28
日はすっかり沈み、森の影が妖しく蠢いている。すでに夜が始まり、魔物の時間が来たのだ。
チセの想像に反して、冬の森は意外と明るかった。葉を落とした木々の枝は月明かりを遮らず、白々と雪の積もった地面が月光を反射する。かすかな星明かりさえ馬鹿にはならないもので、月に光を添えていた。
「……意外と明るいんだな。今日って満月だっけ」
「分からないけど、違ったとしても満月に近そう」
部屋の電気を消して闇に目を慣らしつつ、マナトと言葉を交わす。ざわざわと不自然に動く木々の影が心を波立たせる。
「……開けるよ」
無謀なことをしているとは分かっていたが、後には引けない。チセは小屋のドアを開いた。
しんと冷えた冬の森の空気が身を竦ませる。安全な小屋の中で、暖かいストーブの近くで座っていたい誘惑を振り切り、チセはおそるおそる一歩を踏み出した。マナトも緊張した様子でチセの隣に立つ。
夜にさらされ、夜に見られている感覚に、体が総毛立つ。そこにあるものが敵意や害意といったものではなくて、もっと純粋で、もっと致命的な――理なのだと今のチセは知っている。生き物の変容を促す理だ。
そもそも、生き物というものが、その在り方が、そういうものなのだ。夜も昼も、生命の一側面なのだ。
チセの横で、マナトが身を竦ませる。木の魔物がこちらへ触手を伸ばしていた。チセも身を固くする。
ひゅんと風を切ってこちらへ届こうとするその枝は、しかし届く直前で崩れた。ぼろぼろと不自然な崩れ方をした、その先を見ると――レイカがいた。闇から溶け出るかのように現れ、魔物に手を伸ばしていた。――魔物として。
「レイカ姉……」
「これを見ても、まだそう呼んでくれるのね?」
「助けてくれた、から……」
「そこらの魔物なんかに横取りされたくないもの。あなたは私の協力者だから」
レイカがマナトの頬に口付ける。マナトにまじないを施したレイカは、チセに向き直って微笑んだ。
「あなたも、私に協力してくれる?」
「…………」
「あの子に義理立てするの? 大切なことを黙っていて、あなたを裏切ったあの子に?」
「…………!」
クロを信じたい。信じきれない。レイカの言葉に心が簡単に揺さぶられる。
「……でも、レイカさんも同じじゃない。マナトを利用して夜の王になろうとしているんだもの。協力者は夜に囚われてしまうのでしょう?」
チセは言い返した。レイカは怯まない。
「そうよ。今のままならね」
「……どういう意味?」
「王になれば、世界を変えられる。候補者とともに夜の深淵に触れる協力者は運命を一にするものだけど……世界そのものが変わるならどうかしら?」
ざわりと、風もないのにレイカの黒髪が広がる。佇む彼女の存在感がぴりぴりと精神を圧迫する。
彼女が腕を振るうと、近くにいた魔物がじゅっと焦げるような音を立てて崩れた。
「私は魔物が嫌い。気持ちの悪いこの力も嫌い。ただ死を待つことに耐えられなくて、自分の手で決着をつけたくて、すべてを終わらせるつもりで夜の中に入ったのに、こんな訳の分からない存在にされて。病気を自分ごと消すつもりだったのに、その側面だけグロテスクに誇張されて魔物として在れと夜に言われて。どんな気持ちか分かる?」
チセもマナトも言葉を返せない。
「だから私は夜から魔物を消すわ。変容の理を根底から変えるわ。魔物なんていらない、姿なんて変わらなくていい。夜に魔物になってしまうかわいそうな昼の生き物たちを救ってあげる。人間を変容させる理を変えて、協力者を人間のまま返してあげる。だから私に、協力して」
峻烈なレイカの言葉は、夜を根底から否定するものだった。世界を変えてみせるという、世界に対する高らかな敵対宣言だった。
『――面白い』
レイカの声に呼応するように、言葉が返された。すうっと闇が凝り、人の姿をとる。
「誰だ!?」
驚いたのはマナトだけだった。トランプのキングを思わせる、しかし色が欠け落ちたその姿は、チセには覚えがあった。
「夜の王……」
「いかにも」
チセの呟きに、王が鷹揚に頷く。マナトは驚いて息を呑み、レイカは身構えて目を眇めた。
「そこなる少年には初めて会うな。余こそが夜の王。そなたらが打ち倒すべき敵にして、そなたらのすべてを受け容れる者だ」
王に敵意はなかった。こちらを見下して弱者と嘲る気配もなかった。その存在は、ただそこに在った。
「……なぜ、ここに出て来られるの? ここは夢の中ではないはずなのに」
レイカが緊張しながら問う。
チセと同じように、レイカも夢の中で夜の王に会ったのだろう。そして色々と情報を与えられたのだろう。彼女はトオルを助けようとするチセに助言をくれたが、そうした情報は夜の王から得たものなのだろう。トオルに直接助言しなかったのは、彼がチセのように夜に馴染んでいないから、チセのように協力者として求めにくかったから……昼の存在である彼を損なうのを嫌ったからだろう。レイカは魔物を、夜の理を、憎んでいる。
敵意をぶつけられながら、夜の王は気を悪くした様子もない。むしろ上機嫌に見える。
「余は夢の中に棲んでいるわけではない。夢が泡沫であるならば、集合的無意識は海。棲まいとして挙げるならばそちらの方が適切であろうな」
マナトもレイカも理解しきれないといった表情をしている。もちろんチセにもさっぱりだ。
「人の心は奥底で繋がっておる。個を超えて、心という観念すら超えて。夜はその具現化、ここは心の奥底の世界。夜に馴染んだ人間が三人もおれば、余が姿を見せるのも容易いこと」
人間、その言葉にレイカは息を詰まらせた。
「……そこの二人とは違う。私はもう、人間ではない。夢も見られなくなってしまった。魔物になってしまった。夜のせいで」
「定義次第であるな。魔物とは存在ではなく状態であるとするなら、そなたは人間であろう」
「……戻れないなら、同じことだわ」
レイカは唇を噛んだ。
「私は人間ではないし、魔物としても時間が残されていない。それでも、こんな状態のまま終わりたくはないの。王を探すために協力者の夢の中へ行く手間が省けたのなら、ちょうどよかったわ」
レイカが短く息を吸い、宣言した。
「ここで私は、夜の王を倒す!」
挑戦を受け、王の笑みが深くなった気配がした。