二匹の狼と騎士と陽だまり
王都の小高い山、赤みを帯びた薄茶色の毛並みと瞳をした、一匹の狼が崖の上から、王都の街並みを眺めていた。
その狼のほかには、狼の姿はない。
そもそも、狼なんて、人が多い王都近くの山になんて、いるはずもない。
「……気楽だな。こうやって生きていればいいのに、なぜあんなに窮屈な貴族社会に縛られているんだろう」
赤い狼、つまりジャン・リドニックは、一人つぶやいた。
つい先日まで、ジャンは強さこそ騎士団長レイ・ハルトに並ぶとしても、どこか自由気ままで、騎士道なんて気にすることもなかった。
もちろん、出来ることと、やらないことは別で、負けず嫌いなジャンは、礼儀作法も身に付けている。
リドニック伯爵家は、自由な家風だった。
はるか昔に、王国を蹂躙した竜を倒した英雄は、リドニックの姓を受け、姫君を妻に迎えた。
「王族の血を少し受け継いでいるせいで、まさか狼になるなんて」
人生わからないものだ。
けれど、この姿は、とても自由で、貴族社会に溶け込めないジャンには、合っているように思えた。
ジャンが五歳になり、初めて狼の姿になったのを目の前で見た母は、「まあ。元の姿より可愛いわ」と言った。
その言葉は、どうなのかと、今も思わないでもないが、ジャンの母が、変わった人なのは間違いない。掴みどころのない母は、今もふわふわ少女のような人だ。
おかげで、ジャンは真っ直ぐに、自由に、そしてあまりにも野生的に育ったのだった。
ジャンは、まっすぐに山道を駆け降りると、目的の場所へと向かった。
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それは、今から三年前のことだ。
その日も、一人で狼の姿になり、野山を駆け回っていた。代々騎士を輩出しているリドニック伯爵家の三男として、間も無くジャンも騎士団の入団試験を受けることになっていた。
騎士になることにしたのは、憧れなどではなかった。ただ、リドニック伯爵家は、兄も騎士となり、当たり前のようにその道に進むことにしただけだ。
運が良いのか、ジャンは身体能力は、周囲よりもずば抜けている。だから、騎士団でもやっていけるだろうと、気楽に構えていた。
「おい、伏せろ」
「っ……?!」
その瞬間の光景は、目に焼き付いて二度と忘れることはないだろう。
炎の塊が降ってきて、美しかった山の木々は、あっという間に燃え尽きた。
「逃げられるか?」
そこにいたのは、人の言葉を話す銀色の狼だった。つまり、彼はジャンと同じ類の生き物だ。
「ああ、逃げられるけど、逃げるのは性に合わないな」
「……やはりお前も、俺と同じか」
それが、当時の王立騎士団副団長レイ・ハルトと、ジャン・リドニックの出会いだった。
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「……それって、三年前の不死鳥討伐の時の話ですよね?」
「そうですよ?」
「……狼姿になっていたってことは、レイ様は、死にかけたのですか?」
恐る恐る。それでも聞かなくてはいけないという、使命感に駆られたようにエレナが、遥か目線が下のジャンに問うた。
窓から差し込む光が、柔らかく赤みを帯びた毛を、艶やかに光らせる。
「たぶん、魔力が尽きて、隠れて休んでただけですよ。死にかけるだけでなくて、熟睡したり、魔力が尽きても、俺たちはこの姿になるんですから」
(前回の不死鳥討伐では、騎士団にも多数の被害が出たって聞いたもの。レイ様が、大怪我をしたとかじゃなくて、良かった)
エレナは、心から安堵の吐息をついた。
その姿を見ながら、あの堅物のレイ・ハルトが、この姿を見たら、どんな反応をするのだろうかと、陽だまりの中で想像しながら、狼姿のジャンはゴロリとお腹を出した。
「うくっ! モフモフのお腹!」
小さな小さな独り言が聴こえる。
ジャンは、この姿の時は、どんな小さな音でも聞こえてしまうんだけどなぁ。と思いつつ、今度はくるりとお腹を下にして体を伏せると、上目遣いにエレナを見つめ首を傾げた。
(きっと、リドニック卿は、確信犯だ)
「はわわ」
分かっていても、目の前のモフモフの誘惑には抗い難いものがある。
感極まったように、エレナがジャンを見つめてくる。あと少しで、目の前の狼が、実は騎士なのだということを、忘れてしまいそうだ。
「ジャン・リドニック。ずいぶん楽しそうだな?」
その時、珍しく不機嫌な上司の声がした。
「レイ様! おかえりなさいっ!」
先ほどまでよりも、何倍も嬉しそうなエレナの声が、頭上から降ってくる。
「っ……エレナ。ただいま」
おかえりと言われたことに、感動してることを押し隠しているらしいレイの口元が、軽く歪む。
「いえいえ、護衛任務に忠実に励んでいただけですよ?」
ジャンは、元の姿に戻る。
癖のある髪の毛と瞳の色だけは、先ほどの狼と同色の、まだ年若い騎士の姿に。
「ああ、そういえば今日はきちんと訪問前に、連絡を寄越したらしいな?」
「……ちゃんと連絡入れると、エレナ殿と、約束してしまったので」
「約束通り肉を焼いてある。食堂で食べようか」
「肉ですかっ!」
(まるで、尻尾をブンブン振っているような幻影が見えるわ)
微笑ましいものを見たように、ニッコリとしたエレナ。その姿を横目で見ながら、ジャンはエレナの騎士になると、密かにもう一度決意した。
「そうすれば、敬愛する団長殿の家で、毎日お肉が食べられますしねっ!」
「何か良からぬことでも企んでるのか?」
「いえいえ、近い将来に、叶えたい夢の話ですよ」
束の間であっても、レイの屋敷にかつてなかった笑い声と、幸せな時間が過ぎていくのだった。
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