9スパ そして彼は佐川と成る
いつもの空き教室。放課後の集会は俺と長津田の間でもはやルーティンとなりつつある。
「今朝はありがとな。助かった」
「ふふ。感謝してよね」
今朝のことを思い出し、背筋が冷たくなる。本当に危ないところだった。
俺が相模マルタの弟であるという事実。それを聞いたクラスメイト達は「天才ピアニストの弟なら、あのレベルの演奏が出来ても不思議じゃない」と判断した。が、そこには大きな穴がある。
冷静に考えて、天才ピアニストの弟がLanding Objectである方が尤もらしいだろう。音楽の才能というものは遺伝しやすいのだから。だから彼らは俺への疑いを深めるべきだったのだ。実際ギター娘はそう考えていたようだが、民意は民意。大衆が「佐川はランオブじゃない」と判断すれば社会的文脈の中ではそれが真実となる。そして俺も佐川君になる。佐川って誰だよマジで。
俺が床を凝視しながらそんなことを考えていると
「……ねぇ」
「どうした」
「なんで下向いてんの?」
訝しげな声で長津田が問いかけてきた。
俺は床を見たまま、何食わぬ顔で返事をする。
「……いや、別に」
「別にじゃなくて。ねぇ。なんで?」
「…………床の埃、きれいだな~って」
ぐぃっ。襟首をつかまれ、俺は彼女と対面せざるを得なくなる。
彼女の翡翠色の瞳。俺は視線を逸らす。回り込まれる。俺はまたそっぽを向く。
「言いたいことがあるなら言って」
半ギレでそう問われてしまえば逃げることは出来なかった。
「その……告られた手前、どんな対応すればいいのかわからんくて」
「……」
彼女は瞬間湯沸かし器のように、ぼんっ、と赤面し、それから俺のことを睨みつけてきた。
「あのさ。昨日自分で言ってたよね」
「え、なにを」
「ほら、好きなのはま~やであってアタシじゃないって」
「言ったけど……」
「アタシも同じだから。アタシが好きなのはランオブであってアンタじゃないから。そこんとこ勘違いしないでよね」
長津田さん、早口で草。
「ほら、アムロ?はガンダムじゃないとか言ってたじゃん。それと同じだし」
「でも刹那はガンダムだし……」
「せつ……なに?」
は? こいつOO見てないのかよ。目の前の女の無教養っぷりに気まずさとかどうでもよくなったわ。バカが。
「お前、ダブルオー見てないとかマジか……」
「いや知らんし。アニオタきっしょ」
やめてよ。俺は泣いた。
「お前アニオタ叩くけどな……Vtuberの視聴層ってアニオタ多いぞ? いいのかよ、リスナーのこと叩いて」
「アタシが叩く分にはいいの」
「倫理観えぐ……」
流石は女王様。
ここ数日接してきて、俺は長津田優奈という少女の在り方がわかってきた。
彼女は傲慢なのだ。己が信じる物こそ至高であり、他のものなんて知ったこっちゃない。だから平気で他人を罵るし俺をパシる。そして何より正直だ。彼女は純粋にアニオタをキモいと思っているし、リスナーを愛している。そこにあるのは悪意でも善意でもなく、己の好みだけ。まさしく女王だ。
バチャ豚だのアニオタだのヘイトスピーチは受け入れられないが、変に取り繕っている相手よりもよっぽど好感が持てる。俺はそんな長津田のことが好きだ。べっ、別に友達としてだからね! 勘違いしないでよ!(萌えキャラ)
俺が一人で赤面芸をしていることなんて知る由もなく、彼女は翡翠色の瞳をこっちにむけて質問してくる。
「これからどうするの?」
言葉足らずな質問に困惑する。彼女は再び口を開いた。
「ランオブとして活動はしないの?」
「それは……」
あまりに急な話題転換だったから、言葉が出てこない。いや、しっかりとした手順を踏んでいたとしても、俺は言葉に詰まったかもしれない。
「……したい、と思ってる。いや、するつもりだ」
俺がそう答えると、長津田はぱぁっと顔を輝かせた。が、俺はそんな彼女に水を差す。
「ただ、今日明日に再開しちゃダメだ。そんなことをしたらクラスメイトに怪しまれる」
さっきは上手く誤魔化せたが、これで突如として活動再開したら確実に怪しまれる。
だから、少しだけ期間をおくつもりだ。具体的には1ヶ月ぐらい。
……いや、そんなのは言い訳だ。正直、正体がバレるのは時間の問題なのだから。あの演奏を見た縁覚経験者たちは俺が本人であると確信している。そう遠くない内に彼らは動くだろう。
……正直に言うと、少しビビっているのだ。今さらランオブとして復帰することに。俺は数多くのファンを裏切って失踪した。そこには長津田も含まれている。そんな俺が今さら復帰するだなんて、虫が良すぎはしないだろうか。
俺がウジウジ悩んでいると、長津田の様子がおかしい。頬を朱に染め、うつむきがちにこちらをチラチラ伺ってくる。
「その……さ」
「どうした」
「アンタが活動再開したら、その……」
言葉は紡がれない。
また告白か? しかし、いくら陽キャさんでも振られた翌日にそんなことするだろうか。
こんなところに茶々を入れるのもナンセンスなので黙っておく。長津田はブロンドの髪を揺らし、意を決したように口を開く。
「アタシに──」
しかし、その続きが語られることはなかった。
「楽しそうだねぇ~」
ガラリ、と扉が開き、露悪的に歪んだ声が響く。
振り向くと、そこには淵野辺がいた。
「……みう」
長津田が呆然と呟く。それも仕方のないことだ。昨日、あんなことがあったのだから。
「あ、長津田さん」
長津田さん。そう答えた彼女の真意を図ることはできない。貼り付けたような笑みがあるだけ。しかし、他人行儀な態度を取られた長津田は悲しそうに眉を下げる。
「みう、アタシ……」
「ごめん。長津田さんに用はないの」
淵野辺の視線が長津田に向けられることはない。ただ、その深淵のように黒い瞳は俺を捉えていた。
鴉の濡れ羽のようなツインテールを揺らしながら、彼女はこちらに歩み寄る。そうして俺の前で立ち止まった。
「ねぇオタクくん。ちょっと話そ?」
俺の腕を掴んだ彼女の手のひらは、春の陽気とは対照的にあまりに冷たく、まるで死人みたいだな、とぼんやり思った。