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【完結】あなたを愛するつもりはないと言いましたとも  作者: 春風由実
本編

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73.後のことは考えられず


「そうだわ、レーネ!あなたもどう?」


 部屋を出ようとしていたミシェルは、くるりと振り返り、満面の笑みで尋ねた。

 その昔、同じ年ごろの子どもたちを遊びに誘っていたときと同じ顔だ。


「え?」


 背中に回された両腕を片手で押さえられ、後ろから押し出すようにして無理やり歩かされていた妹に、なんとも言えない顔を向けながら、レーネは戸惑い周りを見渡す。


 しかし誰も目を合わせてくれなかった。

 皆、酷い。


「あなたも辛いのでしょう?鍛えましょう!」


「はい?」


「さっきから何を言っているのよ!痛い。痛いってば」


 辛いのでしょう?鍛えましょう!とはなんだ。

 ハルは額を手で押さえ、夫人は今も扇で顔をすっかり隠していた。


 そしてジンは──両手で顔を押さえてその指の隙間からミシェルを見詰め、何故か震えている。


 妻の変貌ぶりに驚いた……わけはないだろう。彼の目は潤んでいたのだから。

 まさかこんなはずではと泣く男ではあるまい。


「してしまった悪いことは消せないけれど、心は入れ替えられるわ!善良な魂は強い肉体に宿ると言うでしょう?」


 違う。そうではない。

 誰にも届かなかったハルの呟きである。


「善良な……?」


「おかしなことばか──痛い、痛いってば!手が痛いのよ!いい加減離しなさない!痛い~」


「だから今から鍛えるのよ!さぁ、レーネも行きましょう!」


 扇の向こうで夫人が頷いたことを確認してから、こわごわと立ち上がったレーネは、無理やり歩かされている妹とミシェルの後についていった。


 いい予感はしないけれど、いずれにせよ自分の未来は厳しいものになるのだから。

 この地でちょっと厳しくされておくのもいいかもしれない。と従姉妹への罪悪感からそのように考えたことは、すぐに後悔することになるレーネだったが、まだそれを知らない。



 そうして応接室を出ていく三名の令嬢と侍女。


 痛い痛いと叫ぶ声に「しっかり歩く!あなたは反省出来る子よ!」と叱咤激励の声、「すべての準備が整っております」と告げるシシィの声などがしばらく聞こえていたが、やがて部屋は静かになった。




 静寂を破るはぁ~と長い溜息はハルからである。

 夫人もまた扇を閉じて「仕方のない子ね」と囁いた。


「なぁ、ジン。あれでいいの?」


 顔を押さえてぶるぶる震える男を、白い目で見詰めながらハルは聞いた。


「君……何も変わっていないね?」


 ジンが急に顔からぱっと手を離す。

 露わになった瞳は虚ろで、どこにも焦点が合っていない。


「女神だ──女神を見た!」


「あー、うん、美しかったけれどさぁ」


「まごうことなき闘いの女神。あの頃と何も変わって──いや、あの頃よりずっと美しい闘いの女神だった──あぁ、どうしてだ。あれだけ特訓してきたのに、どの言葉も出て来やしない──あの無駄のない洗練された美しさを前にすればどんな言葉も──」


 特訓とは何だ……?

 気になったハルは、しかし口を噤んだ。

 藪蛇は避けるべきだ。


 だが誰かが止めなければ、ジンは永遠にその美しさを讃えるように思われた。

 それはそれで耳障りだし、目障りだな、と辛辣なことをハルが考えたとき。


 止めてくれる人が現われる。

 しかしそれはハルの期待した通りの展開を運ばない調べだった。



 バシン。

 扇を打ち付ける音に、息を呑んだハルの背中に嫌な汗がじわじわと広がっていく。


 もういやだ、こんな仕事は二度と引き受けないぞ。

 王都に戻ったら父と兄に猛抗議しようと決めたハルだった。





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