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言うと、クロはチセの手首を掴んで引き留めた。そのまま人家の塀に押し付けるようにし、顔を近付ける。爛々とした黄金の瞳がチセを見据え、二つの満月に魅入られるように、チセは息をのんだ。
「飼い猫だった俺は昼の存在だった。人間の世界に住んでいた。だが、捨てられた……人間の世界から追い出されたんだ。その意味が分かるか?」
チセは半ば無意識に首を横に振った。クロの言うことの意味も分からないし、クロのことも分からないし、何もかも分からない。否定するように首を振る。
「昼の存在は夜の中で変容する。それを『夜に呑まれた』と言うんだ。とっくに夜に呑まれた俺が、誰の心配をするって?」
嘲笑うように歯を剥き出す。八重歯……ではなく、もはや牙だ。押さえつけられた手首に何かが突き刺さる。鋭いそれはチセを魔物から救った――そしてそれ自体も魔物の――爪だった。
「俺が安全な存在だなんて、あんたはいつから錯覚していたんだ?」
チセはごくりと喉を鳴らした。
分からないふりをしたいが、そんなことはできない。もうチセは気付いている、知っている。クロはもはや昼の存在ではない。小さくて可愛い子猫ではなくて、夜の――魔物なのだ。
「…………なら」
「なんだ?」
チセの声がかすれて聞き取れなかったらしい。クロが馬鹿にするように問い返す。
「……それなら。私はあなたを夜から取り戻す」
言葉にすると意思が定まった。チセははっきりと言い直し、視線に力を込めてクロを見返した。
虚を突かれたように、クロが黙り込む。
「…………。……取り戻して、どうするんだ?」
「決まってるわ。一緒に暮らすの」
「……は。はは……ははははっ!」
クロが哄笑した。チセは呆気にとられてクロを見つめる。
ひとしきり笑うと、クロは唐突にチセから離れた。
「無理なことを言うなよ。だいたい両親をどう説得する気だ? 俺は一度捨てられたっていうのに」
「それは……何とかするわ」
「無理だろう。あんたの危なっかしいところは変わってない。俺がいたらまた不用意に夜に踏み込んでしまうだろうことを、あんたの親は直感的に分かってるんだろうな」
「…………」
「あんたは子供なんだよ。親の庇護が必要で、うっかりすると夜に――おまえたちにとっては死の世界に――迷い込みそうになる子供。大人たちのように昼の存在になりきれていない、子供だ。それも女の子だ。いちばん魔物に食われやすい存在だ。分かってるか?」
牙を見せつけるように笑いながらクロが脅す。
クロの言う通り、子供は大人よりも、女性は男性よりも、魔物に狙われやすい。夜に呑まれる危険があるのは年齢も性別も関係ないが、複数の人がいるとき、魔物が真っ先に狙うのは子供、次いで女性だ。
チセは怯み、反論めいたことを口にした。
「子供っていうなら、クロだって……」
「それに、あんたは重要なことを忘れてる。忘れてるのか、知ってて知らないふりをしているのかは知らないが」
「重要なこと……? が何かは分からないけれど。子供扱いしないでよ」
チセが睨みつけても、クロはまったく動じない。
「まあ、やれるもんならやってみろよ。俺を昼に引きずり込めるもんならな。競争だ」
「競争……?」
問い返すと、しまった、という表情でクロは舌打ちをした。
クロのそんな顔を見ながら、チセは眉を寄せる。
「クロの言うこと、さっきから全然わからない。魔物だろうと何だろうとクロはクロだし、私は夜からクロを取り戻すと決めたの。夜に囚われているなら、トオルだって探し出してみせる」
言葉にするとすっきりした。チセのしたいことは簡単だ。トオルを見つける。クロを昼の世界に連れていく。それだけだ。いくらクロが意味深なことを言っても、そこを見失いさえしなければいい。
チセの視線にクロは肩を竦め、チセを解放した。チセを脅すように伸びていた牙や爪は引っ込み、普通の人間の少年の見た目に戻る。
「まあ、せいぜい頑張んな。言っておくが、制限時間は長くないぞ?」
はっとしてチセは辺りを見回した。夜の世界で魔物が蠢いているが、チセに手を伸ばしてはこない。クロから貰ったまじないが効いているおかげだが、この時間には限りがあるのだ。
そうでなくても、トオルが本当に夜の中にいるのなら、早く助け出さなければならない。その身体や精神が決定的に損なわれてしまう前に。
「…………時間を無駄にしたの、クロのせいだからね」
「その時間をやったのも俺だからな」
言い合いつつ、二人は図書館に向かった。チセが先に立ち、クロが後に続くかたちだ。
突発的な事態に備えて体力を残しておかなければならないが、時間もない。チセは逸る心をなんとか宥めつつ、小走りと早歩きを繰り返した。
そうして辿り着いた図書館は、夜間にも関わらず煌々と明かりが灯っていた。
「公共施設は夜も開いているとは聞いていたけれど……」
もちろん閉館時間はとっくに過ぎている。だが、帰りが遅れて夜にさしかかりそうになってしまった人が逃げ込めるように、職員が常駐して明かりを点けておくのだ。
図書館の利用客ばかりではなく、図書館が帰り道にあたる人のためにもそのようになっている。帰宅途中に具合が悪くなるなどして移動が困難になった人の受け入れもできるように。もちろん救急車やタクシーを呼ぶのも手段の一つではあるが、車両の数には限りがある。自力で移動できる人はなるべく自力で移動するように推奨されている。
そのことは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。チセの帰りが遅れたことは、それこそクロと遊んで時間を忘れたときくらいだ。
そこでチセははたと気付いた。
「正面から乗り込むのはまずいんじゃ……」
夜の中、どうやってここまで来たのかという問題になる。
「そもそも入れないぞ。忘れてないか?」
「……そうだった」
チセは今、まじないによって疑似的に夜の存在になっているのだった。自分の部屋からさえ弾き出された今、図書館の中に行くのは無理だ。
「それなら、電話してみる」
チセは懐から携帯を取り出した。図書館の電話番号を調べてかけると、宿直の職員に繋がった。
夜分に電話をかける失礼を詫び、昼間に図書館を利用した生徒だと伝える。同じ班の生徒が帰っていないと聞いたが、図書館にいないだろうかと尋ねる。いないことはカナとの電話で知っているのだが、他にどう聞いたらいいか分からないので、手がかりを求めて話を振ってみる。
案の定、いないと返答を得て、それなら何か忘れ物など手掛かりになるようなものが残っていたりしないかと尋ねてみる。しばらく待たされて、それもないようだと聞き、チセはお礼を述べて電話を切った。
「手掛かりになりそうなことは何もなし、か……」
落胆しつつ、なんとなく筆箱を懐から取り出す。駄目元でもう一度、クロに尋ねてみる。
「クロ、これをどこで拾ったのか、せめてヒントだけでも貰えない?」
チセの問いに、クロは呆れたふうに応じた。
「だから、それは夜の中で拾ったとしか言えないんだって。道端に落ちてたとか、そういうことじゃないんだから」
「どういうこと……?」
「今、あんたは道を歩いている。県道の坂を下って図書館の方に向かっている。それは、あんたが人間だから、昼の存在だからできることなんだ。人間にとっては世界の形が定まっていて、夜の中にいてもその延長で世界を理解しているから」
「……ええっと……」
チセは目を白黒させた。クロがはぐらかそうとしているのではなく、説明しようとしてくれているのは伝わってくる。でも、意味が分からない。授業の数式よりもずっと難解で、哲学的だ。
何とか理解の取っ掛かりを得ようと足掻きながら、引っ掛かりを言葉にする。
「人間でなくて、昼の存在ではない者にとっては、世界の形が定まっていないということ……?」
「そういうことだ。だからこそ昼の存在が夜に迷い込んだ後、とんでもなく遠い場所で見つかったり、夜の中に消えてしまったりすることがあるんだ。昼間には何の変哲もない小道が、夜にはどこにも続かない奈落になっていたりするから」
「…………!」
夜は、なんて恐ろしいところなんだろう。そして――