19
薄く微笑みつつ、レイカははっきりと言った。チセが息を呑み、マナトが唇を噛む。
「昼の存在が夜の中で心を保てないように、夜の存在は昼の中で体を保てない。私は昼から来たけれど、もうとっくに夜に染まってしまっているから」
残念そうにするでもなく、レイカは淡々と語った。
レイカが昼に戻れない理由というだけでなく、彼女の言葉は聞き流せなかった。昼の存在は夜の中で心を保てず、夜の存在は昼の中で体を保てないという部分だ。そのことには信憑性がありそうだった。
(クロが夕暮れや朝方に猫の姿になっているのも、そういうことなのか……)
チセは朝のクロを直接見てはいないが、公園管理の人を呼んできてくれたクロは猫の姿だったはずだ。夜の中での形を保てていないのだ。
そしてもう一つ気になるのが、夜にたびたび踏み込んでいるチセ自身についてだ。
(昼の存在は、夜の中で心を保てない……)
戦慄せずにはいられなかった。少しずつ夜に馴染んできている自覚もある。この心が形を失ったら……どうなるのだろう?
身震いし、チセは自分の腕をさすった。秋風が冷たいからというだけでなく、体も心も冷え込んでいく心地がする。
ふと、目の前を枯葉が舞った。チセは見るともなしにそれを目で追い、枯葉から蝶を連想し――
――気付けば、花野にいた。
(ええ!? どういうこと!?)
思わず声を上げようとしたが、声が出ない。あたりはやさしい風と春の陽光に満ちたのどかな花の野で、夜の魔物の影も形もない。今まで一緒にいたはずのクロたちの姿もない。
差し迫った脅威はなさそうだが、不可解な状況に変わりはない。景色を楽しむことなどできるはずもなく、チセはあたりを見回した。
色とりどりの花が風に揺れている。寝転がって花々に埋もれることができれはさぞかし気持ちがいいだろう。青い空も春の淡い色合いで、雲がのんびりと流れていく。
ちょっとだけ誘惑に心が揺れるが、はたとチセは気付いた。話すことができないばかりか、体も自由にならない。
なんとか体を動かそうと懸命になり、努力のかいがあって体が動いた。少し揺れるように前へ進む。なんだか動きがおかしくてつんのめりそうになるが、なぜか転ぶことができない。視線は地面から遠いまま、ぐるんと地面の方へ向く。
吹いてきた風に体がさらわれそうになり、チセの体がふわりと浮いた。――いや、もとから浮いていた。
ひらりと、視界の端で鮮やかな蝶の羽が揺れる。そちらに視線を向けようとしても向けられない。――その羽が、チセの背中から生えているからだ。
(なにこれ!? どういうこと!?)
恐慌状態になり、無暗に体を動かす。ばさばさと羽ばたく音がして、チセの体が――蝶になった体が――空中でもがくように暴れた。
不意に、クロの言葉が脳裏によみがえる。
『――じゃああんたは、猫になれるか? 夜から生還するのにそれしか方法がないとして、猫として昼の世界に帰りたいと思えるか?』
人間であるチセの形を捨てられるのかとクロは問うた。チセの心はその問答に耐え切れず、昏倒することになった。山の管理小屋でのことだ。
自分の形が変わってしまうというのは、こんなにも耐え難いものなのか。その時の問答が予習のようになっていなければ、チセの恐慌と混乱はこんなものでは済まなかっただろう。それこそ――心を再起不能なまでに損なってしまっていだだろう。
昼の存在が夜の中で心を保てないというのは、こういうことなのだろうか。
蝶になってしまったチセと、チセの心を知らぬげに風にそよぐ花々。風景画としてなら美しいだろうが、その美しさが皮肉になるくらい、事情としてはグロテスクだ。
(本当に、どういうことなの!? 誰か教えて……)
状況を理解する前に精神が参ってしまう。チセは力なく心中で呟いたが、その懇願にいらえがあった。
『――胡蝶の夢』
男性とも女性ともつかない、年齢も読めない、聞き覚えのない声がチセの疑問に答える。
しかしその答えは、答えになっていなかった。
(あなたは誰!? 夢って、何!?)
夢――聞き覚えのない言葉だ。胡蝶は蝶のことだと分かるが、夢とは何のことだろか。心が掻き乱されるような、奇妙に誘惑的な響きの言葉だ。
チセの問いに、声は少し笑ったようだった。
『答えてやろう。ここまで辿り着いたのだから。ここまで――夜の、夢の中まで』
(夢の中……)
チセのいるここは、夢というものの中なのか。夢とは花野のことなのだろうか。
『それは違う。そこが春の野であるのは、そなたが蝶から花を連想し、蝶が遊ぶ花野を脳裏に思い描いたがゆえに。夢とは特定の場所ではなく、脳が情報を処理し、整理する過程で生まれるものというだけだ。少し語弊はあるが、平たく言うと幻想だ」
(ええっと……)
チセには理解しきれない。夜に関わるものはどうして、こうもいちいち小難しいのだろうか。チセはまだ初等学校の生徒だというのに。言っても仕方ないが、少しくらい手心を加えてほしい。難解すぎてついていけない。
声はまた少し笑った。
『そう言うでない。そなたはなかなかいい線を行っておるぞ。言語化できるような理解ではなくても、直感的に理解しておる。頭が柔らかいのは夜の中で助けになる。もしも考え方が凝り固まった者であれば、とっくに壊れておるだろう』
ぞっとして、チセは蝶の羽を震わせた。簡単に言うが、壊れたらどうなるのか考えたくもない。人間は玩具ではないのだ。
『さて、そなたの疑問だが。余が誰かということについては、夜の化身であると答えよう。こう言った方が伝わりやすいか。――夜の王だ』
(…………!)
その言葉には重みがあった。その言葉が真実であると、チセの心の深いところが否応なく理解している。
夜の王。夜を、この不可解で幻惑的な世界を統べる存在。そんな途方もない存在と、言葉を――というか、思念を――交わしている現状に眩暈がする。そろそろ卒倒していいだろうか。
声はまた笑った。
『構わぬが、勧めはせん。目覚めるかどうか分からんぞ。幸運にして目覚めたとて、人間として目覚められる保証などない。現実逃避は命取りになると心得よ』
(…………。……心得ました……)
すうっと、花野に黒い人影が現れた。豪華で重そうな王冠を被り、重厚な衣装を着ている。しかし不可解なことに、王冠は金属に見えるのに色がなく、衣装も模様はあるのに色がない。格好としてはトランプのキングのイメージに近く、それを白黒にしたような感じだ。
そして、顔の部分は影になってまったく見えない。剣を持つ手には手袋が嵌められており、長い衣から覗くのは靴先ばかりなので、素肌の部分は顔くらいなのだが、その顔がまったく見えない。光の加減などではなさそうだった。
姿を現した夜の王に、チセは本能的に恐れを抱く。ひれ伏した方がいいのだろうかと思うが、あいにくひれ伏す体がない。
『よい。楽にせよ』
声にまた笑いの響きが混ざる。王はどうやら笑い上戸らしかった。
『改めて、余は夜の王。夜の化身にして代弁者、遍在する者にして潜在する者。人間の心の奥深くに住まう者。夜と――集合的無意識の闇と――存在を一にする者だ』