4.菫姫の正史が壊れた日
「これは大陸の向こう、花の王国から来た夫婦に聞いたんだけどさ。この世界には、魂を縛る魔法があるんだって」
そういったのは、ザックーーザッカリー・フォン・ユルゲンス。
ざっくばらんな話し方をするけれど、所作は洗練されている。子爵家の三男であり、わたし、ヴィオレッタ・ファイルヒェンの婚約者だ。
それはちょうど"宵の日”のことだった。わが家の庭園でティータイムを楽しんでいた。王都のほうでは痛ましい出来事がある日のようだけれど……。
ここでは驚くほど静かな時間が流れている。
まだ午後だというのにあたりは夜のように真っ暗だ。
この日は怯えて外に出られないという人もいるけれど、わが家では、庭の花々の間に魔石灯を埋め込むように並べ、木々の枝にも同じくそれを吊り下げて、この日だけの特別な時間を過ごすのが習慣になっている。
魔石灯は貴族しか持っていない。というのも、この国には、魔法を使える人がほとんどいないからだ。魔力の込められた魔石は貴重品。
他国から輸入した魔石を使って灯すので、かなり高価なものである。
「魂を縛る魔法ですって?」
物騒な響きにわたしが眉をひそめると、ザックは目をきらきらさせた。
自分たちには縁遠いものだからだろうか。ザックはことのほか魔法の話が好きだった。
「ああ。この大陸じゃない、海のずっと向こうには、大魔法使いと呼ばれるような人たちがいてさ。
愛する者同士が死して、生まれ変わったらまた再会できるように、魔法をかけたのだとか」
「生まれ変わったら、また会えるように……」
「……まあ、禁忌の魔法らしいんだけどね」
ザックは少し残念そうに笑い、じっとわたしを見つめた。その意図を察したわたしは頬に熱が集まるのを感じた。
子犬のようにふわふわとした黒髪は、いつもどこか跳ねていて愛らしい。森のような緑色の目は、垂れ目がちで、穏やかな印象を与える。
以前の夜会では、二人揃って地味だと嫌味を言われたこともある。確かに、王都に行くと恥ずかしくなるくらいドレスの型も違うし、化粧っ気のないわたしは地味だ。
でもザックのことはそうは思わない。わたしはザックの心だけじゃなくて、顔も好きだ。優しくふんわりとした笑顔を見ると、安心するから。
──もちろん、そんなこと恥ずかしくて伝えたことがないけれど。
わたしたちの婚約は政略ではあったけれど、子どものころから静謐で穏やかな愛情を育んできたと思っている。
そして近ごろは、もしかしたら、この気持ちが恋なのではないのだろうかと思い始めていた。
「もうすぐ結婚式だな」
ザックが言い、わたしはうなずく。
「俺は、君の家のような家族をつくりたい」
その言葉に、はっと顔を上げる。
ザックは耳の端を赤くし、視線をわずかにそらしていた。そして次の瞬間、おずおずとこちらに手を伸ばしてきて、わたしは彼の腕の中にいた。
これ以上ないくらい幸せで、けれども少し恥ずかしくて、わたしはきゅっと目をつむって、彼の胸にそっと手を添えた。
わたしの両親もまた政略結婚ではあったけれど、互いに尊重しあう誠実な夫婦だった。
ザックは、父親である子爵には愛されていたけれど、母の愛を知らない。ザックの母は後継ぎを産むと役目を終えたとばかりに王都のタウンハウスから戻らなくなったのだそうだ。
幼い頃からわが家に預けられることも多かったザックとは、本当の家族のように過ごした。彼が王都の学院に通っている間は、どれほど寂しかったことか。
「今日は、あの方の……」
ザックの言わんとすることがわかり、複雑な気持ちになった。
王太子様の元婚約者が処刑されるという日。とてもお綺麗な、妖精のような方だった。
あの方が王太子様を殺そうとしたなんて……。
「貴族は仮面をつけるものだからな。本当かはわからない。……その点、俺たちは田舎貴族で良かったかもしれないな」
ザックがいい、彼の腕の中でわたしもこくりと頷いた。
高位貴族の中には、政略結婚が受け入れられず、妻に遅効性の毒を飲ませ続けたり、他の女性のもとへ通う夫を事故に見せかけて死なせたりする者もいる。
そんな噂が、こんな田舎町までまことしやかに流れていた。
そう考えるとわたしの生活は、地味で平凡かもしれないけれど、かけがえのない幸せなものだったのだと思う。ーーそれはまるで奇跡のような。
「──ヴィオにとって、俺は兄貴みたいなものかもしれないけど……。でも俺は君を好いている」
わたしの背中に回されたザックの腕に、きゅうと力がこもるのがわかった。わたしの心臓が跳ねた。
今日こそ伝えようと思っていた。わたしはあなたのことが好きだって。けれども。
「あ、あの、魔導灯なのだけど」
恥ずかしくて、話題を逸らすことしかできなかった。
それでもなんとか顔を上げると、ザックの目の中に、庭の魔導灯が映ってきらきらと揺れているのが見えた。緑色の目は夜の闇色に染まっていた。
ぽうっとなっていると、ザックはへにゃりと笑って「なに?」と訊いた。
「ーーええと、その、魔導灯の形ももっと改良できたらいいなって。お花とか、花びらの形だったら素敵じゃない?
こんなに真っ暗で、どうしても不安になってしまう人もいるから」
わたしは早口で言った。ーーああ、違う。こんなことを言いたかったのではなかったのに。
「……なんだ?」
ザックの声色が硬くなった。わたしの背中に回される腕がきつくなった。抱きしめられたまま空を見上げる。
ふいにあたりが真っ白になった。朝までずっと真っ暗なはずの宵の日だというのに、夜明けのように。
「……う」
ザックの苦しげなうめき声がして、そのぬくもりが消えた。
「ザック……?」
頭を殴られたような痛みが走り、目の前にチカチカと星が散った。
「……ヴィオ?」
わたしの目の前でザックは少しずつ幼くなっていき、それと同時に世界の景色がものすごいスピードで夜から朝へ、夜から朝へと点滅するように変わっていくのが見えた。
今もずきずきとひどく痛む頭を抑えながらザックに駆け寄ろうとすると、ドスン、と嫌な音が響いた。今より少し少年時代の姿のザックが、口から血を流している。
「ザック?」
あんなにも温かかった心も体もすっかり凍りついたようになって、けれども、ひどい頭痛に立っていられず、わたしはその場に崩折れた。
わたしは今でも後悔している。あれをどうにかする力はわたしにはなかった。でも、、照れ屋だからと、彼に気持ちを伝えなかったことを。
その日、ザックは世界から消えた。