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夜想  作者: さざれ
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4

「…………とりあえず、ドアを閉めろよ」

 不機嫌そうに、クロが――黒猫の姿をしたクロが――言う。

 驚きながらもきっちりとドアを閉めるチセを横目に、クロはすたすたと小屋の中を歩き、備え付けられていた椅子の上に身軽に飛び乗った。釣られるようにチセも近くの椅子に腰かける。切り株そのままの椅子には薄く埃が積もっているようだったが、そんなことはどうでもいい。

「ええと……クロ、なのよね?」

 お前はなにを言っているんだ、とでも言いたげな目で黒猫がチセを見上げる。足を揃えて座り、長い尻尾をゆらゆらと揺らしている。

「この姿が本来の俺だろう。むしろ、なんで今さら驚いているんだ」

 言われてみれば確かに、黒猫だったはずのクロが人間になっていたときに驚くべきだった。

「そういえばそうかも。でも、夜の中ではそのくらいの不思議はありうると思ったし……どちらにしても、クロはクロだもの。人間になったり猫になったりすること自体に驚いたんじゃなくて……どうしていきなり? って思ったの」

 チセの答えに、クロはふにゃりと尻尾を垂らした。

「……そこかよ。もっとこう、他にあるだろ……」

 溜め息を漏らし、頭を抱えるように手をやる。その仕草が猫ながら人間じみていて、やっぱり人間でも猫でも変わらないとチセは心の中で思った。

「…………ここは人間の領域だから、俺は猫なんだ。意味は分かるか?」

 禅問答のようなことを言われ、チセは頭を捻った。

「人間の領域だというのは分かるけれど……」

 時間帯で言えば、今は夜――魔物の時間だ。

 だが、その中にあっても、外界ときっちり隔てられた人造の建物の中は安全な空間――人間の領域だ。人工の光に満ちていればなお良い。光の届く範囲、たとえば人家の庭などであれば、夜であっても少し歩くくらいなら問題ない。境界的だが、人間の領域でもあるからだ。

 その点、東屋ではいささか問題があった。建物ではあったが壁がなく、灯りも心許なく、人間の生活空間として作られていない。そういった場所では、夜の闇を遮断するまでには至らない。

「そういえば、東屋では人間の姿だったよね。ここは完全に人間の領域だから、昼と同じで、クロは黒猫の姿……ってことで、合っている?」

 昼間、クロがチセの前に現れたときと同じだと考えればいいのだろうか。猫だったはずのクロは、どういうわけか、夜の中でだけ人間になるらしい。

「合ってる。その通りなんだが……あっさり受け容れすぎじゃないか……?」

 クロは肯定したが、後半はぼやくような調子で尻すぼみに声が小さくなる。チセは首を傾げた。

 そのまま、なんとなく窓の外を見る。窓硝子が曇っており、蠢く木々の枝が視界を狭めてはいるものの、遠く低く瞬く無数の灯りがある。星々ではなく、街の灯りだ。この小屋の横には切れ込むように川が流れているが、小屋自体は少し高い場所に張り出すように作られており、遠景に街を眺めることができた。

 夜は魔物に支配される時間だが、人々はなにも息を潜めるように過ごしているわけではない。外に出ることこそ出来ないものの、建物の中では活発に活動を続けている。官庁や地方公共団体の庁舎などは大規模な建物が連結されているし、大きな街では地下街が発達していたりする。

 喩えるなら、蟻の巣のようなものだ。夜という広大な大地を穿つようにして、人々は活動空間を確保している。夜の中で人間は弱者だが、弱者なりにたくましく生きているのだ。

 夜は脅威だが、人間の技術は日々進歩している。その気になれば安全な空間だけで生活を完結させることができるが、かといって人々は外に出ることをやめられない。自然を相手にする第一次産業に従事する者でなくても、昼は外に出て太陽の光を浴びたいし、青空の下で新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みたいのだ。たとえそれが、夜には危険に満ちた暗黒の海に変貌するような空間であっても。

「猫は、人間よりは夜に親しいけれど……」

 チセは呟く。

 昼の世界に住むのは人間ばかりではない。愛玩動物や家畜もそうだ。人の手で管理されている命は、夜の世界に取り込まれればただでは済まない。異形と化したり、変死したり、行方不明になったり……人間よりも危険が低いとは言われているものの、可愛がっている犬や猫が夜に消えてしまえば、心配で気が狂いそうになるのが飼い主というものだ。

 動物よりもさらに危険は低いとされるが、植物も人間の管理下にあるものは夜の脅威に晒されると弱い。作物が駄目になったりすることも珍しくはなく、地域や時代によっては栽培よりも狩猟や採集の方が――野生のものを必要なときに求める方が――効率のいいことさえあった。

 そこまで考えて、チセははっとした。

「クロ……あなたは……大丈夫、なの……?」

 クロは飼い猫だった。そして、夜に消えてしまった。こうしてチセの目の前に元気そうな姿を見せてくれたのは本当に嬉しいし心から安堵したのだが、クロは本当に「無事」だと、「大丈夫」だと……言えるのだろうか?

「猫になったり人間になったりするくらいのことだったらいいのだけど。どこか痛かったりおかしかったりするところはない?」

 心配するチセを、クロは感情の読めない黄金の瞳で見つめた。体をしならせて床にすとんと降り立ち、窓枠に飛び乗る。チセと目線の高さが同じになり、距離が開いた。そして、平坦な声で言う。

「猫になったり人間になったりするくらいのことだったらいい……と言ったな? じゃああんたは、猫になれるか? 夜から生還するのにそれしか方法がないとして、猫として昼の世界に帰りたいと思えるか?」

「……っ……それは……」

 チセは言葉に詰まった。クロが猫であっても人間であってもいいというのは紛れもない本心だが、いざ自分のこととして考えてみると――

(…………それは、嫌)

 ――そう、認めざるを得なかった。

 自分という生き物の形を根本的に揺るがす変化。猫になったチセは、果たしてチセと言えるのだろうか?

 猫が嫌いというわけではない。それどころか大好きだし、猫になってのんびり日向ぼっこしたいなどと考えることもあった。だがそれは、しょせん空想の遊びに過ぎなかったのだ。

 人間でいるのが嫌になることもある、猫になりたいと思うこともある、だが、その、「思う」ことは……人間である前提によって成り立つものだった。

 無意識に、チセは首を振った。精神の奥底が掻き毟られるような忌避感。自分という存在を揺るがされることへの本能的な怖れ。

 夜の闇が、頭の中に染みわたっていく感覚がする。考えてはならないことに、触れてはいけないことに、手を伸ばしてしまったのだと意識が警鐘を鳴らす。

 ぐらりと体が傾ぐ。椅子に座っている感覚がなくなり、足を畳むようにして床に崩れ落ちる。クロの慌てたような声を聞きながら、チセは意識を手放した。

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