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裏切り。
その言葉にぽかんとして、チセの涙が引っ込んだ。どういう意味だろうかとレイカを見ると、そのレイカはクロのことをじっと見ている。つられてチセもクロを見ると、焦りを浮かべた彼の目と目が合った。
「えっと、クロ?」
別にクロを咎めようと思って呼んだわけではない。ほとんど関わりのないレイカの言葉を鵜呑みになんてするわけない。
それなのに、クロは焦った様子で目を泳がせた。明らかに怪しい。チセの心に、じわりと不安が滲む。
「あの、どういうこと?」
「それは……」
クロは説明しようとしたが、言葉が続かない。チセの不安がどんどんと大きくなっていく。
「だって、その子。候補者と協力者について、あなたに教えていないんでしょう? その時点ですでに怪しいわよ」
「候補者と、協力者って何……?」
クロとレイカ、どちらに向かって尋ねていいか分からない。頼りなく尻すぼみになった言葉にレイカが答えた。
「候補者とは――夜の王にならんとする者。王を倒すのは我だと、我こそはと名乗りを上げる者」
(…………!?)
夜の王。その言葉に、夢の中で出会った存在を思い出す。チセが触れたのはほんの上澄みのようなものだろうが、それでも底知れない英知に鳥肌が立った。
あの、圧倒的な存在を――倒す!? 夜を統べる王になる!?
そして、レイカは何と言っていたか。クロと競うようなことを言っていなかっただろうか?
「クロ……!?」
「……そうだ。俺は、夜の王になろうとしている」
「候補者が王を目指すにあたって、重要になるのが『協力者』。夜の存在は、独りでは王に太刀打ちなんてできないから。当然よね、一介の存在と世界の支配者とでは勝負になんてならないもの。だから、夜の外側から――昼の世界から、協力者を呼ぶの。救いや力は、世界の外側から来るのだもの」
驚いて何も口を挟めないでいるマナトとチセを見て、レイカは続けた。
「助けてと言ったのはそういうことよ。私を昼に連れ戻してほしいんじゃないの。それは不可能なのだもの。そうじゃなくて、私を助けて、私に協力してほしいの」
「……トオルに、助けてと言ったのは」
マナトがかすれた声を出す。
「言葉通りよ。私を助けてほしかったの。助力が欲しかったの。トオルならマナトに伝えてくれるとも思ったわ。あなたなら私のところへ来てくれると思っていた」
この状況をどう考えていいか分からないが、とりあえず目の前の情報を情報として、チセの頭が勝手に処理していく。心を置き去りにして、上っ面だけを理解していく。
「助けて」の言葉に悲壮感がなかったのは、そういうことだったのだ。救い出してほしいのではなくて、言葉通りに、助けてほしかったのだ。
大人に言うな、というのもだからだろう。レイカはマナトたちに、夜の中へ来てほしかったのだから。大人にそれが伝わったらとうぜん止められるだろうから、口止めしたのも納得がいく。
トオルを助ける力があっても、そこらの魔物と戦うのと夜の王になろうとするのとでは話がまるで変わってくるだろう。助けが必要だという彼女の言葉が、トオルに言ったことの意味が、どんどんと腑に落ちるものになっていく。
レイカは、他にも何か言ってはいなかっただろうか。トオルに対してではなくチセに対して、何か。
「……一人を助けるには、一人を差し出さなきゃ……」
その言葉を思い出して、こわごわとレイカを見る。レイカは機嫌がよさそうに笑った。
「ふふ、覚えていてくれたの? そうね、そういうものよね? トオルを助けてあげたのだから、見返りがあってもいいものね?」
言いながら意味深にマナトを見るが、マナトは何も答えられない。チセも口を挟めない。そんなチセに向かってレイカは少し意地悪く口の端を上げた。
「そういえばあなた、手足をくれると言ってくれたわよね? いらないと言ったけれど、代わりに頼んでもいいかしら」
「…………!」
夜の存在と取引をするのはろくなことじゃない。クロの言葉が頭の中を回る。あの時はトオルを助けたくてあまり深く考えずに丸呑みにしてしまったが、言質を取られたかたちだ。
何を言われるのだろう、とチセは身構えた。手足の代わりになるようなものなんて何があるだろうか。それとも、トオルの代わりに夜に囚われろということなのだろうか。
「簡単なことよ。少しその子から離れて、こちらへ来てほしいの。邪魔の入らないところでゆっくりと話したいと思っていたの」
チセは少しだけ緊張を解いた。そういえば、そんなことも言われていた。
「でも……」
ちらりとクロを見る。クロはチセだけを見ていた。レイカは笑う。
「その子をそんなに信じていいの? 自分の死期のことを話してあなたを揺さぶっておきながら、夜の王になろうとする大それた野望については口を噤んでいたのに。協力者について教えていないなら、このことも知らないんじゃない? ――協力者は、遠からず昼の世界に戻れなくなるのだということを」
「……――――!?」
チセは目を見開き、口を覆った。悲鳴を抑えた。協力者は、遠からず昼の世界に戻れなくなる――レイカのその言葉を、クロは否定しない。無言は肯定を意味している。
ひきつった自分の顔がクロの目にどう映っているのか、チセには分からない。レイカの言葉を咀嚼しきれず、とても冷静ではいられなかった。
「本当なの、クロ……? 私を、裏切ろうとしていたの……? ずっとそのつもりで、私を利用するつもりで、傍にいたの……?」
違う、と言ってほしかった。しかしクロは否定しなかったし、弁解もしなかった。何かを言おうとはしていたが言葉にならなかった。
秋の夜風が、鋭ささえ感じさせる冷たさを含んで吹き抜ける。髪や服の裾がはためくが、その音さえ沈黙をさらに強調するようだった。
長く重い沈黙が落ちる。