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猫は駆け続け、やがて大きな公園の中に入り込んだ。山裾に位置する自然公園だ。
公園のスピーカーからは、夕暮れ時を告げる音楽とアナウンスが流れている。
――日没まであと一時間です。繰り返します、日没まであと一時間です。お帰りの際はお忘れ物のないようご注意ください。夜間のご来園は非常に危険ですのでご遠慮ください――
帰宅を促すアナウンスの警告の響きを聞き流し、チセは猫を追う。
広場を抜け、水生植物園の橋を辿り、猫は逃げる。チセが追い続けられるくらいの速度ではあったが、坂が多いせいもあり、チセの体力はかなり削られていた。息が上がって、まともに声を出す余裕もない。
「待っ……て、クロ! 会い……たかっ、た……! ずっと、探し、て、たの!」
息を切らしながら必死の思いで訴えかけると、猫は走りながら、ちらりと視線を寄越したようだった。
(クロ、クロ……! お願い、待って……!)
ここで別れたら、もう二度と会えない。ふたたび見つけられたことは奇跡で、きっとこれきりなのだ。チセの勘はそう訴えていた。切羽詰まった声に、猫は振り向いて、それでも足は止めない。
なぜか、猫はチセの視界から消えることをしなかった。誰かの家の庭に入り込んだり、側溝に身を隠したりなど、チセが追い続けられなくなる道は選ばなかった。速度にしたってそうだ。本気を出せばチセの足ではとても追いつけないだろうに、わざと本気を出さずにいるかのように。
猫はどんどん速度を落とし、いつしか歩いていた。チセは必死に息を整えながら猫を追う。わずかに体力が回復して走って距離を詰めようとすると、猫も再び走り出す。こちらが走らなければ猫も走らない。チセはいつしか導かれるように、猫の後をついて公園の遊歩道を辿っていた。
遊歩道はそのままハイキングコースに続く。チセはいつのまにか、山に入り込んでいた。日は傾いていき、道は暗くなっていき、世界の輪郭がおぼろになっていく。夜がやってくる。猫の姿が闇に溶け込むようにして、そして――
「きゃあっ!?」
突然、チセの体が傾いだ。薄暗くなって気付かずにいたが、木の根元の出っ張りがあったらしい。足を取られてつんのめり、足元を見た、そして、
「いやあっ! 何、これ!?」
木の根に足をひっかけたのかと見れば、自分の足首に、何かが巻き付いている。木の根の形をしたそれは、真っ黒な影だった。得体の知れないものが自分を捕まえ、引きずり倒そうとしている。背筋に震えが走った。
「魔物!? やだ、いやあっ!」
足を振り回して逃れようとしたが、影は足に絡みつき、足が動くのは許しても、逃しはしない。掴まれている感覚がないのが余計に恐ろしくて、チセは悲鳴を上げた。
黒い影と化した木が、笑ったような気がした。樹皮の裂け目がにやりと不気味な笑みを形作り、枝が黒い鞭のように伸びてくる。
気付けば、辺りには薄闇の帳が降りて、木々が影絵のように闇に染まっている。明るさは残っているが、すでに日は沈んだのだ。
夜。魔物の時間がやってくる。
光の届かない世界で、魔物と化した動植物が、人に牙を向ける。
「…………!」
その時、ようやく、チセは自分の身に起きたことを悟った。
昼は人間の時間。夜は魔物の時間。だから、人は決して、夜に出歩いてはならない。もしも、それを破ったならば――
――人は、夜に囚われて帰れなくなってしまう。
悲鳴は、言葉にならなかった。ひきつれたような音が喉から漏れるだけだ。
恐い。震えが止まらない。
でも、不思議なほど後悔はなかった。
猫を追いかけなければ、追いかけても途中で諦めて帰っていれば、こんな目に遭わず、今頃はいつも通りに家で明るい食卓を囲んでいられたのだろう。
それでも。
「クロ……」
なんだか、いつかこうなるような気がしていたのも事実だった。弟のように可愛がった子猫を失ったときから。
クロが失われたときから、チセの心の一部にもぽっかりと穴が開いていたのだ。
心残りがあるとすれば、
(もう一度、クロを撫でたかったな……)
柔らかくもつるりとした毛並みを、もう一度撫でたかった。
美しい黒い毛並とは似ても似つかない、禍々しい枝の影が一直線に伸びてくる。ぎゅっと目をつむろうとした、その時だった。
空気が、撓んだ。
叫び声を上げるように、枝が大きくのけぞった。金属的な甲高い音が響く。
見れば、誰かがチセを背に庇って、木の影を退けている。武器を持っている様子はないが、影と何かがぶつかり合って悲鳴じみた音を立てていた。
どうやら少年らしきその人物は腕を薙ぐようにして、チセの足元に巻き付いていた影を断ち切った。足を掴んでいた影はあっけなく霧散し、その反動でチセは地面に倒れ込みそうになった。
と、体に腕を回され、声を上げる間もなく抱え上げられた。
何が起こっているか分からないのに、誰か分からない人に抱え上げられているのに、不思議と怖くはなかった。暗闇の中で光を探り当てたかのように安心感が灯る。
少年の腕の中から、チセは自分を襲ってきた木の魔物を見た。枝や根が鞭のようにしなり、こちらを威嚇しているが、伸びてはこない。誰だか分からないが、助けてくれたのだ。
「あの……」
「話は後で」
低い声がチセの言葉を封じる。そうして木から目を逸らさずに後ずさりし、十分に距離を取ったと見たところで身を翻し、少年はチセを腕に抱えたまま駆け出した。
速い。チセは驚いて少年の顔を見上げ、さらに驚いた。
暗闇に目が光り、金の月のように輝いている。
間違いない、この目は、
(クロ……!?)
夜目が利くのだろう、少年は暗くなっていく森の中を危なげもなく走る。枝も根もすべて見えているだけでなく、異形と化して襲ってくる動きにまで反応して避けている。人間離れした身体能力だった。
小川に沿った遊歩道に出て、ほどなく小さな建物が見えた。森の分かれ道のところに作られた東屋だ。
少年は東屋に飛び込み、屋根に設置されている蛍光灯――曇りや雨の日に使うためのものだ――の紐を引いて手早く明かりを灯した。
その途端、波が引いていくように、闇が遠ざかっていく気配がした。人工的な灯りが点いて、ここだけ夜が薄くなっている。
そうしてようやく、少年はチセを離した。東屋のベンチにチセをそっと下ろし、顔を背けるようにする。
少年は、チセよりもいくつか年上のようだった。格好はとくに変わったところはない。普通のシャツにズボン、足元はスニーカーだ。それなのに人ひとりを抱えて森の中を飛ぶように走れるなど、普通では考えられないことだった。
艶のある黒髪、その左こめかみのあたりに一筋だけ白が混ざっている。振り向けばきっと、その目は金色に光っているのだろう。
「……クロ?」
チセは立ち上がり、呼びかけた。少年の肩がびくんと揺れるが、振り向かない。
でも、その反応が否定ではないことは分かった。この少年が、かつてチセと姉弟同然に育った猫なのだ。
「クロでしょう? 隠しても分かるわ。お願い、こっちを向いて。お礼を言いたいの。助けてくれたのでしょう?」
「…………」
逡巡する気配はあったが、それでも少年は背を向けたままだ。
チセは手を伸ばし、少年の髪に触れた。少年が大きく震えるのにも構わず、そのまま手を滑らせて黒髪を撫でる。ゆっくりと大きく、次は手の甲も使って撫でつけるように。
ゆっくりと撫で続けていると、次第にチセの心が落ち着いてきた。少年の体からも強ばりが解けていく。
クロはこうして撫でられるのが好きだった。変わらない、とおかしくなり、チセは含み笑いをした。
くぐもった笑い声が聞こえたらしく、少年がむっとしたような顔で振り返る。チセと目が合い、はっとしたように逸らそうとするが、チセはそうさせまいと視線をしっかりと絡ませ、金色の瞳をじっと見つめた。
しばしの時が過ぎ、観念したように少年が息をつく。
「……そうだよ、俺がクロだ。あんた、俺を忘れていなかったんだな」