に部外者が足を踏み入れました。協力して殺しましょう。繰り返します。校舎に部外者が足を踏み入れました。生徒の皆さんは、直ちに協力して部外者を殺してください』
女の子の無機質な声が、壁のスピーカーから流れ出す。
侑玖は考える間もなく走り出すと、手近な階段を駆け登った。
次いで、次々に教室の扉が開き、中から黒いマネキン人形のような、制服を着た男女が飛び出してくる。
「チッ……」
小さく舌打ちをしてから、侑玖は躍りかかってきた黒マネキンの一人の胸にサバイバルナイフを叩き込んだ。
「ウッ……!」
苦しそうな声がして、サバイバルナイフが刺さった場所から噴水のように血液が噴出する。
それを真正面から浴びながら、彼は黒マネキンを蹴り飛ばした。
そして次々と襲いかかってくる他のマネキン達から反対方向に走り出す。
『侑玖、状況を説明できる?』
耳元のヘッドセットから秋坂の声がする。
侑玖は廊下を走って、黒マネキンの大群から逃げながら言った。
「トラウマに襲われてます。この子は自殺病に感染してる」
『何ですって……?』
「どのみち治療しないと危険です。多少荒っぽくなりますが、煉獄に繋がる道を探します」
ヘッドセットから手を離し、侑玖は屋上に繋がるドアに足を叩き込んだ。
そして蹴り破るように、校舎の屋上に飛び出す。
その後ろから雪崩のように黒いマネキン人形達が屋上に飛び出してきた。
そのうちの一人の眉間にサバイバルナイフを突き立てて蹴り飛ばす。
しかし侑玖は、たちまちのうちに五、六十体はいる黒マネキンに覆いかぶされ、体中を潰さんばかりに握りしめられた。
首や頭も潰されるほどの力で締められ、息ができなくなる。
ガクガクと指が痙攣を始めたが、彼は冷静な顔で無理矢理に右腕を振った。
今度は無骨なショットガンが現れた。
それを前方に向かって乱射する。
散弾を受けた黒マネキン達が血液を撒き散らしながら飛び散っていく。
たちまち血の海になった屋上で咳をしながら立ち上がり、侑玖はショットガンをコッキングした。
「あなたは誰?」
そこで、彼を遠巻きに囲んでいるマネキンの一体から女の子の声がした。
次いで別のマネキン達からも同じ声がする。
「私の中に入ってきた、あなたは誰?」
「男の子? どうして?」
「あなたは一体どういう人?」
「どうして死なないの? 何をしたいの?」
「私はもう起きたくない」
「私はもう目覚めたくない」
侑玖はそれらを聞いて、ショットガンを構えながら言った。
「君は自殺病に感染してる。治療しなければ、いずれ死に至る。自殺病のことは知っているな?」
「…………」
「感染した人間は、生きる気力を失いやがて死に至る。君の場合、それが何らかの原因で化膿しているんだ。無駄に心理壁を傷つけたくない。中枢への道を開いてくれ」
侑玖がそう言うと、手近な黒いマネキンがケタケタと笑った。
「自殺病? それが何だって言うの?」
「俺は医者だ。君を助けに来た」
今度は別なマネキンもケタケタと耳障りな声で笑った。
「男の子が私の何を知っているの? 体? 心?」
侑玖の目の前で、マネキン達が寄り集まっていく。
それらはスライムのようにグズグズに溶けると、やがて全長五、六メートルはあるかという巨大な一体の黒マネキンになった。
ガパァ、と口が開き、中の真っ赤な口腔と歯が見える。
「誰も私のことを知らない。お父さんも、お母さんも。あなたも。私は私にしか分からない。私が自殺病にかかっているなんて、あなたには分からないこと」
黒マネキンが腕を振り上げ、侑玖めがけて振り下ろした。
侑玖は転がってそれを避けたが、巨大なそれが轟音を立てて校舎の屋上の一部を破壊する。
「だから死んで。死んで綺麗な花になろう。花壇にあなたの首を植えてあげる」
「成る程……意識が混濁しているんだな……」
侑玖は息をついてショットガンを構え、何度も引き金を引いた。
しかし巨大な黒マネキンには通じず、銃弾は全て少しめり込んだだけで止まる。
黒マネキンは手を伸ばすと、無造作に侑玖のことを掴んだ。
そして大きく口を開けて、彼を顔の前に持ってくる。
「一つになりましょう? 名前も知らない男の子。あなたを永遠に私の一部にしてあげる」
侑玖が黒マネキンの口の中に落とされる。
そこで、彼の意識は暗転した。
◇
気がついた時には、侑玖は真っ暗な砂漠の真ん中に転がっていた。
寒い。
身を切るような寒さだった。
わずかに震えながらヘッドセットに手をやる。
「煉獄に入れました。この子の意識は半ば変異しかかってる。危険ですね」
『そんなことは分かってる。治療できそう?』
「もう少し診てみます」
そう言って侑玖は立ち上がった。
周りを見回すと、少し離れた場所に灯台が一本建っていた。
とりあえずそこを目指して歩き出す。
古ぼけた灯台だった。
侑玖は特に考えることもなく、灯台の中に入った。
螺旋階段になっていて、上の方に部屋があるようだ。
裸足で半ば錆びた階段を登っていくと、冷たさが体中に響く。
やがて最上階に着くと、そこは狭い円形の部屋だった。
壁には蝋燭がセットされていて、そこに火が灯っている。
侑玖は部屋の中央を見て足を止めた。
真っ白い彫刻のようなモノが、椅子に座っていたのだった。
石膏像のようだ。
うつむいた姿勢で座っていたのは、制服姿の少女……幸の姿だった。
「中枢を発見しました」
ヘッドセットの向こうに言うと、秋坂が答えた。
『無事だったか……治療できそう?』
「無理に弄ると壊してしまいそうです」
そこで侑玖は違和感に気づいた。
ゴボ……ゴボ……という水音が聞こえるのだ。
灯台の窓から外を見ると、そこは砂漠から一変していた。
真っ黒い海が広がっていた。
それがものすごい勢いで水かさを増してきている。
灯台にも侵入してきていて、すでに外に出れる状態ではなかった。
螺旋階段を水が段々と登ってきている。
『どうした、侑玖?』
問いかけられ、しかし侑玖はそれに答えずに、石膏像となっている幸に向かって足を踏み出した。
そして彼女の肩を掴んで大きく揺さぶる。
「起きるんだ、大河内幸さん。君を待っている人がいる。このままだと、俺も君もここで溺れ死んでしまう」
すでに水は足元まで登ってきていた。
ぬらぬらと絡みつく真っ暗な水。
そこで石膏像から声がした。
『目覚めてもまた、夢の中に戻されてしまうの』
それを聞いて侑玖は言葉を止めた。
そして幸の肩から手を離して息をつく。
「……君も、人の夢の中に入る力があるのか」
『夢の中は下劣。でも現実はもっと下劣。現実で笑っている人は、夢の中では誰かを殺してる。私は、そんな現実も、そんな夢もどちらも壊れてしまえばいいと思う』
「…………」
『笑い声が嘲笑に聞こえる。楽しそうな顔が詐欺に見える。そんな現実に戻っても、何もないわ』
石膏像に動きはなかった。
すでに腰の高さまで水が侵入してきている。
侑玖はしばらく幸を見ていたが、やがてそっと、呟くように言った。
「笑い声は嘲笑かもしれない。楽しそうな顔は、確かに詐欺かもしれない。でも、人って多分そういうのを押し殺して、隠して生きていくのが元々ある深い業なんじゃないかな……」
『…………』
「死んでも何もないよ、多分」
侑玖は小さくそう続けた。
「仕事で沢山の人を殺してきたけど。その先の世界なんて、俺らには分かりもしない。死んだ先で、嘲笑や詐欺から逃れられるなんて、そんなのはただの詭弁だ。誰もそれは分からない」
胸の位置まで水が登ってきていた。
「君が悩んでいること、君が苦しんでいることはよく分かるよ。でも、それに対する答えを俺は持たない。だって俺も……それが分からないから。でも確かなことが一つだけある」
侑玖は水をかき分けて石膏像に近づいた。
そして、そっと彼女を抱きしめる。
水は段々とかさを増し、首までを侵食し始めた。
「俺達はまだ生きている」
そこで、侑玖と幸の頭までを水が覆った。
壁の蝋燭の火も消え、何も見えなくなる。
侑玖は幸の体を強く抱き、自分の方に引き寄せた。
そして手探りで彼女の頭を引き寄せ、自分の唇を重ねた。
口の中に残っていた空気を、一気に彼女の口の中に流し込む。
そこで石膏像にビシィ、と音を立てて亀裂が入った。
侑玖がハッとして口を離し、体から石膏が剥がれていく幸の体を抱きしめる。
幸がゴボッ、と空気と共に何か黒い塊を吐き出した。
(自殺病のウイルス……!)
その気配を感じて手を伸ばすが、届かない。
そこで幸が手を伸ばし、黒い魚のようなものを掴んだ。
(ウイルスを掴んだ……?)
その事実に唖然とする間もなく、幸は黒い魚を小さな手で握り潰した。
白い光が、彼女の手から漏れ出す。
それは黒い海を掻き消し、やがては灯台から漏れ出し強い光となってあたりを照らし始めた。
「君は……」
侑玖は水がかき消えた灯台の部屋の中で、白く輝きながら浮いている幸の姿を見て呟いた。
「特別なマインドスイーパーなのか……?」
そこで、侑玖の意識は暗転した。
◇
ピッ、ピッ……という規則正しいバイタル音が聞こえる病室。
幸は、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと天井が見える。
「…………」
状況が分からず、無言で手を上げようとする。
数本の点滴が腕に刺さっている。
「幸さん、覚醒しました!」
そこで頭の脇から声が聞こえてハッとする。
看護師に顔を覗き込まれ、幸はベッドに横たわったまま軽く咳をした。
そしてかすれた声を発する。
「ここは……?」
「あなたは昏睡状態になっていたの。先程治療が終わったところよ」
「治療……? 私、病気なんかじゃ……」
そこでモーターの音がして、車椅子が近づいてくるのが見えた。
「お母さん……?」
看護師に助けてもらって上半身を起こし、幸は汀の顔を見た。
汀は涙を流していた。
そして不随ではない方の手を伸ばし、幸の痩せた手を握る。
「良かった……目を覚ましてくれて……」
「私、どうしちゃってたの……?」
「夜にお父さんも来るわ。しばらく入院することになるけど……ゆっくり説明していくわね」
◇
少し離れた場所で、窓ガラス越しに侑玖はそれを見ていた。
両手に缶コーヒーを持った秋坂が近づいてきて、一本を侑玖に渡す。
「可愛い子じゃないか。いいの? 俺があなたを助けました~って名乗り出なくて」
缶コーヒーのプルトップを開けて中身を口に流し込んでから、侑玖は呆れたように返した。
「そんなことをして何になるっていうんです?」
「もっと誇ってもいいんだよ。久しぶりの人命救助だし、何より関東赤十字理事の娘さんだ。今回の報酬はだいぶいいだろうね」
「俺は……何もしてないですよ」
しかし侑玖はぼんやりと窓ガラスの先の幸を見ながら、呟くように言った。
「いや、お前が助けたんじゃないの?」
「最終的にウイルスを除去したのは、あの子自身です。俺はその手助けをしたに過ぎない」
「自分のウイルスを……自分で?」
信じられないといった顔で秋坂はそう言って考え込んだ。
そして息をつく。
「ま、後で詳しく話は聞くよ。それに、もう関わりはないだろうからね」
廊下の向こうに歩き出した秋坂について行きながら、侑玖は軽く笑った。
「どうでしょうね」
「…………?」
「これが始まりなのかもしれません」
「何言ってるの。帰るよ」
駐車場に向かって歩いていく秋坂。
侑玖はもう一度幸の方を見てから、彼女を追いかけた。
◇
再会は、意外と早かった。
二週間ほど経った日。
自宅のマンションに戻ろうと歩いていた侑玖を呼び止めたのは、他ならぬ幸だった。
「あなたよね、山中侑玖君って」
振り返って向き直る。
そこには制服姿の、小奇麗な顔立ちの女の子が立っていた。
「私、大河内幸。あなたが私を治療してくれたのよね?」
気さくに呼びかけられ、侑玖はポケットに手を突っ込んで、公園脇の塀に背中を預けた。
「随分回復したみたいだね」
「お父さんもお母さんも何も教えてくれないし、あなたを探すの凄く苦労したわ。このへんの病院で働いてるって聞いたから……」
「うん。俺が山中侑玖だ。で……何か用?」
幸はそれを聞いて軽く頬を膨らませてから近づいてきた。
そして侑玖の手を握って、彼の顔を見上げる。
「よく覚えてないんだけど……私を助けてくれたんでしょ? お礼を言いたくて」
「お礼……? そんなのいいよ。仕事だし……」
「あなたがよくても私が悪いの。ね、こんな所で話をするのもアレだし、喫茶店にでも入らない?」
随分と押しが強い子だ。
侑玖は心の中で小さくため息をついてから言った。
「……ああ、いいよ」
◇
「えー! あなたS級のマインドスイーパーなの?」
身を乗り出して大声を上げられて、侑玖は戸惑った顔で彼女をなだめた。
「声が大きいぞ。そういうのは機密事項なんだ」
「ご、ごめんなさい。びっくりしちゃって……」
幸はコーラのコップに刺さったストローを噛みながら、侑玖の事を見た。
「でも、あなた私と同じくらいの歳でしょ? 何歳?」
「今年で十七だ」
「ちょっと年上かあ」
含みをもたせてそう言ってから、彼女はじろじろと侑玖のTシャツとジーンズの簡素な姿を見た。
「S級能力者には見えないなあ」
「よく言われるよ」
「お母さんと同じだとは思わなかったよ」
「君のお母さんもマインドスイーパーなのか?」
問いかけられ、コーラを飲んでから幸は答えた。
「うん、昔ね。今ちょっと具合が悪くて、人の頭の中には入れないんだけど……」
「へぇ……」
興味がなさそうにそう言った侑玖に、幸は続けた。
「どこの病院で働いてるの? S級ってことは関東総合病院?」
聞かれて、侑玖は少し迷った後口を開いた。
「そういうのはあんまり人には教えないようにしてる」
「えー! 頭の中で私にあんなことやこんなことしておいて?」
また大声を上げられ、侑玖は両手を上げて彼女を落ち着かせた。
周りの視線が痛い。
「しておいて……って、あの時にあったこと覚えてるのか?」
「うん、全部」
指先で丸を作った彼女に、小さくため息を返す。
「あんなに熱いキスしてくれたじゃない」
「アレはただの人工呼吸だ」
「私のファーストキスでも?」
大きな丸い目で見つめられ、侑玖は呆れたように言った。
「そういう問題じゃないだろう……」
「あなたが水の中から引き上げようとしてくれたのも全部覚えてるよ。私ね、小さい頃から機械とか使わなくても人の頭の中に入れるんだ。自分の夢の内容も大体覚えてる」
「機器を使わなくてもって……眠るだけでマインドスイープできるのか?」
「うん。今回、どこからか自殺病のウイルスをもらっちゃったみたいで、それが悪化してたみたい。危なかった……」
全く危機感を感じさせない声音でそう言ってから、また身を乗り出して幸は続けた。
「ね、あなたに沢山聞きたいことがあるの。教えて。友達になろうよ!」
「友達……」
侑玖はそれを聞いて、わずかに表情を曇らせた。
そして半笑いのような表情で続ける。
「俺、そういうのつくらないようにしてるから」
「どうして? 侑玖君カッコいいしモテそうなのに」
「俺はマインドスイーパーじゃない。聞いたことあるかな? 正確には『マインドアサシン』っていうんだ」
「マインド……アサシン?」
「造語だけどな」
きょとんとした幸の前でコーヒーを飲んで、侑玖は言った。
「マインドスイーパーが人を助ける医者だとしたら、俺は人を殺す医者だよ」
「どういうこと……?」
「安楽死って知ってる?」
問いかけられて幸が頷く。
「う、うん。重病の患者さんを、苦しまずに死なせることだよね?」
「そう、よく知ってるな」
頷いて侑玖は続けた。
「俺は、それをしてる。自殺病の治療が無理な患者の中にダイブして、楽に死なせる仕事をしてる。いわば合法的な『人殺し』なんだ。俺にはもう関わらない方が良い」
幸はしばらく衝撃を受けたように黙っていたが、やがて大きな目で真っ直ぐ侑玖を見た。
「でも侑玖君は私を助けてくれた」
「…………」
「あなたは立派なお医者さんだよ。少なくとも、私にとっては。だから関わらない方がいいなんて言わないで」
テーブル越しに手を伸ばして侑玖の片手を包み込んで、幸は言った。
「ほら、私達普通に話せてるじゃん? もう友達だよね?」
「だから、そういうのは……」
「侑玖君が夢の中で言ったこと、まだ覚えてるよ」
幸はニッコリと笑って言った。
「死んでも何もないって。死んだ先で嘲笑や詐欺から逃れられるかなんて、誰もわからないって。私もそう思う。だからあの時戻ってこれた」
侑玖は、自分の手を包んでいる幸の小さく温かい手を見た。
そして息をつく。
「仕事だから君を説得しただけだよ」
「嘘。あなたは優しい人だよ。私、小さい時からそういうのは良く分かるんだ」
幸はそう続けてから、侑玖の手を離した。
「教えて欲しいの。マインドスイープのやり方。人の助け方」
「……やり方を?」
少年はそれを聞いて怪訝そうに少女を見た。
「君は関東赤十字の、理事さんの娘だろ? それは俺じゃなくて、お父さんかお母さんに言った方がいい」
「お父さんもお母さんも、私には絶対マインドスイープはさせないって言ってるの。でも……」
幸は唇を噛んで俯いた。
スカートを掴んだ手に力がこもっている。
「私、意識しなくても人の夢の中に入っちゃうから……それが、とても辛くて……」
「…………」
侑玖は彼女の言葉を聞いて黙り込んだ。
幸は彼の顔を見上げて、必死に続けた。
「お願い。私にマインドスイープを教えて。私も、人を助けたいの」
「……マインドスイーパーは国家資格だよ。専用の試験を受けて取得しなきゃダメだ」
「分かってる。その勉強もしていくつもりだよ」
「東京第一校って言ったら有数の進学校だ。わざわざマインドスイーパーなんて危険な仕事を選ばなくても……」
そこまで言って、侑玖は言葉を止めた。
そしてふー、と息を吐く。
「……でも、君の言うことは分かるよ。制御できないのは、辛いよな」
「侑玖君も……?」
「まあね」
頷いてから、侑玖は腕組みをして背もたれに体を預けた。
「でも、さっきも言った通り俺はアサシンだ。人を殺すのが仕事だから、君が思っているようなことはできないよ。それでも良ければ、ウチの診療所でアルバイトでもできないか、主治医に聞いてみてもいい」
「ほんと?」
目を輝かせて体を浮かせた幸を落ち着かせてから、侑玖は言った。
「できればお父さんとお母さんにも相談をしてみるといいと思うよ。こういうのは隠してやるものじゃないからね」
「侑玖君って、しっかりしてるね……」
感心したように言われて、少年は肩をすくめた。
「一人暮らしが長いと、どうしてもね」
「連絡できるように、連絡先だけもらえる?」
「いいよ。携帯は?」
「うん、ある」
スマホでやりとりをしてから会計を済ませて店を出る。
ある程度の道まで幸を送ってから、侑玖は家路に着いた。
(マインドアサシンを怖がらない子か……)
小さく心の中でため息をつく。
(バカなのか、分かっているのか……)
頭の中に、二週間前の秋坂の声が反響する。
あの子を助けることが出来た。
他ならぬ、自分が。
元気に動いて喋っている幸。
空を見上げる。
星が瞬く空は、どこまでも突き抜けるように黒かった。
(俺も、人を助けることが出来たのか……)
今更その実感を得て、侑玖は息をついてまた歩き出した。
彼の足音が、ざわつく人々の喧騒の中に紛れ、そして消えた。