お父さまは大変です その3
それは遠い昔の話です。
確かに男には、娘にパパと呼ばせようとして画策した日々がありました。
これを辺境伯は、歪めて記憶してしまったということでしょうか。
はじめてパパと呼ばれた日について、今でもたびたび目を潤ませて語る伯なのですが、どうしたって無い過去は現れません。
しかも伯は娘がはじめて話した言葉が『パパ』だったと主張しているのですが、娘の最初の言葉は『きしだんちょう』であり、それを聴いた誰もが「この子は辺境伯領随一の女騎士となる!」と期待したものでした。
それ以来、辺境伯と騎士団長は微妙な関係を保つようになりましたが。
いつしか伯が記憶を改ざんしたことで、今ではそこそこに関係も改善されているようです。
さて、それからも娘が伯を『パパ』と呼ぶ日が来ることは一度もなく、夫人や侍女たちから教育を受けていた娘は、気が付けば父親を『おとうさま』と呼ぶようになっていました。
えぇ、ですから。
伯の記憶違いは相当なもの。
辺境伯領内の庶民であっても、それは少々……と言いたくなるくらいでしたから。
身近な人たちが、精神的に影響を受けていても仕方のないところだったのです。
「うぅ……もし二度と『パパ』と呼ばれぬことになったなら……あぁ、私はもう……」
ダンっという強く短い音が響きました。
この音の出所は知らない方が幸せですので触れません。
足元の床が窪んでいる?
見なかったことにすべきことが、この世には沢山あるのですよ。
「なっ。何故だ?お前だって、あの子にもう『ママ』と呼んで貰えないのかもしれないのだぞ?あのキラキラした目で、憧れていますって書いてあるあの澄んだ目で、もうお前を──」
「おまえ?」
「あぁ、それは違う。違うんだ。今のはいつもの癖が出た。わ、分かっている。忠臣だろうと、部下だろうと、そう呼んではならんと言っていたな。あぁ、分かっているとも。いつもは呼んでいない」
パシン。
その音と共に露わになったのは、ニコリと笑う婦人の美しい顔でした。
「違うぞ。いつも言っているから出たわけではないからな。いつもはちゃんとしているから、この件で指導は要らぬぞ?」
ミシリ。
夫人の手元で、曲がるはずのないものが曲がろうとしています。
「待ってくれ。もう少し話を。話を聞けばおま──君も分かるから!」
バシン。バシン。
音と音の間隔が今までよりも随分と短くなりました。
「そもそもだ!どうして結婚に反対しなかった!おかしいだろう!」
バシン。バシン。バシン。
「陛下からの有難いお言葉がなんだ!我が家ならいくらでもやり様はあったはずだ!それをお前が──」
バシン。
それは今までで一番大きな音となりました。




