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「っ!?」
とたん、後ろから突き飛ばされたような感覚に、チセの体がつんのめった。
驚きのあまり、というわけではない。猫にキスされたくらいでそこまで動揺したりしない。そうではなくて、精神的なものではなくて、実際に突き飛ばされたような衝撃があったのだ。……チセの後ろには、何もいないのに。
ひゅっと、背筋が寒くなる。振り向いたら部屋の暗がりに何者かが立っているのではないかと思いそうになってしまう。電気を消したとはいえ明確に人間の領域である自分の部屋なのに、今は妙によそよそしく感じる。
「何て顔をしてるんだ?」
「……クロ、何をしたの?」
自分がどんな表情をしているかなんて知らない。揶揄われ、チセはむっとしてクロを睨んだ。
「何って、言わなきゃ分からないか? 額にキスしたんだ」
チセの頬が赤くなった。明確に言葉にされると、いくら猫が相手でも意識してしまう。声は少年のそれだし、クロが人間の姿になれることも知っているのだ。
だが、そういう問題ではない。
「絶対それだけじゃないでしょう!? だっておかしいもの、こんな……」
言いながら、チセの体は押し出されるように前へ――外へ――進もうとする。窓枠の下部に膝を乗り上げた格好で、体はなおも前のめりに進もうとする。両手を突っ張るようにして窓枠の両側を掴んでそれをこらえながら、チセは涼しい顔をしているクロを睨んだ。尻尾をゆらゆらと動かしているクロは無害で呑気なただの猫のように見えるが、そんなわけはない。
「部屋にいづらいだろう? 人間の領域から出ようとしてしまうだろう? ――俺と同じように」
「……クロはもしかして、夕方や、小屋の中で……こんな感覚だったの?」
「……そうだ」
「キスされたことで、それを私が共有したの?」
「違う。感覚を共有させたのではなくて、もっと本質的に……あんたを夜に招いたんだ。俺の……仲間として」
その時に走った感覚を、どう言い表せばいいだろう。怖気を震うような忌避感と、奇妙な高揚感と、本能が片隅で警鐘を鳴らしつつ酩酊するような酩酊感と……様々なものが綯い交ぜになった感覚。……昼の世界にあってはならないような、言葉にしがたい感覚だった。
「私を、夜に招いた……?」
チセの体はとうとう窓枠を乗り越え、部屋履きのまま庭に下り立った。得体の知れない感覚に後ろから押され、前から招かれ、よろめくように庭を歩き出す。
「クロ……!」
クロは当然、助けてくれない。涼しい顔のまま、恐怖と困惑と――認めたくはないが、高揚の――中にいるチセの横を悠々と歩いている。
そのまま庭の低い壁を越えてしまえば、そこはもう夜の中だった。
(…………!)
恐怖に身が竦む。しかし、クロが泰然としているから、悲鳴を上げたりパニックになってやみくもに走りだしたりせずに済んでいる。彼の意図も状況もさっぱり分からないが、少なくともすぐに致命的な状況に陥ることはないだろうと思える。
クロがいるだけで、チセは少し安堵してしまう。――夜の存在に心を預けることの意味を知らないまま。
壁の上を歩きながら、クロは言う。
「今、あんたは人間のチセではなくて、俺の仲間として夜の存在になっているんだ。だから人間の領域から弾き出された」
意味が分からない。だが、状況は少し分かった。
「なんでそんなこと……」
「あんたは夜に用があるんだろう?」
言われて、チセは心当たりにはっとした。
「トオルのこと!? クロ、あなたは何か知っているのあ!?」
「さあ。少なくとも、そのトオルとかいう奴のことは知らない。ただ、俺はあんたとの関わりがあるから、あんたのことが少し分かるだけだ」
「そう……」
クロはそれ以上のことを言わなかった。尋ねたい気はしたが、トオルのことを知らないのは確かなようだったので棚上げしておく。
それよりももっと切迫した問題があった。
「これ……大丈夫なの?」
チセの足は動き続け、とうとう家の敷地からも離れようとしている。今までは横に自分の家の壁が続いていたから少しは安心できたが、これからはそれも無い。
「さあ? 夜の中を歩いている時点で大丈夫ではないと思うが。……戻るか?」
「……戻らない。トオルを探したい」
彼が本当に夜の中にいるなら助けなければ。クロの気まぐれで夜に招かれている今は好機なのだ。今さら部屋に戻ったところで何もできずまんじりと夜を明かす未来が見えている以上、動けるなら動きたい。
クロは頷いた。
「このまじないが効いているあいだ、あんたは魔物に襲われない。だが、時間制限つきだ。気を付けろよ」
言われて周りを見回してみるが、なるほど周りに蠢く影たちはチセを脅かしてこない。おそろしげな声だけを残して通り過ぎていく鳥の影も、鞭のようにうねる街路樹の影も、チセを狙おうとはしてこない。
それらを驚きながら見回して、チセはクロに問うた。
「こんな便利なことができるなら……どうして前に会ったときはしてくれなかったの?」
このまじないがあれば、森の中を必死に逃げる必要はなかったはずだ。チセは自分の足で走っていたわけではないが、チセを守ってくれたクロにとっても楽な逃走ではなかったはず。
「段階があるからな。夜の者に誘われ、夜の脅威に触れて、それでも昼に戻ってこられたあんたは、少し段階を踏んだんだ」
「段階……」
それは、どこへ続く段階なのだろう。もしかして今回も、このまじないによってチセは新たな段階を踏んだのだろうか。
不吉な予感に、チセは無意識に額に手を触れた。
「どうした? 怖気づいたか」
「怖気なのかな……違うような……」
挑発するようなクロの言葉に、チセは曖昧に言葉を返した。クロはつまらなさそうに尻尾を揺らし、音もなく壁をを蹴って宙で一回転した。その姿が猫から人へと空中で変化する。
「ほら」
少年の姿になって道路に下り立ったクロは、ズボンのポケットから何かを取り出し、チセに放ってよこした。とっさに受け取って、チセは困惑した。
「なにこれ……筆箱?」
いかにも男子が好みそうなキャラクターものの筆箱だ。シールが幾つも貼り付けてあり、鉛筆の削り滓のせいかジッパー部分などが黒ずんでいる。
「これをどうしろと……」
「探すんだろ? それの持ち主を」
「…………!」
チセは慌てて記憶を探りつつ、筆箱を開いた。鉛筆に、消しゴムに、赤ペンに……そうだ、トオルは図書館で、確かにこれを使っていた!
「クロ! これをどこで見つけたの!?」
「さあな。夜は遍在し、夜では遍在する。昼間には定まっていた場所が不定になり、現れたと思ったものが消える。俺がこれを拾ったところに行ったところで、そこはもう元の場所ではない」
謎かけのようなことを言われ、チセは焦りのままに言い募った。
「訳の分からないことを言わないで! これがあった場所に連れて行って!」
「だから、その場所はどこにもないんだ。あんたの言う場所とやらは、昼の世界での概念だから」
「…………っ!」
噛み合わない。理解できない。チセは歯噛みし、やみくもに走り出した。
(まずは図書館! 図書館に行ってみて、手がかりを探す!)
チセを追うように、クロも小走りになっている。それを横目で見やり、チセは正直に不満をぶつけた。
「会えて嬉しいし、おまじないはありがたいけど、クロのことが分からない。なんでトオルを探すのに協力してくれないの?」
「これを協力していると捉えるも協力していないと捉えるもあんた次第なんだが、そもそも、なんで協力しないといけないんだ?」
「なんでって……トオルが夜に呑まれちゃったら大変でしょう!?」
「夜に呑まれたら大変? それを俺に言うのか?」
クロの口調は怒っているものではなかったが、チセははっとした。そうさせるような迫力があった。
「あんたは、俺を何だと思ってるんだ?」