お父さまは大変です その2
月日は流れ、ある日遠い王都から辺境伯領に書状が届きます。
それは辺境伯家の娘を侯爵家へと嫁がせろという内容の王からの書簡でした。
とはいえ、まだ正式には打診が届いただけの話。
王命と呼ぶような拘束力のある内容ではありません。
ですから断れたのですが、その忠義の厚さでは右に出る者なしと言われ続けてきた辺境伯家です。
王からの有難い提案を断るわけは──たとえ領内で揉めていようと──ありませんでした。
こうして辺境伯家の娘は、遠く離れた領地を持つ侯爵家へと嫁ぐことが決まったのです。
さてこの決定は、辺境伯家の力関係を本来の形──何をもって定めるかによっては反転する──へ戻す作用を持っていました。
ある日、夫婦の寝室で女性の声が低く響きます。
「最後に話した方がよろしいのではなくて?」
まだ優しい言葉で夫人が問い掛けるも、辺境伯は部屋の中を歩き回りながら、ぶんぶんと首を振っておりました。
王命が届いてからというもの、この男は落ち着くときがありません。
おかげで辺境伯領の騎士団では、無駄に怪我人が増えている始末。
パシン。
その鈍い音は夫人の手元からでした。
開いていた扇が閉じられたのです。
ここで辺境伯の歩みが止まります。
そして彼はやっと口を開きました。
「駄目だ、駄目だ。そんな重要な話を今になってしては、本当に最後になってしまうではないか」
バシン。
今度の音も夫人の手元からでした。
その動きは確認出来ませんでしたが、どうやら閉じた扇を手のひらに打ち付けたようですね。
「いや、待て。最後まで聞いてくれ。騎士には言ってはならぬ言葉があるだろう?あれと同じだ」
バシン。
同じ音が聞こえるたびに、伯の顔色が黒ずんでいきます。
「これが終わったらプロポーズするんだ。無事帰ったら、妻に今度こそ愛を伝えるんだ。その手のあれだ!」
バシン。バシン。バシン。
言わずもがな夫人の手元からの音でした。
「私だって話さねばと思っている。しかしっ」
シュバ。
今までと違うこの音は、扇を開いたときに生じたのでしょう。
夫人の顔は開かれた扇で完全に隠れています。
そして辺境伯の顔色は、もはやこの領地にある鉱山の薄暗い発掘現場で見る土の色です。
「今のは確かに言い訳だ。だが……だって……本当のことを話して……もう『お父さま』と呼んでくれなくなったらどうするんだぁ」
泣き出した身体の大きなこの男は、間違いなく当代の辺境伯なのです。
さてここでチッという音がどこから聴こえたか、それは知らないほうが幸せなこととなります。
「分かっているんだ。私は狡いことをしていると。あいつから『パパ』と呼ばれる機会を奪い……だがもうこの権利は返したくないのだぁ」
ちなみに娘がこの男をパパと呼んだ日はありません。
それでも何故か、この男はたびたびそう言っては、夫人の前で泣いてきたのでした。