10
――なんて、魅惑的なのだろう。
そんなふうに思ってはいけないのに。命を脅かす奇妙な世界のことを、肯定的に捉えるのはおかしいのに。
夜の中で、クロの金色の瞳があやしく光る。人々を狂気に誘う満月のように。けっして届かない世界から気まぐれにもたらされる誘いのように。
月が欠けていくかのように、クロの瞳が細くなる。唇も弧を描く。夜に惹かれていくチセを嘲笑うかのように。――待ち望むかのように。
チセは無意識にトオルの筆箱を握りしめた。その途端、意識が急に現実へと引き戻される感覚がして思わずたたらを踏んだ。
(……なんだったの?)
瞬きをしてクロを見ると、先ほど感じた吸引力はだいぶ薄れていた。得体の知れない夜の存在であると同時に、チセが可愛がっていた子猫でもあるのだということを思い出す。
その表情が、どこか面白がりつつ残念がるようなもので、彼がチセの味方とは言い切れないことを改めて意識させられる。夜の中にいられる今の状況も、彼のまじないと気まぐれ次第なのだから、余計なことに気を取られている場合ではない。早くトオルを見つけて助けなければ。
何か手掛かりがないかと期待してチセは筆箱を開けた。メモ書きなりレシートなり行き先が分かるようなものが入っていればと思ったのだが、あいにくそういったものはなかった。もちろん行き先が分かったとて、夜の中ではあまり意味がないのかもしれないが。
『――そんなことはないわよ?』
「誰!?」
とつぜん少女の声が響いて、チセは肩を跳ねさせた。慌てて辺りを見回すが、誰もいない。
「? なんだ?」
クロが怪訝そうにする。不可解な声に対してではなく、チセが驚いたことへの反応のようだ。
「クロ、聞こえてないの!? 女の子の声がするの!」
「聞こえてない。誰の声だ?」
『彼には聞こえないわよ。彼と私は関わりがないもの。昼の世界では、ね」
思わせぶりに含み笑いをするような声に、チセは問いかけた。
「それなら、私とあなたは関わりがあるというの? あなたは誰? ……それともまさか、私の空耳?」
夜の中ではなんでもあり得そうな気がしてくる。
しかし少女の声は、チセの考えを読んだかのように否定した。
「空耳ではないわ。夜の中では何もかもが出鱈目に見えるけれど、夜なりの理屈があるの。私とあなたのよしみで、一つ教えてあげようかな」
「よしみ? それならあなたは、昼の世界で私と関わりがある人なの? どうして夜の中にいるの?」
矢継ぎ早に問いかける。置いて行かれる形になったクロが不服そうな表情をしているが、彼には聞こえていないのだから仕方ない。
「自己紹介は後。いつか、邪魔の入らないところでゆっくりと話しましょう」
邪魔、と声が言うのはどうやらクロのことらしい。彼に聞こえなくてよかったと思いながらチセは話の続きを促す。
「よく分からないけれど、お話しできる機会があるのなら。あの、さっき言っていた夜の理屈って何? どうか教えて。トオルを助けるために、何でも知っておきたいの」
「そうね。……交換条件がある、って言ったらどうする?」
声はからかうように、少し伺うように言った。チセは顔を強張らせた。
「……交換条件って、どういう……?」
命だろうか。お金は持っていないが、それで済むなら何としてでも掻き集める。後日ということでいいだろうか。
「注意しろ。夜の存在と取引をするのは、ろくなことじゃない」
クロが表情を険しくして言葉を挟む。チセはこくりと喉を鳴らした。背筋を冷や汗が伝う。
そう、チセだけに聞こえるこの声は、夜の存在が放つ声なのだ。無害なわけがなかった。善意だけで動くわけもなかった。言葉が通じるからと油断してはいけなかったのだ。
「心外ね」
口を尖らせて拗ねるような少女の声だ。
「でも、一人を助けるには一人を差し出さなきゃ。そうじゃない?」
「…………」
チセは答えられない。トオルを助けたいが、代わりにチセが犠牲にならなければいけないのか。その決断をさせるのは意地が悪すぎる。
答えられないまま、一秒が一時間にも感じる。せめて何か言わなければ、この存在が気まぐれに去っていってしまうかもしれない。トオルを助ける手掛かりをなにも手に入れることができないまま。
「…………腕とか足とかで、何とかならない?」
「お前、何言ってんだ!?」
苦渋の選択をしたチセに、クロが仰天した声を上げる。
少女の声は軽やかに笑った。
「いらないわよ、あなたの腕や足なんて。でもそうね、その意気に免じて少し教えてあげる。――夜はね、昼の真似をするの」
「昼の、真似……?」
「ええ。夜が昼を追いかけるように、夜の理は昼の理をなぞっているの。たとえ悪趣味なパロディじみたものになろうとも、いくら逸脱しようとも、まったく無関係のものを出鱈目に継ぎ接ぎにするようなことはないわ」
声は少し言葉を切り、例を挙げた。
「そうね、彼の譬えを使うなら……何の変哲もない小道が奈落になっていたりするのは、そこに筋という共通項があるからよ。流れでもいいわね。道が滝になり、落ち込む先が滝壺から暗さを伝って奈落になる。そういうことよ」
「……小道が滝に、滝壺が奈落に……流れや暗さといった共通項があって……それが夜の理屈……」
理解しがたい。しかし理解しなければならない。少なくともその取っ掛かりを掴まなければ。チセは考えをまとめようとしつつ、クロにも聞かせるように言葉を並べた。
「……連想だ」
クロは短く言った。
「夜は連想が形になる世界。そのことは分かる。昼の世界から夜の世界へと踏み込んだ俺の実感としても」
「……あら」
少女の声は意外そうに言った。当然クロには聞こえていない。
「ふうん、理解しているの。野生の勘とかかしら。これはちょっと……」
チセに先を聞かせる気がないのか、少女の声が途中からぼやけた。行ってしまう、とチセは思い、慌ててお礼を言った。
「あの、ありがとう!」
素直なお礼が気に入ったのか、少女は少し笑ったあと、まだ笑いの余韻のある声で言い残した。
「昼の存在が夜の存在に働きかけるなら、昼の道具を夜の理屈で使いなさい。……ちょっと喋りすぎたかしらね」
ふつりと、声と気配が消える。引き留めることもできず、チセは立ちつくした。
「……行ったか?」
やれやれと言いたげにクロが頭を振った。
「クロ、聞こえてたの!?」
「聞こえてはいない。だが、何かがいなくなったことは分かった」
夜の中にはさまざまな気配がある。その中に紛れて来たことは分からなくても、去ったときに分かったということだろう。
「……何だったんだろう」
彼女――ということにしておく――の言葉を素直に受け取るなら、また話す機会があるのかもしれない。だが、彼女はクロと話をする気がなさそうだった。本当に、いったい何だったのだろう。誰だったのだろう。
だが、そのことばかりを考えている場合ではない。刻一刻と夜は深まり、トオルが夜の中にいることは確定的だ。なんとか状況を変えなければ。
「昼の道具を、夜の理屈で使う……」
その言葉が助けだ。チセは再び筆箱を開け、彼女の言葉を思い返しながら眺めた。
その目が、赤ペンに吸い寄せられる。