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昼は人間の時間。夜は魔物の時間。
だから、人は決して、夜に出歩いてはならない。
もしも、それを破ったならば――
「じゃあ、またね」
「うん。また明日、学校で」
図書館からの帰り道。チセはそう応えて、級友の少女カナに手を振った。
初夏の風が吹き抜け、制服の襟やスカートをはためかせて通り過ぎる。少し火照った大地を吹き冷ましてくれるような、涼やかな風だ。
肩あたりで切り揃えたチセの短めの髪を揺らし、街路樹の若葉を撫で、風は通り過ぎていく。
鞄を肩に掛け直して、チセは目を細めた。
この風はどこへ行くのだろう。ふと、そんなことを考える。
昼の熱を抱えたまま、夜の世界へと渡っていくのだろうか。光の届かない、闇の世界へと。
夜の世界。どんなところだろう、とチセは思う。
太陽の出ていない時間、世界は魔物に支配される。影が蠢き、植物や動物は変容し、動かないはずのものが動き出す。
初等学校の最終学年になるチセたちは、授業の一環で、夜について調べていた。放課後に図書館に行ったのも、資料を探してテーマを決めるためだ。
(昼は人間の時間、夜は魔物の時間……)
資料を調べるまでもなく、このことは物心つく頃から知っている。大人たちから、繰り返し言い聞かされ教え込まれてきたからだ。
日が沈んだら決して外に出てはいけない、と。
それはたとえば、赤信号の時に道を渡ってはいけないという社会規範よりも、ずっとずっと強固な決まり事だった。
誰もが知っている決まり事。誰もが逆らえない決まり事。お父さんだってお母さんだって先生だって、どんなに偉い大人にだって、人間である限り、決して逆らえない絶対の掟。
子供だけではない。夜は、大人にも平等に牙を剥く。
夜に囚われ、夜に呑まれ……変死したり、行方不明になったり、心だけを夜の世界に置いてきてしまったりした人は数知れない。ひとたび夜に踏み込んでしまったならば、無事に帰還できる可能性は非常に低い。
夜は魔物の時間。
人が迷い込めば、餌食になるばかり。
チセはぶるりと身を震わせた。親や教師の言うことをよく聞く優等生のチセは、夜の恐怖から紙一重で逃れるような武勇伝は持たないし、持つつもりもなかった。
恐ろしくも神秘的な夜の世界には何があるのだろう……そんな考えがちらりと心を過ぎることもあるが、そのたびに頭を振って打ち消した。
(早く帰ろう。外で夜を迎えるなんて、想像もできない)
そう思っていた。
この日までは。
初夏のこの頃、日はどんどん長くなっていく。今も太陽はまだ高い位置にあり、街路樹の緑を明るく輝かせている。学校の授業を終え、図書館で数時間を過ごし、それでもまだまだ日は高い。
公園の傍を足早に通り過ぎるが、人々が憩いの時間を楽しんでいるのが見える。冬ならとっくに帰っていなければならない時間だが、夏のこの時期なら安全だ。
公園の木の根元にふと黒い影が見えた気がして、チセは思わずそちらを凝視した。だが、何のことはない、大きめの石の影が濃く落ちていただけだった。
べつに昼間から魔物が出る心配をしていたわけではないが、こうした影には目を凝らしてしまう癖がある。チセは気を取り直すように軽く頭を振り、鞄を肩に掛け直して歩き出した。
チセの住んでいるあたりは、高台に位置する閑静な住宅街だ。学校がさらに高いところにあり、その裏が山へと続いている。学校の近くを起点に県道が坂の下へと延び、坂の終わるあたりで国道と交差している。駅や商店街は国道沿いにあるが、図書館や児童会館などは県道の並びにあった。
県道を少し上り、坂の途中で直角に折れる。このあたりは見晴らしがよく、昔からの家が多い。坂の下の方には新しいマンションが立ち並んでいるが、上の方は昔ながらの町の面影を残し、ちょっとした林や細い道などが見られたりもする。
家路を辿り、近所の空き地を通ろうとして、チセの足はそこで止まった。
「………………クロ?」
空き地に、一匹の黒猫がいた。
黒光りする優雅でしなやかな毛並み、満月のような黄金の瞳。そして特徴的な、左耳の脇に一筋だけ混ざった白。
それは、むかし飼っていた――迷子になって行方知れずになってしまった――クロに違いなかった。
「クロ!」
感極まって声が震える。猫が俊敏に顔をこちらに向ける。
会いたかった。いつか会えると信じていた。突然の別れから五年経った今も、物音に振り向き、黒い影に目を凝らすことをやめられなかった。
そこらじゅうを探し回り、それでも見つけられずに泣きながら眠った七歳の夏を思い出す。
迷子になってしまったクロが心配でたまらなかった。夜の世界に迷い込んでしまっていたらと思うといてもたってもいられなかった。
夜が害をなすのは人間に対してばかりではない。愛玩動物や家畜、農作物など、人間の管理下にある生き物に対しても、程度の差はあれ変容の危険がつきまとう。
昼は何食わぬ顔で優雅に枝を風にそよがせていた街路樹が、夜の世界ではけたけた笑って迷い人を追いかけまわしてきたなどという話は枚挙にいとまがない。再び日が昇ったあとに元通りになっていれば問題はないが、たまに枝葉がねじくれていたり、色が変わっていたり、ひどい場合は他の植物や動物と融合して奇怪な姿になっていたり。人間が手をかけた度合いが大きいほど、危険の度合いも大きくなる。
人間の家の中で可愛がられて暮らしていた子猫が夜に迷い込んだらどうなってしまうか――想像すらしたくなかった。
自分のことなんてどうでもいい。クロを見つけるまで、他のことを何もかも放り出して探し続けるつもりだった。
しかし、それはできなかった。ろくに食事もせず、憔悴しながらも夜明けから日暮れまでクロを探し続けるチセを、両親が涙ながらに止めたのだ。心も体も、このままではどうかなってしまうと。お願いだからこれ以上心配させないでほしいと。
自分がクロを心配するように、自分は両親に心配されている。しかも自分は一人っ子なのだ。そのぶん心配も大きいだろう。そう理解してしまうと、それ以上の無理を通すことはできなかった。
食欲がないながらも我慢して食事を取り、寝付けなくても布団に入り、気もそぞろになりながら夏休みの宿題に手を付け……おおっぴらにクロを探すことはやめた。クロのことが心配でたまらなかったが、これ以上に両親を心配させることもできなかったのだ。
それでもこっそりとクロを探し続けたが、手がかりひとつ見つからず、夏休みが終わって学校が始まり、秋が過ぎて冬に入り、クロを探し出すことが現実的ではなくなっていき、探す頻度は減っていった。
それでも時折、諦めきれないと心が疼いた。五年も経ってしまったのだと数えながら、もしかして、今度こそもしかして、クロがひょっこりと現れるのではないかと、心のどこかで願っていた。がさりと風が葉を鳴らすたび、なにか黒いものが視界の端をよぎるたび、淡い期待を抱いてチセは振り返り、そのたびに苦い失望を味わってきた。
それが、ついに報われたのだ。
「クロ!」
駆け寄ると、猫はくるりと身を翻して逃げ出した。
「待って!」
あの猫はクロに違いない。チセには確信があった。逃げ出すのはもしかして、チセのことを覚えていないのだろうか。
そうだとしても、諦めることはできなかった。逃げる猫を追って、チセは走り出す。鞄は邪魔になるから、半ば無意識に空き地に放り出した。
「クロ!」
走りながらチセが呼びかけても、猫は振り向かない。小道を駆け、角を曲がり、植栽の間に姿を晦ませようとする。
見失わないように、チセは必死に猫を追った。
「待って、クロ!」
猫は逃げ続ける。
本当はクロではない別の猫なのかもしれない、その可能性はもちろん理解していたが、チセは直感で打ち消した。あれはクロだ、間違いない。間違えるはずがない。