お父さまは大変です その4
その音から、辺境伯の状態が急速に変化しました。
「い、いや。しかしだ。アルと結婚させたら、すべて丸く収まると──ひぃ」
辺境伯の大きな身体が小刻みに震えています。
顔も身体も巡っている血液が止まってしまったのではないかというくらいに、黒ずんでおりました。
「そ、それはアルには婚約者がいるが。そんなものは領内の話であるし、破棄させて適当に詫びておけば問題はなかろうて。その方がお前も嬉し──」
バシンバシンバシン。
超高速で繰り出される音は、もはやひとつの長い音のようでした。
「あろうことか愚物に成り下がり。そのうえこの私を同じ愚物に捉えるとはな」
サッ。
閉じた扇は、辺境伯の顎の下へと添えられます。
そしてそのままゆっくりと辺境伯の顎が上がっていきました。
ぐぐぐっと奥歯を噛み絞めて耐える辺境伯の瞳に、笑みを深めた夫人の顔が映っています。
「お灸が必要なようですわね?」
ここにきて取り戻した美しき言葉は、伯にとって今夜の最後通告となりました。
「ま、待ってくれ。待ってくれよ。反省する。深く反省するから。だから──」
「学びなき者に反省は不要」
それからどうなったか。
それは知らない方が良いどころか、少しの想像もしない方があなたのためとなります。
さてさて、それからまた月日は流れ。
辺境伯と夫人が似たような夜を重ねたのち、娘は侯爵へ嫁ぐために領地を出て行きました。
その後辺境伯は、滂沱の涙と共にある日々を重ねることとなります。
そしてついにある日の夜のことです。
寝室には、ボロボロの様相で震えながら机に向かう辺境伯の姿がありました。
ペンを持って手紙を書き始めた彼は、最初こそ何枚も書き損じていたものですが、筆が乗って来るとやがて彼の手元の紙は身勝手な想いを書き連ねただけの、読み手のことを何ら考えられていない長編の手記へと変貌していくのでした。
背後でバシンバシンと大きな音が鳴っていることにも気付かないほどに、伯は書くことに熱中し過ぎてしまったのです。
ですからもちろん、その後には────。
これぞ、神でさえ知らない方が幸せ、というものになります。
「目も当てられない」
部屋をそっと覗いたあとにぼそりと呟いた青年は、その場から離れながらなお独り言を零しておりました。
「まぁ、良かったのかもしれないね。すべてが丸く収まったのだから」
不気味な低い呻き声が聞こえてきましたが、青年は振り返りもせずに廊下を進みます。
「だがまだまだ足りていない。僕の可愛い可愛い、可愛い可愛い可愛い婚約者を排除しようとした報いは、しっかりと受け取って貰わないとね。ふふふふ」
ちょうど廊下を歩いていて、青年の笑みを見掛けた侍女は同僚たちに語ります。
「坊ちゃまはご立派になられました。今のご年齢であのお顔をお作りになられているのですから、奥様を越えられる日もそう遠くない未来にあろうと」
ちなみにこの侍女は嫁いだ娘の専属侍女でしたが、今後は次代の辺境伯夫人のお世話をする予定としてこの屋敷に残っています。
「次期様がいれば、この地は安泰ですな」
「本当に。坊ちゃまは奥様に似ておられて良かったですよ」
「もしも旦那様に似ていらしたら、矯正が大変でしたなぁ。わはは」
辺境伯がいかに平和な屋敷の中ではぽんこ……少々足りない男であるか、嫌でも分かる会話は長く続いておりました。
しかしこと戦に関しては、これ以上の当主なし、と誰にも文句なしに言われる男でもあるのです。
これが当代の辺境伯。
さぁ、次代はどうなっていくのでしょうか。




