第一話
今日も気温は三十度を超えると聞いた。そんなウンザリする猛暑日に、吾嬬清人は穏やかじゃない気持ちで隅田公園にいた。
「いやぁ、絶好の青春日和だな!」
まったくもって穏やかじゃないのは、この隣で叫んでいる男のせいだろう。その男、石原太平は本来、清人の学友だったが、清人はなるべく他人のフリをしていたかった。
「なぁ、吾嬬!なぁ!」
しかし彼は他人にしてくれなかった。太平は離れようとする清人の腕を無理矢理掴んだ。
「やめろ、俺まで不審者に思われる!」
「不審者じゃねえだろう、いたいけな高校生は!」
「なにがいたいけだド阿呆!」
清人は腕を振り回し、離れた。動き回ったせいで、汗が止まらない。タオルで拭っていると、太平がふてくされていた。
「つれないぜ、毎日を退屈そうに過ごしている吾嬬君の為に呼んでやったのに」
骨折ったかのように肩をすくめる太平を見て、清人は感情をむき出しにして反論した。
「何が呼んでやった、だ。今朝、急に“隅田川に行こう”って言ってきた上、その返信を待たずに俺の家のチャイムを鳴らしてたくせに!」
「どうせ暇だったろ?」
「そりゃ、暇だった……けど」
なら良いじゃんと、太平は言った。清人はそういう問題じゃないと反論したかったが、これ以上口論する元気がなかった。
「大体なぁ、今日日ナンパなんてやらねぇって。通報されるのがオチだぞ」
「わかんねぇって、俺のカッコよさにつられる子だっているかもしれないだろ?」
自身に満ちた声で太平は言った。確かに彼は、高校入学したての頃は学校でもモテていた。しかしそれは、彼が自己紹介の場で好みの女体を雄弁に語った時までの、短い間だった。
「今日こそ見つけるんだ……俺の理想のトラ・グラ・ガールを……」
トラ・グラ。トランジスタグラマーの事であり、小柄でグラマラスな身体をもつ女性の事である。幼少の頃に見た女性に一目惚れし、そこで彼の性的思考の扉が開かれたことを、自己紹介の時に語っていた。
「待ってろ、俺のファムファタール!
」
それだと太平の人生が破滅するが良いのだろうか。
清人は指摘しようとしたが、太平は既に天端から降りていた。
清人はくだらねぇと呟き、河川敷の法面に座り込んだ。風が吹いているが、生暖かった。このままだと熱中症になるかもしれないと思った清人は、頑張って立ち上がり、自販機を目指した。
川沿いに歩いていると、一人の女性が隅田川を眺めていた。女性といっても年齢はおそらく清人と同じくらいに見える。上は着物で、裾をもんぺの中に入れていた。清人はその装いを歴史の教科書で見たことがあったが、実際に来ている人間を見るのは初めてだった。
変わった女性だと思いながら、ちらとその女性の顔を見た。とても整えられた顔立ちだった。通り過ぎに横目で見てもわかるくらいだった。
或いは、それが清人にとって好みの顔立ちたったのかもしれない。しかし瞳は虚ろで、口を少し開きながら川を眺めていたので、声をかけようとは思わなかった。
女性の前を通り過ぎ、自販機で水を買う。納入されてからそんなに時間が経っていなかったのか、ほんの少しだけ生ぬるかった。
どこかへ行った太平を探しに戻ると、先ほどの女性が、同じように佇んでいた。少しも身体を動かしていないようだった。実は体調が悪いのではないか、と心配になったが、赤の他人である自分が声をかけるのは気持ち悪いのではないかと、その場を通り過ぎようとした。
通り過ぎようとしたのだが、清人と女性の距離が近づくにつれ足が遅くなり、思わず自販機まで走って戻った。
そうしてあのほんの少し生ぬるい水を購入し、女性のもとまで走って戻った。
「あのっ……!」
清人は女性の横に並び、少し上ずった声で呼んだ。女性の反応が見られなかったので、今度は視界に入るように、少しだけ身を乗り出した。
「大丈夫ですか?体調悪くないですか?」
清人が再び声をかけると、女性は瞳だけ清人を見るように動かした。瞳孔が静かに動いて、清人にフォーカスが定まると、女性は目を見開いた。蝉の鳴き声が酷く鳴り響いていた。日差しも更に強くなったようで、川面に反射した太陽光が女性の瞳にも入り込んでいた。
「大丈夫ですか?ずっとボーっとしていたみたいですけど。水飲みますか?」
清人は声をかけ続けてみたが、女性は清人を見たまま、口を魚のように開閉していた。これは相当良くない状態なのではないか。そう思った清人はスマートフォンを取り出し、救急車を呼ぼうとした。
「き、きよしさん!!」
女性が大きな声を出した。
あまりにも大きな声量だったので、清人はスマートフォンを落としてしまった。
「きよ……なんだって?」
「私です!文子です!ここでずっと貴方を待っていたんです!」
先ほどまでの女性とは思えないくらい、力ある声で女性は清人に訴えた。
だが、清人にこのような知り合いはいない。そもそも彼女は清人のことを“きよし”と呼んでいる。人違いなのだろう。
「そんな、私は何年もずっと……!」
女性は清人に抱き着こうと、飛び込んできた。清人は一瞬でもだけドキッした。しかし女性の身体は受け取めるのとができず、冷たさと共に清人の身体をすり抜けていった。
一瞬の出来事を処理しきれなくなり、清人は暫時、思考を停止した。驚いた清人は声をあげながら後ろを振り返る。女性もすり抜けたことに驚いたようで、ゆっくりと振り返って清人の事を見た。
「わ……わぁあああ!」
奇妙な出来事に清人は恐怖を覚え、叫びながらその場から逃げ出した。
「石原!石原ァ!」
「どうした吾嬬。まだターゲットは見つかってないぞ。なにせ観光客や家族が多くてなぁ……あとカップルとか、カップルとか」
太平は二人組を恨めしそうな声で言ったが、清人にそれを受け止める余裕はなかった。
「ナンパはどうでもいい!それより涼もう!健全な涼みがほしい!」
「健全な涼みってなんだよ。というか、どうしたんだ!」
「わけは後で話す!俺は早くここから離れたい!頼む!お前がいかないなら俺一人で離れる!」
切羽詰まった様子の清人を見て、太平はやれやれと肩をすくめた。
「しょうがない。今日は吾嬬君に付き合ってあげますか……」
太平は少しふざけて言ってみたが、余裕がない清人は太平の腕を無理矢理引っ張って行った。
清人と太平は橋を渡り、浅草にある喫茶店へ訪れた。
四人席へ案内された清人と太平は、互いに面するように座った。
「とりあえず席についたし、落ち着こうぜ。どうしたんだ急に?」
呼吸が激しい清夫に太平は尋ねた。清人の青ざめた顔を見て、ただ事でないと感づいていた。そして太平は自身から見て右隣の方を何度か見た。
「吾嬬にとってよくない事が起きたのは何となく伝わった……とりあえず落ち着こう。まずは深呼吸だ」
太平は清人に両手を差し出す。
「息を吸って、吐いて。大きく、深く」
清人は太平の言う通りに深呼吸を繰り返した。混乱していた思考も、だいぶ冷静に物事を考える事が出来るようになった。
「落ち着いたか?」
「あぁ……悪い。取り乱した」
「そうだな、取り乱していたな。それで、何があったんだ?」
清人は先ほどの出来事を整理しながら、精一杯説明した。
女性がボーっと立っていたので、熱中症かと思って声を掛けたら、誰かと見間違えられ、抱きつかれそうになったがその女性は自分の身体をすり抜けていった。現実味の薄い話だが、確かに起きたことだと訴えた。
清人の話を太平は腕を組み、頷きながらよく聞いてくれた。
「熱中症の症状とか、お前に当てられてそういう幻覚を見たとか、そういうのじゃないんだ。その人は本当にいたし、あの奇妙な冷たさも残っている」
「なるほどな……戦時中みたいな見た目だったから、幽霊だと思い込んだと」
「思い込んだんじゃなくて……待て、服装までは言ってないぞ。なんで知ってるんだ?」
清人が尋ねると、太平は清人の左隣を指した。
いた。
さっきの女性が、清人の真隣に。
「ア゜アァ!」
半濁点がついたような甲高い悲鳴を清人が叫んだ。女性は仰け反り、太平が笑いながら両耳をふさいだ。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので……」
「す、すいません……」
直後、お冷を三つ持ってきた店員に注意され、清人は謝罪した。
店員が離れた後、清人は女性から離れるように窓際に身体を動かした。当たり前のごとく、女性も身体を動かした。
「なんで近づくんだよ!」
「良いじゃない。私と貴方の仲なんだから」
「ひ、人違いです!」
清人は店の迷惑にならないように声を張った。太平は警戒する清人を宥めながら、女性を見て尋ねた。
「俺と貴方は多分初対面だと思うので、その、お名前とか聞いても……?」
太平の質問に女性は確かにと納得し、自己紹介した。
「二人で盛り上がってごめんなさい。八広文子です。数十年前に死んでからずっと清さんと会いたくて、あの川にいたの」
「その、清さんというのは……」
「私の恋人」
女性は端的に答えた後、笑顔を見せた。
太平は顎に手を当て一言、なるほどと呟き、清人を疑義の目で見た。
「吾嬬君、そういう特殊なシチュはギャルゲーだから成立するのであってね……」
「勝手に共謀者に仕立て上げないでくれるか」
「俺に彼女を自慢したいからってなぁ」
「だから彼女じゃないんだって。てか、幽霊って自覚ある事に触れろよ」
清人は必死に訴えたが、太平の感情は冷めたままのようで、彼は腕を組み目を細めていた。疑っている太平に対し、文子は本当に幽霊よと、不意をつくように自分の腕を清人に振り回した。
文子の腕がすり抜けると同時に、不自然な冷たさが清人の身体を貫通していき、清人は再び悲鳴をあげた。悲鳴が店内に響き、店員が再び注意しに来たので、清人は平謝りした。
「ひとまず、店のお詫びもかねて何か頼もうぜ」
「私プリンが食べたいわ」
「幽霊なのに食べるんです?」
「挑戦したいわ。久しぶりに目が覚めたもの」
平然と会話を交わす文子と太平を、清人は奇妙なもののように見た。
太平が何故動揺していないのか聞きたかったが、それよりもこれまでの疲労が清人の全身を覆い被さってきていたので聞くことが出来なかった。
「吾嬬は何にする?」
「……ホットココアが飲みたい」
「ココアないみたいだぞ」
「……じゃあ、あったかい飲み物。なんでも良い」
清人は拗ねるようにうつぶせになった。
今はとにかく、心を安心させるような温もりが欲しかった。
「ごめんね、大丈夫?」
文子が尋ねてくれたが、誰のせいでこうなっていると、内心憤りを抱いていた清人は、文子のことを無視した。
「……で、お姉さん本当に幽霊なの?」
「そうみたい。私も人に話しかけたのはキヨシさんが久しいから、すっかり忘れていたけど──ホラ」
「うわ、マジじゃん」
おそらく、文子が太平に触れようとして、それも出来なかったのだろう。太平は驚嘆の声をあげたが、清人ほど取り乱してはいないようだった。
「なんでそんなに冷静なの」
「ばちくそ号泣している人が近くにいると涙がすっこんだりするだろ。幽霊見たのは初めてだけど、現にお姉さんの身体は本当にすり抜けたし」
太平の説明に少しだけムッとしたが、清人も概ね同意見だった。
「でも嬉しいわ。こうしてキヨシさんと再び会えるなんて……何十年も待ってよかった」
ひとり舞い上がっている文子。
初めて会ってからずっと引っかかっていた思いがあり、清人は顔を上げた。太平と目が合った。彼も同じ事を考えていたらしい。
「……清人」
清人はなんとなく、名前だけ言ってみた。勿論、文子は聞き返してきた。
「えっ?」
「俺の名前。吾嬬清人なんですけど」
清人は自分の名前を明かした。本当の事を言っているだけなのに、何故か気まずく感じた。現に名前を告げた後、文子は凍りついたように動かなくなった。
あれだけ奇声を発していた、三人組が静かになったからか、店員が警戒しながら料理を持ってきた。三人は店員にお礼を言って、各々頼んだものを口に運んだ。
「あ、美味しい」
「本当にぜんざいを食べている……」
片手を口に当てた文子を見て、清人は思った事をそのまま口にした。
「食べたものはすり抜けないんですね……どういう仕組み……」
「わからない。でもそういうキヨシさんだって飲み物が零れていないじゃない」
「清人ですって。俺の名前は吾嬬清人です!大体、何十年も待ってたらキヨシさんって老けているんじゃないですか?」
「幽霊じゃないの?」
文子が目を開いて尋ねてきたので、清人は身を乗り出し、太平の腕を掴んだ。いやん、と太平がふざけた一言を発したので、ついでに彼の腕を叩いた。
「……生まれかわっていたり、とか」
「転生モノじゃないんだから」
「てんせい、もの?」
「そういう知識はないのね」
文子の存在がまずますわからなくなり、清人は軽くため息をついた。
「とにかく、キヨシなんて人、俺達は知らないんです」
清人がぶっきらぼうに告げると、文子はそんあぁ、としょげてしまった。
「お姉さんはキヨシさんって人に会いたかったんだ」
太平が腕を組みながら質問をした。文子はぜんざいを食べながら頷いて答えた。
「そうすれば、私がなんで幽霊のままか、わかるかと思って……」
「何か未練があって幽霊になってるんじゃないの」
今度は清人が文子に質問をした。文子は首を横に振った。
「それがわからないの……本当にずっと、あの場所で立っていただけだから。キヨシさんに遭えば、何か思い出すかなって」
「死んだときの記憶は?」
文子はもう一度首を横に振った。何故幽霊になったかもわからずに、ずっとあの場所に一人いた。
今日、清人が話しかけるまで、誰にも気づかれず、独りで。
「なら、一緒にアズマさんか、幽霊になった理由を探すよ」
提案したのは太平だった。清人が太平を見ると、太平も清人を見た。
「吾嬬が」
「俺!?」
付け足した言葉に清人が異議を申し上げる。
「ふざけんなよ言い出しっぺはお前だろ石原ぁ」
「最初にお姉さんに話しかけたのはお前だろ?しかもこの人の元カレに似ているっていうんだし。他人事じゃないだろ?」
太平の意見は半ば無理矢理で支離滅裂だった。元カレが似ているかどうかなんて、清人は知らないしどうでもいい事だった。
なのに清人はぐうの音も出なくなってしまった。
直後、文子の顔を見るのも悪手だった。
「……助けてくれるの?」
そう言った彼女の視線に耐えきれず、清人の感情に助けたいという思いが生まれてしまった。そうなってはもう、あとは助けてあげるしかない。それが、吾嬬清人という人間だった。
「……何も手掛かりになったら、無理矢理成仏させる方法を探すからな」
「ひゅう、男前!」
太平の言葉に少しイラついた清人だったが、ご機嫌になりプリンアラモードを美味しく食べる文子を見たら、まぁ良かったのかもしれないと思った。
「よろしくね、キヨシさん」
「清人だっつってんでしょ!」
ただし、どうも名前は憶えてくれない。清人は先ほどの自分の発言を早くも後悔した。
こうして吾嬬清人の高校生活初めての夏は、奇妙な始まりを迎えた。