18
坂を下り、国道を横切り、海の方へとなんとなく足を向ける。街路樹が化した奇形の魔物たちがチセに触手を伸ばすが、襲い掛かってはこない。クロのまじないが効いているのだ。
チセはあてどもなく彷徨うように歩き、クロがその隣を足音も立てずに歩く。不思議な夜の中での冒険に、チセの頭は眠気を訴えてこない。本当ならとっくに眠りについているはずの時間なのに。
秋は日暮れが早く、夜が長い。人が活動できる時間が短い。建物の中ではそれぞれに活動を続けている人もいるはずだが、夜の中で建物の明かりは星のように頼りない。
そんな時間のなか、クロのほかの誰にも知られずに夜の中を歩いているのだ。後ろめたさと同時に、否定できない高揚感と優越感さえ覚える。
(――いけない)
チセは首を振り、自分を戒めた。そんな浮かれた考えで夜の中を歩くのは自殺行為だ。いや、そもそも夜の中を歩くこと自体が自殺行為なのだが。
今一度、自分の目的を思い出す。クロを夜から連れ帰ることと、レイカを助ける――少なくとも、助けられた分の恩を返す――ために、その手掛かりを得ることだ。
昼の世界で出来ることをしたが、直接的な手掛かりは得られなかった。今、こうしてクロの助けで夜の中に踏み込んでいるのだから、何らかの情報なり成果なりを持ち帰りたい。漫然と歩いていてもそれらが得られないことは分かった。
チセは尋ねてみた。
「クロ、レイカさんって知ってる?」
「いや、覚えがないな」
クロは首を横に振った。
確かに、昼の世界ではクロとレイカの接点はなかっただろうと思う。チセがクロを拾ったとき彼はほんの子猫だったし、チセがレイカと――というよりも、マナトと――遊ぶようになったのはクロを失った後のことだったはずだ。カナにはクロを見せた覚えがあるが、トオルやマナトと親しくなる前のことだったと思う。クロが拾われる前に会っていたら分からないが、それでもクロは本当に幼かったから覚えていないだろう。猫の記憶がどうなっているのかは知らないが。
でも、夜の世界ではどうか。彼女はクロと関わりがあるようなことを――もしくは、関わりができるようなことを――仄めかしていたような気がする。
「この前、クロには聞こえていなかったけど、私には聞こえていた声。女の子の声だったのは分かるんだけど、その人がレイカさんっていうんじゃないかと思っていて……」
『――そうよ?』
「……!」
「チセ?」
いきなり話しかけられて驚くチセに、クロが怪訝そうな顔を向ける。
「クロ、やっぱり聞こえてないの!? 私に話しかけているあなたは、レイカさんでいいのよね?」
『ええ。また縁があったわね』
「ええと、久しぶりね……? あの、あなたがトオルに助けてと言ったと……」
『せっかくだから、会って話しましょうか』
この機会を逃がすまいと話しかけるチセに、レイカは含み笑いをして言った。
「えっと……」
チセはたじろいだ。やはり彼女からは「助けて」というような切羽詰まった印象を受けない。この誘いは、何かの罠だろうか。
「……クロと一緒でもかまわない?」
「いいわよ。ずいぶんその子を信頼しているのね?」
その声は楽しげで、チセをからかうような響きを帯びていた。そこになんだか不穏なものを感じて、チセは警戒心を高める。
「おい、俺の名前が出たみたいだが」
『そうね、その子に連れてきてもらいましょう。昼の感覚を持っているあなたでは来るのに時間がかかるから」
レイカは言い、クロに伝えるようにと前置きしてから続けた。
「レイカが――あなたと競う者が、候補者と協力者を呼んでいると伝えて」
「? 分かったわ」
意味は分からないが、どうすればいいのかは分かる。チセはレイカの言葉をそのまま繰り返した。しかし、候補者や協力者とは何のことだろう。どちらかはクロを、どちらかはチセを指すのだろうが。
「…………」
レイカの言葉を伝えられたクロは沈黙した。言葉の意味が理解できないゆえの沈黙ではなく、理解したがゆえの沈黙であることは分かった。クロは何事かを思案し、葛藤している。
「…………。そいつに会いたいか?」
「会いたい。トオルを助けてくれたお礼を言いたいし、聞きたいこともあるもの」
「……そうか」
言葉少なにクロは頷いた。
「……潮時かもしれない。いつまでもこうしてはいられないのだから」
小さくつぶやく言葉は、チセにはよく聞こえない。クロが自分に向かって自戒するように言ったものらしかった。
「……分かった。連れていく。俺にとっては街の形が意味をなさないから、そいつのところに直接連れていける。手を離すなよ」
言うと、クロはチセの手を掴んだ。離すなとは言われたが、離そうと思っても離せないくらいにがっちりと掴まれている。
街の形、と言われておぼろげに思い出すことがある。確かクロは以前、人間にとっては世界の形が定まっており、夜の中でもその延長で世界を理解しているのだということを言っていた。何を言われたのか分からないし、今でも分かっていないが、結果だけは明確だった。クロに手を引かれたチセは、何かを潜り抜けるような感覚のあと、髪の長い少女の目の前に立っていたのだ。
昼の理に縛られ、街の形を昼の形でしか理解しないチセには、空間を飛び越えるような芸当はできない。ほんの一瞬前までは坂の下にいたはずが、今は公園の中にいる。魔物が蠢いて昼とは様相が変わってしまっているが、おそらくは市民会館のところの公園だろう。結構な距離を一瞬で移動したことになる。
レイカらしき少女が目の前にいること、距離を無視して公園まで一足飛びに連れてこられたこと、どちらも驚いて混乱すべきことなのだが、それよりも大きな驚きが目の前にあった。
「マナト!?」
「チセ!?」
少女の横に、少年が――マナトがいる。チセが驚いて声を上げると、マナトも同じくらい驚いた様子で声を上げた。どうやらチセの見間違いではないらしく、瞬きをしても少年が消える気配はない。
「どうして君がここにいるんだ!? それに、そいつは誰だ!?」
「ご挨拶だな、お前こそ誰だよ。まあ、昼の世界でチセの近くにいる奴だというのは分かるが」
「……彼女とはクラスメートで、調べ学習で同じ班だ。名前はマナト。……君は?」
少し冷静になったらしいマナトが簡単に自己紹介をし、口調を改めて問う。
「クロ」
「クロ? 珍しい名前だな。それとも苗字由来のあだ名か?」
「どうだっていいだろ、そんなこと」
クロはふいと顔を背け、マナトは困惑した様子だ。
「どうなっているんだ? 僕は幻覚でも見ているのか?」
「この二人はね、私が呼んだの」
「レイカ姉……!?」
マナトが隣を見る。薄く笑ってそう言った髪の長い少女は、やはりレイカなのか。チセは話しかけた。
「あなたがレイカさんなのね。久しぶり、でいいのかな」
「そうね、いろんな意味でね」
話すのは数か月ぶりだし、会うのは何年ぶりだろう。記憶も定かではない。
「その、トオルを助けてくれてありがとう。私に助言をくれてありがとう」
助言……? とマナトが首を傾げている。レイカは軽く首を振った。
「いいのよ。私がしたくてしたことだから」
「いろいろ知っていて力もあるのに、助けて、ってトオルに言ったのはどうして? 何から助けてほしいの? トオルもそうだけど、昼にいる私たちに出来ることがあるの? 大人に言うなっていうのも分からない。大人に助けを求めないの?」
怒られるから、とかいう理由ではないだろう。トオルでもあるまいし、そもそもそんな次元の話ではない。レイカはすでに夜に呑まれ、数年を経ているのだ。
本来ならレイカは高等学校に通う年齢だという。だが、チセの目から見ても、レイカはチセやマナトよりわずかに年上というくらいにしか見えなかった。
「そもそも、助けて大丈夫なの……? 昼の世界に戻ったら……」
「戻れないわ」