13
(レイカ姉ちゃん……?)
聞いたことのある名前のような気がする。もしかして小さい頃に一緒に遊んだ人とかかもしれない。チセにとってはカナが一番長い付き合いだが、トオルもマナトもそれなりに長く仲良くしてきた。友達の友達とか、友達の親戚とか、関係性がよく分からない人を交えて遊ぶのも普通のことだった。
トオルがなぜいきなりその名前を出したのか分からない。――いや、気付かないふりをするのは止めよう。チセにはもうなんとなく見当がついている。
「もしかして、それって……トオルが夜の世界から戻れたことと関係している?」
チセはおそるおそる聞いた。
夜から無事に帰還できる者は非常に稀だ。トオルはとても無事とは言えないものの、そう言っていいほど影響は軽微だ。短期間の入院で済むのは非常に幸運なことだ。――もしもそれが運であるならばだが。
チセはトオルを助けたつもりでいたが、そもそもチセがトオルに辿り着くまでに彼が命を落としていても何の不思議もなかった。夜とは、そういうところだ。
「……ああ」
トオルは言葉少なに認めた。マナトは目を見開いて顔を白くしている。
「……もう、何年も前のことだ。いまさらレイカ姉の名前を出すなんて……どういうつもりだ?」
「レイカ……うちも何か聞き覚えがある気がする。トオル、マナト、どういうこと!?」
「レイカ姉は……僕の従姉だ。昔はよく一緒に遊んだんだけど……」
マナトが言葉を切る。
トオルは病室のドアに目をやった。ドアが閉まっており、誰も来る気配がないことを確かめ、密やかに声に出した。
「……会ったんだ。夜の中で。俺を助けてくれた。何が起こったのかよく分からないんだが、魔物は俺を……引きちぎろうとしたんだと思う」
顔を青くして喉を鳴らしながら、トオルは説明した。彼がいつも通りに振舞っているから忘れそうになるが、彼は夜の中で命の――あるいはそれ以上の――危険にさらされたばかりなのだ。
「たぶん、そうなんだと思う。大人たちにもそう言った。でも……レイカ姉ちゃんに助けられたことは言ってない。大人たちには絶対に言うなって口止めされたから」
「じゃあ何で僕たちには言うんだ!? そもそも、それは本当にレイカ姉だったのか!?」
冷静になり切れない様子でマナトが声を荒げる。トオルはらしくなく鬱々とした調子で言った。
「……分からない。だってレイカ姉ちゃん、中等学校の二年とか、そのくらいに見えたんだぞ? 俺らよりもちょっと年上くらいの感じだ。……本当ならもう、高等学校に入っているはずの年齢なのに」
「…………!」
チセは悲鳴を上げそうになる口を押さえた。それ以上のことを考えてはいけない。脳が警鐘を鳴らす。
「それって、レイカさんは、もう……」
「言うな!」
カナの言葉をマナトが激しく遮る。怒りの矛先はトオルへも向かった。
「どういうつもりなんだ!? 君が助かったのは良かった、それだけの話でいいじゃないか! なぜ、そんな話を僕に聞かせる!?」
「だって……」
トオルが泣き出しそうな顔をする。
「レイカ姉ちゃん、言ったんだ。……助けて、って」
四日後の日曜日。三班のメンバーは示し合わせたかのように時間よりもかなり早く集まった。誰も何も言わなかったが、トオルから聞かされたことを咀嚼しきれずにいるのは誰もが同じようだった。
公開講座の開講時間まであと三十分ほどある。会場になるのは市民会館の一室で、会館は公園の敷地内にあった。会館の入り口付近に集まった三人は、そのまま誰からともなく公園の道を辿る。
「……トオルの言ったこと、うちは信じるよ」
口火を切ったのはカナだった。チセも頷く。
「……僕も、トオルが嘘をついているとは思っていないよ」
「でも……考えにくいことだよね。うちらはあんまり覚えてないけど、レイカさんって……」
「気を遣わなくていいよ。前は取り乱して悪かった。そう、夜に消えた親戚はレイカ姉のことだよ。昔はみんなと一緒に遊んだりしたんだけど、病気であまり外へ行けなくなって。親戚同士で家が近所だから僕はよく会っていたし、トオルも一緒に来ることもあったけど、二人は来たことないものね」
「そうだね。うちらは昔みんなで外で遊んだくらいの記憶しかなかったから」
「うん。ごめんね……」
「いや、覚えてなくて当然だよ。学年も違う人のことなんてそんなもんだよ」
歩きながら言葉を交わす。膝を詰めて座って会話するよりも気が楽だ。互いの表情をあまり見ず、見るともなしに景色を眺める。
爽やかな夏の日だ。木漏れ日が落ち、風が枝を揺らし、遊ぶ子供たちの歓声が聞こえる。のどかで、平和で、何の変哲もない――昼の風景。ここが夜には魔物の世界に変わるなど想像もつかないような。
その夜の中で、助けを求める――レイカ。
チセが聞いた少女の声はおそらく、レイカのものなのではないかと思う。彼女については記憶が曖昧で、声も当然覚えていないのだが。
「その……レイカさんって、どんな人だったっけ? 私も名前は覚えているの。あと、髪が長かった気がする」
「そうだね。髪が長くて、色が白くて、大人しい人だったよ。みんなで遊ぶときも、鬼ごっことかになると座って眺めているような」
チセの脳裏に、儚げな少女の姿が思い浮かぶ。長い黒髪に白い肌、華奢な体つきの少女。しかしその表情は陰になって見えない。
「助けて、ってトオルに言ったんだよね……。ううん、トオルに対してじゃなくて、トオルの近くにいる子供に対して……?」
トオルに対して、むしろ助けたのはレイカの方だ。その彼女は自分の存在を大人たちに話すなと口止めした。それなのに子供に対しては助けを求める……おかしくないだろうか?
しかし、チセがその違和感を言葉にする前に、マナトが口を開いた。
「それは多分、子供に対してというより……僕に言ったのではないかという気がする。自惚れかもしれないけれど……」
「うーん、そういうこともあるかもね。確かに、うちらが助けてって言われるのはおかしいもんね」
そう、おかしいのだ。助けてほしいなら子供よりも大人に言うべきだろう。そうでない理由は、大人では無理だからか……大人からは隠しておきたいからか。
言い知れぬ不安が胸の中に膨らむ。
「分からないけれど、放っておけない。単なる調べ学習じゃなくて、僕にとってのっぴきならない事態になっているから。だから今日の公開講座も、大人向けの内容なら願ったりだ。なるべく多くを学んで帰る」
「……うん、そうだね」
チセは短く同意した。開講までもうすぐだ。不安と一体になった違和感については口にせず、いったん棚上げすることに決める。
今はとにかく、夜について考える材料が欲しい。