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人間の夜は空虚だ、とチセは思う。眠って夜をやり過ごして、朝を迎えて終わりだ。
その夜の中では、魔物たちが生を喜ぶかのように蠢いているのに。昼の姿というくびきから解放された生命が自由を謳歌しているのに。ひとたびその様子を見てしまうと、なんて豊かな世界なのだろうと思ってしまうのに。
人間にとっての夜は、ただ意識の暗闇だ。ぽっかりと口を開けた空虚な闇の中に落ち込んで、太陽とともに意識を昇らせて、その間には何もない。
危険と知りつつも人が夜を求め、夜に惹かれてしまうのは、その空虚さに耐えられないからかもしれない。豊饒な夜の中に、人間がはるか昔に失ってしまったものがあるのではと求めてしまうのではないか。
(古代人にとっての王、か……)
教授の話は難しすぎてほとんど理解できなかったが、そのくだりは印象に残った。昼の世界を統べる存在は権力の根拠を夜に求めたという部分だ。
教授によると、その頃はまだ今ほど昼と夜とが明確に分かれていなかったらしい。もちろん夜が危険であることに変わりはなかったが、一歩でも夜の中に踏み出してはいけないといったような厳密性はなかったのではということだ。
また、昼と夜とが分かたれたのは民主制の成立と発達も関わっているということだったが、王が権威付けによって人々を支配していた頃はまだ、夜の世界が昼の世界に影響を持っていたということなのだろう。人々が人々のことを決めるようになり、昼の世界をそれだけで完結させようとしている現状が、夜を切り離して遠ざけている……教授が暗に言わんとしていた気がするのだが、健全ではない状況にあるということなのだろう。
人が、いつから人になったのか。それは出生前の胎児の権利についての議論にも似て結論の出ない話ではあるが、ともかくも、現在の「人」は夜を切り離して否定することによって成り立っている。
王たちがいた時代よりももっと前、神がいた時代では、夜は人間に牙を剥かなかった。魔物は人間にとって明確な敵ではなく、変化した動植物を人間は拒絶しなかった。――今では考えられない、ほんとうに昔の話だ。
調べ学習のテーマが「夜からの帰還者について」に決まってから、三班のメンバーはそれぞれに色々と調べたり、集まって話し合ったり、退院したトオルからその後の話を聞いたりして進めていた。夜から生還し、体や心に後遺症が残らなかった稀な例であるトオルは、マナトが見越した通り国や研究機関や、報道関係の人からも色々と聞かれたりしたようだった。
三人が危惧していたことはトオルが調子に乗ってまた夜に踏み込んでいくことだが、今のところそうなってはいない。本人も周囲の大人にこってりと絞られたようだし、彼の家族が彼の行動には目を光らせているようで、自分の部屋にいる時もしょっちゅう誰かが来てゲームにも集中できないと嘆いていた。自業自得だ。
トオルが聞いたという、レイカからの「助けて」という言葉だが、今のところ進展はない。チセはレイカと言葉を交わしているし、とても「助けて」と頼みたさそうな悲壮感はなかったから言葉に裏があるのではと疑っているのだが、まさかそれを班のメンバーに言うわけにもいかない。
トオルもあれから夜に踏み込まないよう周りから注視されているし、あまり言わないが相当恐ろしい思いをしたらしく、夜の中にまた行きたいような素振りは見せていない。大人たちから注目されることも嬉しいようで、このうえ危険を冒して夜の中に行く気はなさそうだが、彼は彼でレイカの言葉を重く捉えているようで、夜の中から助ける手がかりがないかと調べ学習を真面目に頑張っている。勉強嫌いの彼だが、そんなことは言っていられないということらしい。
意外に義理堅い彼のことだからレイカからの助けてという要請を無下にできないだろうし、自分が助けてもらった恩もあるから無視して忘れたりはしないはずだ。レイカが夜に消えてから何年も経っているのでなかったら――一刻を争うような状態だったら――大人たちの目を掻い潜って再び夜に踏み込んだかもしれないが、レイカがおそらく無事な状態ではないだろうことを思うと、無理して急いでも意味はないと判断しているのだろう。少し聞いた感じではトオルはチセのようにレイカから助言を受け取ったわけではないようで、魔物にまるで歯が立たなかったようだ。どうにもならないものだと身に染みて分かったと語っていた。その違いも、チセがレイカへの不信感を高める理由の一つだ。
カナは最初、退院したトオルがまた夜の中へ行こうとするのではと危惧していたようだった。しかしトオルは日常に戻り、無茶をする様子もなく学校生活を送り、以前の彼だったら面倒がりそうな調べ学習にも真面目に参加している様子を見て懸念は薄れたようだった。カナはトオルやマナトほどレイカのことを知っているわけではないが、「助けて」の言葉は無視できないようだった。トオルが助けられたこともあるし、自分に出来ることがあればと調べつつ模索しているようだ。
チセが一番心配していたのはマナトだった。レイカと直接の関わりがあり、彼女を助けるつもりでいるらしい彼は、もしかしたら夜の中に行ってみようとするのではないかと思っていた。
しかしその懸念は不要だった。マナトはトオルと正反対で、老成していると評してもいいくらいに落ち着いた少年だ。考えなしに夜に踏み込むような無謀な真似をせず、昼の世界の中で出来ることをしようと頑張っているようだ。 驚いたことに彼は大学へも出入りし、専門の教授から話を聞いたり、公開講座を聴きに行ったりもしているようだ。チセも誘われたのだが、ササラセ教授の時のことを考えるとさすがに理解できる気がしなくて諦めた。その代わりにマナトが聞いてきた情報を教えてもらって共有している。
そしてもちろん、チセも出来ることを頑張っている。夜の中で見聞きしたことをノートにまとめ、図書館に行って本の内容と照らし合わせ、思いついたことをメモしたり、分からないことを抜き出したり、曖昧だったところを明確にしたりしている。
調べていくと市立図書館の蔵書では足りず、大学図書館にも足を運ぶことになった。市民には解放されており、アカデミックな雰囲気に気後れしたものの、集中して調べたり考えたりするのには向いていた。時折マナトと待ち合わせてロビーで話したり、時には購買で軽食を買って一緒に食べたりすることもあった。背伸びしている感覚はあったものの、ポーズで大学に出入りしているわけではない。必要があってのことなので堂々としていればいいし、新鮮で面白い体験ではあった。
チセがクロと一緒に夜の中を歩いたことは誰にも言っていない。チセがクロを夜から取り戻そうとしていることを知る人ももちろんいない。
そんな事情を秘密として抱えていると、そんな場合ではないのに楽しくなってきてしまう。秘密基地もそうだが、秘密というものはどうしてこうも心をときめかせるのだろう。夜に惹かれてしまうのも、夜がその中にとびきりの秘密を隠しているように思えるからかもしれない。
そんなふうに日々を過ごし、三班は最初の遅れを取り戻して余りある内容の中間発表をして他の班を驚かせることになった。