20.神殺し
その本は、よく残っていてくれたと思うほどにボロボロの状態だった。しかし、王家の関与を裏付ける豪華な装丁。著者は聖女で、あの事件の当事者でもあるアレッタ王妃。
すぐに読んでしまいたい気持ちを押さえて、男はアシュテルラ国内に取っていた宿に急ぐ。夕飯もとらずに没頭して読み込んだ。読み終えたときには、何十枚もの覚書が積み上がっていた。
「ふう」
宿で貰ってきたブラックコーヒーを飲みながら、男は息をつく。やっと人心地ついた感じだった。
非常に興味深い一冊だった。それは世界を塗り替えるようなものだ。たとえばアシュテルラ人以外がこれを読んでしまったら、自らの信仰する神に、ほんの一滴の違和感を持つかもしれない。
それは、神への攻撃になるのでは。
そこには、これまで唯一神とされていたアシュテルラ神のおぞましい正体と、名もなき神として嫌悪されていた闇の神・ザッカリーの真実が記載されていた。
「はは、闇の神ザッカリー、ね。……こんなに赤裸々に書いて、よく神に消されなかったものだ。
いや、この本の通りなら、アシュテルラ神は書物のようなものには興味がないか。もっと享楽的な御方なのだろう」
男はつぶやいた。そして、新しい原稿を書き始めた。タイトルは『アシュテルラの悪女・真珠姫』。
寝食を忘れて没頭しているうちに、すっかりあたりが暗くなっていた。
「おい」
男はびくりと後ろを振り返る。誰もいないはずのそこに、長身の男が立っていた。
「その本を返せ。書きかけの原稿も渡してもらおう」
男は驚きに固まる。
ふわふわとした黒い髪、森のような色をしたたれめがちの目。想像していたより遥かに凡庸ではあるが、この姿は……。
今は、星暦にすると何年だっただろう。確か星暦8012年……?
「早くだ。俺たちは、あいつの脅威を広めるためにその本をつくった。だが失敗だった。神は、それが悪評であろうと、存在を知られていることが力になる」
「それはつまり……」
「悪しき神だと真実を広めれば、あいつは今度こそ純度の高い悪神になるだろう」
男はぞっとした。
そして名残惜しさも感じながら、目の前の男、ザッカリーにすべてを渡した。
「──すまなかった」
ザッカリーが頭を下げる。
「俺は貴族じゃなかったら研究者になりたかった。だから、あんたにとって酷なことをしたというのはわかる。その代わり、書いてくれないか? 星の女神の話を……」
「菫姫、いや、ヴィオレッタ・ファイルヒェン女男爵を、生き永らえるためにか?」
男が尋ねると、ザッカリーは少し目を見開き、それからにやりと笑った。
「いや、今はもうただのヴィオレッタだ。星の女神として生きるな」
こうして、ある歴史研究者と一人の神は、悪神殺しの共犯者になったのだった。
国内にまだあの本があったとは知らなかった。
王家に残った二人と共同であの本を作ったのは、あいつの力を削ぐためだった。でも、結果は逆効果で──。
見つけ出せてよかった。あの学者はいい仕事をしてくれそうだ。
あのとき生きていた者は、当たり前だが誰も残っていない。
兼ねてから考えていたことを実行に移すことも出来そうだ。
途方もない時間がかかりそうだが、あいつの存在を塗り替えていく。
ザッカリーは、いつかヴィオレッタから投げかけられた問いについて、ずっと考えていたのである。
「ねえ、神として生きることに終わりはあるのかしら?」と。