王立騎士団と銀の犬 1
まるで景色が、流れていくみたいに、一人抱き上げたままなんて嘘みたいに、風のように一人の騎士が王都を駆け抜ける。
王都を歩く人々は、何事かと視線をそちらに向けるが、抱き上げられている人間の姿は、妙に印象に残らず、赤みを帯びた薄茶色の髪をした騎士だけがその記憶に残った。
「あんたの爪、紫色だな?」
「――――魔法薬の在庫が残り少ないから、朝から作っていたので染まっちゃいました」
「そうか……。本当に在庫は、なかったんだな。乱暴な対応をして、申し訳なかった」
エレナは首をかしげる。王立騎士団の規律は厳しく、完璧な礼儀を求められる騎士団員にしては、この騎士は自由な印象が強い。
馬車を追い越した騎士が、エレナを抱え、片手に魔法薬の瓶をつかんだまま、高い塀に足をかけると、軽々と飛び越えた。着地の衝撃を恐れて、目を瞑ったエレナだったが、トンッと軽い音だけで、いつまでもその衝撃が訪れることはない。
「――――おい、ジャン・リドニック! 飛び出していったと聞いたが、問題を起こしていないだろうな?!」
白髪交じりの金髪に、冷ややかなグレーの瞳をした壮年の騎士が、ジャンと呼ばれた騎士を咎めるように呼び止めた。
「ん……。誰を抱き上げている? どこから攫ってきた」
「攫ってない! ……合意の元だ」
先ほどの出来事が、エレナの脳裏をよぎって消えていった。
やっぱり、その判断が正しかったのだと、エレナは小さくため息をつく。
(ですよね。誘拐は未遂で終わりました。リドニック卿は悪い人では、なさそうですし)
「リドニック卿、降ろしていただけますか?」
先ほどまでの対応が、嘘みたいに、優雅な所作でエレナをおろしたリドニックが、まるで貴族令嬢を前にした騎士のように、膝をついた。
「……急な訪問をお許しください。魔術師ギルド職員、エレナと申します。リドニック卿の依頼を受け、解毒の魔法薬の納品に参りました。ただ、魔法薬は作ったばかりで計量もしていません。訪問の許可をいただけますか?」
平民であるエレナには、名字がない。
(リドニック卿は、自由に見えたのに貴族だったのね)
確かに、なぜか跪いて平民のエレナに敬意を表しているリドニックは、誰が見たって貴族の気品を感じるだろう。
「……まさか、魔術師ギルドの職員がわざわざこの場に来てくださるとは。後から問題になるかもしれませんが、今は時間がない。一緒に来ていただけますか? ただ……この中で見たことは、口外されるわけにいかないのです。誓約魔法を使わせていただいても?」
「――――仕方ありません。だって、この魔法薬が必要なんて、毒で苦しんでいる方がいらっしゃるのでしょう?」
「聡明なお方ですね……。では」
壮年の騎士が、ふわりと淡雪のような魔法をエレナの唇にかける。
「これで、この敷地から出るまで見たり聞いたりした出来事については、一部の人間を相手にした場合を除いて、話すことができなくなります」
まるで、当たり前のようにエスコートの手を差し出しながら、騎士は「ゴルドン・フィアンツと申します。エレナ嬢、今回の件、騎士団を代表して感謝いたします」と口にした。
(えぇっ、副騎士団長、炎楼のゴルドン・フィアンツ卿?! ものすごい大物が出てきた!?)
それでも、時は一刻を争うらしい。エスコートのため差し出された手に、エレナが手を差し出した瞬間、足早にゴルドンが歩き出す。
リドニック卿が飛び越えた場所は、騎士団の詰所の裏口に当たるようだった。
そのまま、厳重に侵入者防止の魔法がかけられた扉を、いともたやすく開いて、中に入ったゴルドンの後ろをちょこちょこと忙しなく足を動かしながら、エレナはついていく。
裏口のせいか、誰とも出会わず、妙に静かな館内。
王立騎士団の、中央詰所は大所帯だ。
(どうして、誰とも会わないの)
首をかしげながらも、通された室内。大きなテーブルに瓶を置いて、エレナは急いで計量を開始する。
「ガラス瓶、ありますよね?」
「ええ……。魔法薬の空瓶が」
用意された空瓶に、薬を詰めれば、予想通り三十人分の解毒の魔法薬が出来上がった。
「ところで、何人分必要なのですか?」
「十八人分あれば、事足りるでしょう」
「そうですか。それでは、帰ります。報酬は、後日、魔術師ギルドにお支払いください」
エレナがそう告げたとたん、年若い騎士が数人、ひどく慌てて部屋に飛び込んでくる。
「――――ゴルドン卿! どうしても、部屋に入れてもらえないのです」
「……そうですか。では、君たちは毒を受けている団員に、薬を配りなさい」
「はっ!」
ゴルドン卿が、エレナのほうを振り返る。
困惑した様子に、エレナは小首をかしげる。
「――――これ以上迷惑をかけるのは、心苦しいのですが……、もう一つだけ、依頼を受けていただけないでしょうか」
「……魔法ギルドの職員と言っても、私は受付係です。できることは、それほど多くないですが」
「騎士団員は、制約があって、特別な命令に逆らうことはできないのです。どうか、あちらの部屋におられる方に、解毒の魔法薬を届けていただけないでしょうか?」
「――――騎士団員でない私なら、入れるってことですか。……それくらいなら」
エレナは、残っていた小瓶を一つ手にすると、ゴルドンに案内されて、重厚な扉の前に立った。
明らかに、外の部屋よりも豪華な造りの扉だったが、使命感に燃えているまじめなエレナが、それに気を止めることはなかった。
エレナが重い扉を開くと、バチンっと魔法が解かれる感覚と主に、目深にかぶっていたフードが強風に煽られたようにはずれる。この部屋には、魔道具を無効化するような高度な防御魔法が掛かっているらしい。
エレナのパールブルーの髪の毛が、零れ落ちキラキラと輝く。そして次の瞬間、スミレ色の瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。
(大きな銀色の犬?)
モフモフが好きすぎるエレナは、熱っぽい視線を送ってしまう。
しかし、短い呼吸をしている、その銀色の犬は、とても苦しそうに見えた。
「ジャン・リドニック。……今度はどうやって入り込んだ? すべての団員が、解毒の魔法薬を口にしてからでないと、飲まないと言っているはずだ」
「ふぁ……、犬がしゃべった」
いぶかし気に顔を上げたその犬は、金色の瞳をしていた。
「……君は」
「ほかの団員さんたちも、ちゃんと魔法薬が届いてます。あなたも、毒を受けているんですよね? 早く飲んでください」
「だが……」
すでに体力をかなり消耗しているのだろう。抵抗すら弱弱しい。エレナは首元に片腕をまわすと、計量用のスポイトに、魔法薬を吸って、銀の犬の奥歯側から、それを何回かに分けて流し込む。
ゴクゴクと、解毒の魔法薬が呑み込まれたのを確認して、エレナは微笑んだ。
その笑顔を、銀色の犬の金色をした瞳が、じっと見つめる。
「――――今回の解毒薬は、一部の材料がなかったので、すごーく眠くなる副作用が出ます。……おやすみなさい。理想のモフモフさん」
エレナの作る魔法薬は、性能が高い。そして、独自のレシピだ。その分、他にはない副作用が少しばかり強く出てしまうことが多い。
だが、ぐっすり眠れば、毒で失われた体力も、回復するに違いない。
まるで、昨晩手に入れた、フェンリルのぬいぐるみの実物みたいなモフモフに後ろ髪をひかれながらも、エレナはその部屋を後にした。
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