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「えー、わたくしがこの講座を担当いたします、ササラセと申します。みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、世界における夜の認識の変遷について話していきたいと思うのですが……」
壇上に立ち、髭をたくわえた壮年の男性が前置きを話し始める。会議室にはそれなりの人数が集まっており、年齢も性別もさまざまだ。受講者の手元には一部ずつ資料が配られており、そのどこを見るようにとササラセは指示を入れつつ、ときおり白板に補足などを書き加えていく。
「……ですから、夜とは昼の世界から外れたものの総体でもあったのですね。昼の世界にあって並外れたもの……象徴的な例は王権ですが、古代人は権力の根拠を夜に求めたのであります。王には夜からの帰還者であることが求められ、試練を経ることによって昼の世界における特別性が担保されたのでありまして……」
会議室には長机と椅子が設置されており、初等学校の教室ではなく大学の講堂のような雰囲気だった。内容も大人向けのもので、チセたちは部分的に理解するので精一杯だ。
「……そうした媒介者がいなくなった、すなわち昼の世界を治めるための権威を昼の世界の外に求めるのをやめた時点で、昼は夜を切り離したとも言えるのであります。昼と夜との分断は科学技術の発展によるものだとするのが定説ではありますが、民主制の成立と発達も分断に大きく寄与していたのでありまして……」
「……ダメ、もう限界」
カナが音を上げて頭を抱え、隣の席に座っているチセに小さくぼやいた。
「難しすぎるよね……」
チセも小声で応じる。頭がくらくらしそうだが、それでも何とか食らいついていこうとしているのは、これが他人事ではないからだ。
レイカのことをどう考えるべきなのかも、クロをどうやって夜から取り戻すかについても、手がかりになる情報が欲しい。
その一念だけで、チセは用語も内容も難しすぎる講座をひたすら聞き続けていた。
ちらりと横を見ると、マナトも難しい顔をしながら講義に聞き入っている。理解した部分をあとでこっそり教えてもらおう、などとチセが考えていると、マナトと目が合った。
「どうかした?」
「ううん、邪魔してごめん。分からないことだらけだから、あとで教えて」
「僕も教えられるほど理解できてないけど、分かった。チセの考えも聞きたいな」
小声でやりとりを交わし、机に突っ伏してぐったりしているカナを横目に、チセは時に念仏めいて聞こえる講義に食らいつき続けた。
講義のあと、チセとカナは廊下の一角に設けられた休憩スペースで、ああでもないこうでもないと話し合っていた。
「うーん……だから、ええと……駄目、まとまらない」
「チセでも無理? マナトは……あ、戻ってきた」
教授にいくつか質問していたマナトが戻ってきて、カナは頭が痛そうな表情で尋ねた。
「あれを聞いて質問に行けるのがすごいよね。何を聞いてきたの?」
「夜からの帰還者のその後について、とかかな」
「それ、私も聞きたい」
食いついたチセに、残念だけど、とマナトは首を振り、
「あまり明るい話題ではないよ。古代の王たちは権力を得た代わりに短命だったことがほとんどだったようだし、帰還後に身体や精神を病んだ例も多い。……あ、もちろんそういうのが全部じゃないよ」
慌てて付け加えたのはトオルのことをフォローしたのだろう。だが、チセはトオルのことについて、実はそれほど心配していなかった。
「トオルは大丈夫だろうと思うの。あまり精神を病みそうには思えないし……心配するとすれば、また調子に乗って夜に踏み込んでしまうといった直接的な危険の方かな」
「それ、分かるわ。なんかあいつ、何も考えてなさそうだしね」
カナの言葉は辛辣だが、一面を言い当てているようにチセは思った。
彼は根っから昼の存在だ。それはきっとカナも同じ――自分とは違って。
「トオルが夜を求めるとしたら、それは夜そのものを求めているんじゃなくて、昼の世界でみんなに自慢したいからとか、そっちの方がありそうだもの」
「違いない」
チセが言うと、マナトも笑って同意する。
だが、そんなマナトは……自分と同じ側にいる、とチセは直感した。
「それで、うちらのテーマ決めのヒントがあったかどうかだけど……」
「それなんだけど、『夜からの帰還者について』ではどうかな。トオルが曲がりなりにも帰還者になったわけだし、これならテーマを突き詰めつつ彼のことを見守れる。子供だから配慮されるとは思うけれど国や研究機関とかからの調査も入ると思うし、そのあたりをまとめられたら初等学校の調べ学習としては百二十点だと思うよ」
マナトの提案に、チセはカナと顔を見合わせて頷いた。
「いいと思う。トオルのことがあるもんね。どうして自分で思いつかなかったのかと思うくらい」
「これならあのお調子者にとっても悪いテーマじゃないと思うし、うちも賛成。昼の側にも焦点が当たっているしね。また夜の中に行こうとかバカなことを考えないといいんだけど」
「……うん。……そうだね」
「マナト、違ってたらごめん。少し思ったんだけど……もしかしてこのテーマ、レイカさんのためにもなってる?」
小さい声でチセが問うと、マナトは頷いた。
「……うん、実はそうなんだ。帰還者を調べるということは帰還について調べることにもなるわけで。言い方を少し変えたけれど、トオルも賛成したテーマからあまり変わっていない。……本人には言わないでね」
「言わないよ。無茶をされたら困るもの。でもマナト……本当にレイカさんを助けるつもりなの?」
「そのことだけど……」
「ここ、三班の集まりー?」
人が近付くのを感じたマナトが言葉を切った。こちらへ歩きながら声をかけたのは、ふわりとした髪を伸ばした少女だった。チセたちの同級生でササラセ教授の娘のサヤだ。
レイカのことをおいそれと広めるわけにはいかない。チセは切り替えて話しかけた。
「うん、そう。サヤも来てたんだね。お父様の講座だから?」
「そうなのー」
サヤがおっとりと頷く。
「お父さん感心してたよー。初等学校の生徒なのにすごいな、ってー」
「いやいや、チセとマナトはすごいけどね。うちは全然ダメ、何も分からなかった」
カナが苦笑いする。チセは慌てて否定した。
「すごくないよ。私も全然分からなかったもの」
「それでも、ちゃんと聞いてくれていたでしょうー? お父さんの講義、眠くなるって大学でも評判なのにー」
「あはは……」
否定できず、チセは笑ってごまかした。カナもごまかすように話題を変える。
「サヤ、二班だよね? 班のメンバーは来てないの?」
「うんー。個人的に来ているだけー」
「まあ、うちらと違って二班は順調に進んでいるもんね。この前の発表、すごかったよ」
「ありがとー」
「さっき質問にあがって知ったのだけど、教授のご専門って民俗学なんだね。文学じゃなかったんだ」
「わたしたちの班、本が好きな子ばっかりだからー。お父さんのことはあんまり関係ないよー」
「そうなのか。共通点があるとやりやすいよね」
「みんな熱心に調べてくれてるよー。たとえば……」
そのままサヤとマナトは話し込み、チセとカナは分厚い資料を前に、トオルに何をどう伝えたものかと頭を悩ませた。