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夜想  作者: さざれ
16/31

16

 秋の月が夜空に煌々と輝いている。その光は世界を照らし出すのではなく、むしろ濃い影を落とすように妖しく降り注いでいた。

 昼の間はともかく、夜の道を出歩く人などいない。ごくごく近所の家を除けば部屋の中を見られる心配なんてないのに人々がカーテンを習慣的に閉めてしまうのは、この誘惑的な月の光を遮断したいがためかもしれない。そんなふうにも思ってしまう。

 夜になったらカーテンを閉めるのが当たり前だが、チセはこのところ、その習慣を守っていない。もしかして、と思ってしまうからだ。

 今日は、その期待が報われた。

 窓枠の上に、ひそやかに黒猫がやってきた。月光に黒い毛並みが照り映えて美しく、黄金の瞳は神秘的な満月のようだ。

 しばしチセは見とれ、クロはそんなチセをじっと見上げる。

 開いた窓から、秋の風――木々の葉を落とし、枯葉の匂いを含んだ、凋落の気配を纏った風――が流れ込んでくる。物寂しく、物狂おしく、わけもなく泣きたくなるような切なさを覚える季節だ。

「クロ……」

 会いに来てくれて嬉しい。会えて嬉しい。この夜の中では何を言っても紛れてしまいそうな気がして、チセはただ名前だけを呼んだ。

「また、まじないをしてほしいか?」

「……!」

 チセはかあっと頬を赤くした。それは要するに、キスをしてほしいかということだ。

 してほしい、なんて言いたくない。でも、このままクロを帰したくもない。

 チセの葛藤を見透かすようにクロは意地悪く笑った。

「いらないか。じゃあ帰ろうかな」

「待って!」

 とっさに引き留めるものの、言葉が続かない。羞恥心が勝るのも理由だが、この状況が恐ろしいのも大きな理由だ。このままずるずると夜に馴染んでいった先に何があるのか、明るい想像はできない。

 それでも、機会を逃したくもない。

 調べ学習は順調に進んでいるが、子供が頑張って調べたり考えたりしても限度がある。状況を変えうるような新しい発見などあるはずもなく、レイカのことにも手が届いていない。このまま春を迎えて班が解散してしまえば先のことがどうなるかも分からない。マナトは一人で努力を続けるだろうと思うが、飽きっぽいトオルはどうか。レイカへの義理と、彼の気性――昼が似合い、根本的に夜とそぐわない――のどちらが勝るか、チセには予測がつかない。カナもそこまでレイカを助ける強い動機があるわけでもないから、三班が解散したらレイカを助ける話は立ち消えになる公算が高そうだ。

 それはチセにとっても困る。助けてほしいという彼女の言葉をそのまま受け取れないとはいえ、彼女のおかげでトオルが助かったのは事実なのだ。トオルを守ってくれて、チセに助言をくれた。その恩には報いなければいけない。

 だから、彼女についての手がかりひとつ得られず時間が過ぎていく現状には歯痒さを感じていた。

 薄々、チセは気付いている。夜に踏み込んだことのあるトオルも、レイカを助けたいであろうマナトも、あまり直接的には彼女に関わりのないカナでさえ気付いているだろう。レイカを助ける手がかりは夜の中にあるのだということを。

 自分たちで調べられる範囲のことは調べた。思いつく限りの考えを出し合った。それでなお届かないのだから――危険を冒すしかない。

 こくりと、チセは喉を鳴らした。

 レイカのことも、クロのことも。時間は無限にあるようでいて、その保証など全く無い。現実的にも、三班が解散する時期が刻一刻と迫ってきている。

 クロからの誘いを、断れる余裕なんてない。

「……お願い。おまじないをして」

「屈め」

「……うん」

 目を閉じると、今度は頬に口付けられた感触があった。猫のひげが当たってくすぐったい。

 前回は額。今回は頬。その位置に何か意味があるのかとちらりと疑問がかすめたが、すぐに霧散した。位置がどこであれ、キスはキスだ。冷静に受け取れるものではない。

 動揺をつとめて抑えていたチセは、他にもっと危惧すべきことがあるのに気付かなかった。

 まじないの効果が高まり、制限時間が伸び――段階が進む。夜がチセに対して次第に害をなさないものになりつつある。

 そのことの意味を。


 木枯らしの吹く月夜にアスファルトの道を歩きながら、チセは不思議な気持ちで辺りを眺めていた。

 最初は魔物の影が道を走っていくたび、魔物と化した草木が不気味に動くたび、いちいち怯えていたのだが、クロのまじないは確かだった。それらはチセに危害を加えようとせず、拍子抜けするほど普通にチセは道を歩けている。前にまじないをしてもらった時もそうだったと思うのだが、トオルを助けないとと焦って頭がいっぱいだったのであまりよく覚えていないし、あたりを観察する余裕もなかった。

 そうしてみると、恐怖心の次に湧いてくるのは好奇心だ。

 昼間とはまったく違った様相を見せる夜の住宅街。木立。空。

 冴え冴えと射す月の光は、太陽のそれとは違って大地を暖めることがない。冷たく妖しげな光は魔物たちに害をなさず、蠢く影たちはむしろ月光を喜んでいるように見えた。

 魔物と化した小動物たちが街路樹の根元に集まり、一つの影の塊となって縺れ合うように動いている。それを見下ろす街路樹は蜘蛛の巣のような枝を空に伸ばして空から水を吸うようにゆっくりと蠕動し、飛んできた蝙蝠が枝に留まるや否や吸い込まれるように掻き消えた。

 まるで秩序がなく見える、昼の世界の悪趣味なパロディのような様相を呈する夜の世界。ここでは植物が動き出し、動物が掻き消え、殖えたと見れば減る……人間の理解を拒むような出来事がそこここで起こっているのだ。

 月光でできた木の影が動き出し、ふらつくように通りを横切っていく。悲鳴じみた奇怪な音を立てるのは何だろうか、闇に紛れて見えない。

 恐ろしく、狂おしく、奇妙に魅惑的な夜の世界。ひたひたと潮のように闇が辺りを満たす中を、少年の姿をした黒猫に導かれて進んでいく。

「……どこへ行くの?」

「どこへでも。どこに行きたい?」

「……それこそ、どこへでも。あちこちを見てみたい」

 様相を変えた街並みが目新しく、興味深く、しかし本能的な危機感を呼び起こす。ずっと見ていると気が狂ってしまうのではないかと思えるほど、木々や鳥などがおぞましく変形して魔物と化していた。整然とした昼の姿を知っているからこそ、その違和感が脳を掻き乱す。

 しかし、それらはただ負の感情を引き起こすだけではなく、認めたくないが、人を奇妙に惹きつける魅力も放っているのだった。

 チセはなんとなく坂を下る方へ足を向けた。クロも横に並んで歩いている。

 前回はトオルの手がかりを追うために図書館や学校など坂の上の方へ向かった――チセの家も高台にあるから、あまり下ることはなかった――のだが、街は海の方まで広がっている。むしろ坂の下の方が人も多く栄えていた。国道は坂が終わるあたりにあり、この街を南北に走って隣の街へと続いていく。

 海の方へ下りながら、チセはちらりとクロに視線を向けた。今は人間の姿をしているクロは、暗い中ということもあって表情が読みにくいが、とくに不機嫌そうな様子はない。

 月が明るい。道を照らし、チセの目にも景色が問題なく分かるくらいだ。夏休みなどに旅行に行って田舎の方に泊まり、星を観察したことはあるのだが――もちろん建物から出ずに、屋根に設けられた大きな硝子戸を通してのことだが――月明かりがこんなに明るいものだとは知らなかった。家々の部屋から漏れる光や、夜に対抗するように玄関先や庭に備えられた明かり、そういった人工の光源の方がむしろ不自然に見えてしまうくらいだった。

 ――チセは確実に、夜に馴染んでいっている。

 横で、人の姿をした黒猫が、笑った。

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