74.後始末はお母さまにお任せです
「あなたたちが成長しても娘に遅れを取るとは思いませんでしたわ」
赤い唇の端を上げてにっこりと微笑む夫人が、ハルには魔王に見えていた。
そして同時に、先ほどのミシェルにこの魔王の片鱗を見たことを確信する。
血の繋がりはまったくない二人であるが、この母娘はよく似ていると、ハルは昔から知っていた。
「いや……はは……ミシェルが凄いのかと……」
「甘えたことを。ご一緒に鍛錬をして来られては?」
「いやいや、僕らは、ほら、話を詰めたり……あとはジンと色々とね。あれだよ、兄上とか父上から伝言も頼まれてきたからさ」
レーネとミーネが姿を消したからなのか。
それともそれだけ余裕を失ったのか。
ハルの口調はジンにするように砕けた状態に変わっていた。
ツンと冷えた目でハルを一瞥したあと、夫人の視線はジンへと注ぐ。
「あなたも先ほどはわたくしに強気に言い返しておりましたが、娘一人抑えていられないような方に大事な娘は預けられませんことよ」
「そ、それは──かたじけない」
ジンには言い訳が出来なかった。
そっと手を重ねられて、そう、時折重ねられる手が嬉しくて、つい気が緩んだ瞬間だった。
気が付いたら重みが消えて、大事な妻が腕の中から消えていたのだ。
せっかく動かないように、今の自分には妻を守れると誇示するためにも、腕の中に抱えていたというのに。
「いやぁ、でもさぁ。ミシェルがまだあれだけ動けるとは驚いたよ。昔も速かったけれど、さらに磨かれたんだねぇ」
空気を変えようと、ハルはしみじみそう言って過去を懐かしんでみるも。
「娘が日々鍛錬を続けている間に、お二人は余程怠けていたのでございましょう。せっかく身体だけは随分と大きくなりましたのに」
「そ、それはだって……僕らはそれなりに忙しくしているからさ……ほら、ミシェルと違って王子の仕事とか、侯爵の仕事とか、ねぇ、ジン?って、ジンは聞いているの?おーい」
「言い訳は不要」
「いや、でも、だって。夫人だって動いていなかったよね?」
「わたくしはミシェルに任せようと動かなかっただけです。でなければ、扇を飛ばしておりましたよ」
ハルはもう恐ろしくて黙った。
それがはったりでもなんでもないことを知っているから。
ただし夫人は、ミシェルより速く動けた、とは言っていない。
扇で一人の娘が気絶していたことは確かであろうが。
さて、ハルが震える最中、ジンはというと……また夢の中に戻っていた。
「綺麗だった──流れる髪に神の光を集め、揺れるドレスは空を舞うためのかの神具のように──輝く瞳はかつて共に見た美しき湖面のきらめき──いや、やはりどんな言葉を持ってしても──」
バシン。
ここ一番の強烈な音は、閉じた扇が壁を叩く音であった。
「この場の後始末はしておくわ。お二人も鍛えていらっしゃい!」
結局部屋から送り出される二人の男だった。
辺境伯領の北の砦にかの軍神あり、とかつて呼ばれていた夫人に、若い二人が叶うはずもない。
後始末……それは壁の凹みも含まれるのだろうか。
喜々として走り出したジンを追い掛けながら、ハルはその考えを止めていた。
辺境伯家は楽しいけれど。
遠くから見ているくらいがちょうどいい。
成長して男女の体格差がはっきりした今なら、ミシェルにも軽々勝てるのでは?
いいところを見せて、変わったね、よく成長したねと褒められたい。
何せあの頃、負けっぱなしだったから……。
そんな甘い気持ちで遊ぼうと誘った自分を、強く、強く後悔しているどこかの王子様なのだった。




