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その日の夜。チセが自室でのんびりと過ごしていると、ノックの音が聞こえた。
「チセ、ちょっといい?」
「お母さん? どうしたの?」
チセの母親がドアを開け、携帯を片手に部屋に入ってくる。軽く見回すようにしたあと、「まさかね……」と呟く。
「トオルくんって子が家に帰ってきていないらしいの。同じ班の子なのでしょう? ないとは思ったけど、やっぱりうちには来てないわよね」
「え!? 帰ってないの!? 夕方までは図書館にいたはずだけど」
図書館で解散して、そのあとに寄り道でもしたのだろうか。夏だから日が沈むまでに猶予はかなりあったはずで、公園で遊ぶなり店で買い物するなりできたとは思うが、まったく見当がつかない。
「そう、図書館で一緒だったの。誰かの家で遊んで時間を忘れている、とかだったらいいのだけど……」
母親は部屋を出ていきながら携帯を操作し、中断していたらしき会話を再開する。「ええ、うちには来ていないようです。図書館までは一緒だったらしいのですが……」
ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかっていくのを聞きながら、チセは自分の心臓がどくどくと速い音を立てているのを意識した。
(家に帰っていない……!? まさか、まさかね……)
そのとき、チセの携帯が着信音を立てた。びくっとして心臓が飛び跳ねたが、相手はカナだった。親しい相手だという安堵が半分、トオルではなかったという落胆が半分でチセは携帯を手に取り、応答のボタンを押した。
「カナ? チセだけど」
「あ、チセ、聞いた!? トオルが帰って来てないって……」
「たった今、お母さんから聞いたところ。カナも一緒だったのは図書館までだよね?」
「そうなんだけど……チセ、どうしよう。トオルは誰かの家にいるんじゃなくて、夜の中に行っちゃったかもしれない」
切羽詰まった声でカナが言う。チセの頭が真っ白になった。
「…………どういうこと?」
「図書館のラウンジで休憩中だったとき、他の班の子と話してたの。テーマが決まったこととか、どんなふうに調べ進めているのかとか。そうしたら資料館に行ってきたっていう班があってね……」
実際に行くことの意味は大きいという話になり、それなら資料館なんかよりも実際に夜に踏み込んでみた方がいい、いやそんなことが出来るものか、なんでだよ怒られるのが怖いのか……と売り言葉に買い言葉で熱くなり、それなら俺が行ってやる、とトオルは宣言したらしい。
「本気にしてなかったんだけど……図書館に電話してもいないって言うし。家にも帰っていないっていうから、もしかして……」
じわじわと、チセにもカナの不安が伝染してきた。
「チセ、どうしよう。うちが本気にしなかったから? 止めなきゃいけなかったのに……!」
カナの声はほとんど泣き声になっていた。チセもカナと同じくらい動転していたが、なんとか言葉を返す。
「トオルが夜の中にいるってまだ決まったわけじゃないから。夜になっちゃって帰れずにどこかの建物にいるかもしれないんだし」
「でも、携帯にかけても出ないんだよ!?」
「あー……それは……携帯が近くにないだけかもしれないし……」
チセは目を泳がせた。クロを追うときに鞄を手放したときのことを思い出す。
「とにかく、落ち着こう?」
「うん……そうだよね。ごめん」
「謝ることなんてないよ。心配だよね」
そう言ってはみたものの、彼が夜の中に行ってしまったかもしれないという考えは打ち消せなかった。彼の気質から考えても、テーマ決めのときの不満そうな様子から考えても。
カナを宥めつつ話をし、通話を終えてチセは息をついた。
(バカなこと……だよね……)
夜の中に行ってみたいと思ってしまうのは。
好奇心、冒険心、見栄、裏返しの恐怖、その他もろもろ。人が夜へと誘われてしまう理由は数えきれない。
それでも。恐ろしいものだとは知りつつ、それでも人は夜に魅了されてしまう。
――たとえその果てに待つものが、己の死であっても。
(トオル……無事でいて。友達の家で遊んでいて時間を忘れているだけだと、そう言って……)
チセは強く願った。
窓の外はとっくに夜の帳が下りている。庭の木々は人間の管理下にあるからだろう、森の木々のように魔物と化して襲い掛かってくるようなことは少ない。とはいえ絶対の保証があるわけでもなく、屋外にはどんな危険があるか分からない。夜になったら建物に籠る、これが人間の鉄則だ。
だから外に出てはならないのに。
こつん、とチセの部屋の窓を叩く音がする。規則的に、誰かが意思を持って。
部屋が明るいせいで外の様子が分からない。チセは部屋の電気を消し、そっと窓辺に近寄った。そこにひょこひょこと動いているものが猫の耳だと見て取り、そっと窓を開ける。
「やっぱり、クロ……」
囁くように、チセは声をかけた。窓枠に立ち、黄金の瞳をした猫がこちらを見ている。猫の左耳近くの毛並みには白が一房交じっている。
予感していたのだ。きっとまた、クロに会えると。
「あんたも懲りないな。そんなに俺のことが忘れられないか?」
「ええ。ずっと会いたかったし、せっかく帰ってきてくれたんだもの。またいなくなったら寂しい」
揶揄うようなクロの言葉に、チセは素直に頷いた。
「帰ってきてくれた、ねえ……」
くっと、喉を鳴らすようにしてクロは笑った。明るい笑いではなく、自虐に近い鬱屈を含んだ笑いだった。
「無事に、とは言わないのな?」
「………………」
クロの黄金の瞳を見つめたまま、チセは黙り込んだ。
言葉にはしないが、チセにだって分かっている。クロが……とても無事な状態ではない、ということは。
彼はチセを、夜の中に連れて行こうとした。夕暮れに現れ、朝日が昇るとどこへともなく姿を消した。魔物から庇ってくれたが、その際は魔物と同等以上に渡り合っていた。
その意味を――分からないふりなど、できない。
黄金の瞳が、妖しく揺らめく。人々を惑わす艶麗な満月のように、チセの心の中を掻き乱そうとする。チセは魅入られたように息を詰めた。
「俺に関わることが――俺と共にいることが――何を意味するか、分かっているよな?」
目の前に、猫の形をした夜がいる。人を呑み込もうと、ぽっかりと口を開けた闇が見える。底知れない闇のなか、黄金の月がふたつ、チセを誘うように細められた。
「……分かってる。……ううん、ちゃんとは分かってないと思う。でも……後悔だけはしない」
それがチセの本音だ。クロと――夜と――関わっていくことが危険だということは分かっている。夜の恐ろしさの本当のところは分かっていないだろうことも分かっている。
それでも彼を――失いたくないのだ。可愛がっていた子猫を夜に見捨てて、自分だけ安穏と昼の世界で幸せに暮らすことなんて出来ない。
チセのまっすぐな眼差しに、ふいとクロは視線を逸らした。そっけなく言う。
「なら、まじないだ。屈め」
「え、うん……?」
とんとんと前足で窓枠を叩き、クロが促した。何だろうと少し身を屈めると、チセの額に柔らかいものが触れた。