21
マナトの言葉に、息を呑む。
なんとなく、レイカは不慮の事故によって夜に囚われてしまったのではないかと思い込んでいた。マナトの親戚で大人しい少女であったという情報から、まさかトオルのように自ら夜に踏み込んでいったのだとは想像していなかった。
驚いてマナトを見ると、彼は目を伏せた。
「おじさんもおばさんも、僕の父母もそのことは知らない。言えないよ、……まさかレイカ姉が自分から夜の中に行ってしまうなんて。最後に会った僕だけしか知らなかったことだ」
「そうね。一人くらいは知っておいてほしかったから、あなたには仄めかしておいたの」
レイカの言葉はそのことを肯定するものだった。
「ずっと苦しかった! 僕のせいだと何度も自分を責めた! 僕が気付けなかったから、引き止められなかったからだと!」
マナトは叫ぶように心情を吐露した。聞いているだけのチセさえ胸を締め付けられる心地がする。レイカもさすがに心を動かされたような表情をした。
「……ごめんね。苦しめるつもりはなかったの。ただ、私自身が望んで選んだことなのだと知っておいてほしくて……」
「望んだ!? 選んだ!? 何を!」
「――死に場所を」
密やかに、レイカはその言葉を口にした。ひゅっと喉を鳴らしたのはマナトか、それともチセかもしれない。クロは感情の読めない顔でやり取りを見守っている。
「マナトは知らないはずだけど、私の病気、治る見込みのないものだったの。保ってあと数年だと言われたわ。あなたには普段通りに接してほしかったから、お父さんやお母さんに、マナトには言わないでって頼んだの」
「……そんな! 嘘だろう!? レイカ姉!」
信じられない、信じたくないとばかりにマナトが叫ぶ。嘘だと思っているのではなく、嘘であってほしいと痛切に願っているのがチセにも分かった。
「……それは、本当のことだろうな」
ずっと黙っていたクロが言った。レイカに視線を向け、どこか通じ合ったような視線のやり取りを交わす。
「……どういうことだ?」
「そいつの死期の話だ。保って数年だと言われたのだろう? それから三年くらいが経った。そうだろう?」
「……だったら、何だ?」
「当ててやろうか。そいつは今になって、お前の前に姿を見せた。当時のままで、夕暮れ時に。そしてお前を夜に誘った。そうなんだろう?」
クロが淡々と、問題を解いていくような口調でマナトを問い詰める。マナトは強張った顔で浅く頷いた。
「なら、そういうことだ。そいつの肉体の寿命が来て、精神との繋がりが揺らいだんだ。もう昼の肉体など無いも同然でとっくに変質しているが、それでも精神はその形に縛られていたから。逢魔が時に、あわいの時間に、昼の世界の心残りに会いに行けるのはそのタイミングくらいしかないから」
「…………!」
マナトは衝撃を受けたようによろめいた。レイカがその腕を支えるが、マナトを見る視線には憂いしか浮かんでいない。クロの指摘に怒る様子も――否定する様子も、見せない。
マナトに一拍遅れて、チセの顔からも血の気が引いていく。
(夕暮れ時に姿を見せて、夜に誘う……死期……肉体の寿命……!?)
それはいちいち、クロに当て嵌まる。チセはぎこちない動きでクロの方へ顔を向けた。
クロは静かな、やるせない眼差しでチセを見下ろした。
「……そうだよ。俺もそいつと同じだ。俺の死期はこの夏だった。昼の世界には戻れないし、この体や心も、いつまで保つか分からない」
がんがんと耳鳴りがする。頭痛もひどい。耳から受け取った情報を脳が処理したくなくて、耳と頭を切り離そうとしているかのようだ。
(……嘘! そんなの嘘! クロがもう……死んでいるはずだ、なんて……!)
そもそも、夜に消えてしまった時点で死の可能性は頭をよぎった。むしろその可能性が最も高いものだった。
それなのに、元気そうな姿を見てしまったから。チセと言葉を交わして、チセを魔物から救って、チセをからかって……そんな普通そうな様子を見てしまったから。
彼の体が、心が、死を抱えているなんて、気付けなかった。
……いや、嘘だ。気付こうとしなかっただけだ。突き詰めるべき違和感はあったというのに、目を背け、耳を塞いでいただけだ。
トオルから、レイカの姿が中等学校の二年生くらいであると聞いたとき。チセが失った子猫が、人間であればチセよりも少し上くらいの年齢に換算できることから――再会したクロの年齢がそのくらいに見えることから――目を背けるべきではなかった。
クロも言っていたではないか。チセは重要なことを忘れていると。知ってて知らないふりをしているのか知らないが、と。
猫の寿命は人間よりもずっと短い。それにしても子猫の状態から五年というのは短いように思うが、死期というのは天寿以外の要因で早まるものだ。レイカもそうだし、クロもそうだったということだろう。
チセは馬鹿だったのだ。考えなしだったのだ。クロを昼の世界に取り戻したい、一緒に暮らしたい、だなんて。クロはどんな気持ちでチセの戯言を聞いていたのだろう。
「……ひどい顔色だな。なんだ、その顔」
のろのろと顔を上げると、クロが笑いを堪えるような表情でチセを見下ろしていた。蒼白だった顔にかっと血の気がのぼったのを自覚する。
「私がっ! どんな気持ちで、いると……!」
心の内を言葉にできず、しゃにむに掴みかかろうとしてしまう。クロはチセの腕をやんわりと掴んで止めた。そうできてしまうことに、チセの腕を掴む彼の手に体温があることに、堪え切れず涙が溢れてきてしまう。
事情はどうあれ、クロは今ここにいるのだ。この先の保証がなくても、悲観的な見通ししかなくても。今を一緒に過ごせることをありがたく受け取って全力で味わい尽くすべきなのに。
とても、そんな冷静にはなれなかった。
「馬鹿だって思ったんでしょう!? あなたを昼から取り戻すとか、何も知らずに言った私のことを! 無理だって知りながら、心の中で嘲笑っていたんでしょう!?」
八つ当たりだ。そのことは自覚していたが、ぶちまけずにはいられなかった。
クロは、仕方ない奴だとでも言いたげな表情で、困ったように少し笑った。
「嘲笑うとか、そんなことはないよ。そう言ってくれて嬉しかったし……なんだか、不可能ではないような気さえした。お前なら本当になんとかしてしまうんじゃないかって」
チセは泣きながらクロの胸に顔を押し付けた。クロの手がチセをあやすように背中を撫でる。その優しい手つきがさらにチセの涙を溢れさせた。
「……~~っ! できるはず、ないじゃない! できるならしたいよ! 私、ただの子供だよ!? クロみたいに強くないし、マナトみたいに頭もよくないし、調べても学んでも届かない! どうすればいいの!?」
泣き喚くチセの背中をクロが撫で続けてくれる。その規則的な動きに、少しずつチセの心が静まっていく。その手の温かさを思うとまた泣けてきてしまいそうだったので、チセはつとめて何も考えまいとし、心を落ち着けて涙を止めようと試みた。
ようやく落ち着いてクロの胸から顔を上げると、まじまじとこちらを見ているレイカと、居心地が悪そうに目を逸らしているマナトが視界に映った。そういえば今は二人きりではなかったのだった。すっかり失念していた。
「……あの、ごめんなさい……」
取り乱してしまったことを謝ると、レイカもマナトも首を横に振った。
「いいえ。そこまで思われてその子も幸せ者ね」
「僕も気にしてないよ。むしろ僕の代わりに言いたいことを言ってもらった感さえある。無力感を覚えているのは僕も同じだしね。……それと、チセは頭いいと思うよ」
「二人とも……」
慰めてくれてありがとう。そう言おうとしたときのことだった。
レイカが爆弾を投下した。
「でも、その子を選ぶのは止めた方がいいと思うわよ。あなたを裏切ろうとしているから」